第2話




 睦月ヤツの異変に気付くのは、さらに翌々日のこととなる。



 五時限目中盤。舞台は(なぜか)神聖ローマ帝国。

 しかし……と哲哉は思う。

 春の陽射しが柔らかく入り込んできて、しかも昼食時に平らげたモノがそろそろ消化を始めようかというこの――安眠にはもってこいの――状況で「寝るな」と言われるのは拷問に近いものがある。

 そうしてこの時限に入ってすでに七回目となる大欠伸を、廊下側最後尾のこの男は遠慮なくやってのけた。

 もはや真面目に授業に耳を傾けようという気はゼロに近く、カエサルがどうのエジプトがどうのと熱く語る世界史担当教師の声が虚しく頭の上を通り過ぎていく。


(なんだ……ほら、俺だけじゃねーじゃん)


 辺りを見回して、思わずふっと笑みをこぼした。

 気付くと、睡魔と戦って目つきが怪しくなっている生徒やコクリコクリと船を漕いでいる者、あからさまに机に突っ伏してしまっている連中までいるではないか。

 んじゃ俺も寝っかな……と本格的に欠伸をして、虚ろな視線を何気なくさらに周囲へと巡らせかけた、その時。


 窓際から三列目、後ろから二つ目の席で、ふと視線が止まる。

 そこに座す生徒――大谷睦月の顔色の悪さが尋常ではないことに気付くのに、そう時間はかからなかった。

 この距離で、それも斜め後ろからしか窺えないこの状況でさえはっきりと異変を感じ取れるほど、表情からはすっかり血の気が失せてしまっている。

 一気に目が覚めて、おいおいおい……と思わず哲哉は身を乗り出した。

 いつもクールを通り越して無表情仕様のあの大谷睦月が――。

 すでに鼻腔だけでは追いつかないのか、わずかに開けた口で浅く速い呼吸を繰り返しながら脂汗の滲む額を片手で覆い、もう片方の手が苦しげにネクタイごとワイシャツの胸元を鷲掴みにかかっている。

 目は固く閉じられ、汗ばんだ肌とは裏腹に唇はカラカラに乾いているように見えた。


(あいつ……やべーんじゃねえ?)


 周囲を見渡すも誰も異変に気付いていなさそうで、教諭も板書のためこちらには完全に背を向けてしまっている。

 そうとう具合が悪そうなのになぜ訴え出ないのだろう。我慢してどうにかなる状態にはとても見えない。

 不審に思いながらも、ならば代わりに自分が、と哲哉が教師に向けて口を開きかけたのと、斜め前方で睦月の身体が大きく揺らいだのが同時だった。


「! おい……っ!!」


 叫び声に近い呼び掛けとともに立ち上がり、勢い余って自分の椅子を倒してしまっていた。

 突然の怒鳴り声と倒れた椅子の音に、全員が驚いて哲哉を振り返る。


 その一呼吸前、確かに目が合ったと思った。

 苦しげに表情を歪めたまま、だが驚いて微かに見開かれたヤツの視線と。


「何だー? どうした、桜井?」


「あ、えっ……と」


 教師の安穏とした声を半分聞き流しながら、再度ちらりと斜め前方を見遣る。

 青ざめた顔のまま、だがすでに何事もなかったかのように上体を起こして、睦月はこちらから顔を背けていた。


「哲くん?」


 気遣わしげに隣の洋海ひろみも見上げてくる。


「あ……えと、ちょっと具合悪そうなヤツが――」


 そこまで告げ、ぎょっとして哲哉は言葉を呑み込んだ。

 わずかに見返り、余計なことを言うなとばかりに睨んできていたのだ。今にも倒れそうなあの半病人が。

 不調を知られたくない、ということか。


「――元気になってめでたしめでたし、という夢を見てました」


 いつもどおり軽いノリで締めくくると、小さな笑いがあちらこちらで起こり、教師からは指さし付きで高らかに廊下行きを宣告された。







「――よお」


 授業終了チャイムとほぼ同時に転がるように教室を飛び出してきた睦月に、ひらりと手を振ってみせる。向かおうとしている先はトイレか保健室か。

 先ほどと同様一瞬視線が合ったものの、睦月は素知らぬ顔で足早に哲哉の前を行き過ぎようとする。


「なんで俺こんなトコに立たされてると思う? つか、今どき廊下ってあり得なくね?」

「――」


 口を開く気はさらさらない、とばかりの無表情で見事に素通りされた。


「お、おまえなあ! ……って……おいっ!?」


 さすがにイラついて引き止めようと伸ばしかけた手が、とっさにその細い身体を支えることになった。

 すぐ目の前で、睦月がまたもや大きくふらついたのだ。


「おまえ……大丈夫かよ」

「!」


 図らずも後ろから両肩を支えられる形となり、はっとして睦月は哲哉の両手を振り払う。

 よほど構われたくないのかあわてて後ずさろうとしているが、やはりまだ顔色は悪く、息も荒い。


「どっか悪いんじゃねーの? 無理すんなよ」


「……関係ない」


 カッチーン。

 体内のどこかで聞き慣れない効果音が聞こえた気がした。

 にべもなく吐き捨てられ、さすがに温和な哲哉くんも怒っちゃうよー?と、あえて朗らかな脳内ナレーションを流しつつ意を決して一歩だけにじり寄るも。


「あのなあ、さっきだって誰のおかげで騒ぎにならずに済んだと――」

「頼んでねーよ」



 ――石化。


  




 

「えーいいなあ! 哲くんだけマトモに会話できてー」


 未だ半数近くが残って帰り支度やらバカ騒ぎやらでにぎわっていた、放課後の一年二組。

 教科書類をまとめながら、隣の洋海ひろみに一部始終を話していたのだが。


「マトモ……って」


 盛大にコケそうになるのを何とか踏みとどまり、哲哉は信じられないモノを見る目付きで洋海を見下ろした。

 頬を上気させて羨ましそうに見上げられる意味がわからない。

 関係ねー、頼んでねー、と吐かれただけのどこがマトモな会話だ……とげんなりして、通学カバンにしているデイパックを少々手荒に引っ掴む。


 目線だけでちらりと窺うと、例の席にすでに大谷睦月の姿はなかった。

 今日に限ったことではないが授業が終わるとまず速攻帰宅しているらしい。


(友達付き合いするでも部活に励むでもなく……? バイトでもしてんのかね? ……いや、でもあんな弱そうな体じゃ何もできんだろう)


 何となく浮かんだ思いつきにふるふると頭を振りながら、昇降口へ向けて歩を進めた。 


「あれ? 今日こそ覗いてみるんじゃなかったの? サッカー部」


 すっかり帰る流れになっている哲哉を、自らも靴を履き替えながらキョトンと洋海が見上げる。


「んー……なんかそんな気分じゃねーし、いいわ。帰る帰る」

「このまま帰宅部で終わりそうな気もするね」

「するねぇ。いーけど、それでも」


 何がなんでも入部したいわけではない。花の高校生活とはいえ放課後は暇そうだし、もし何か部活するなら、という話の流れで何となくサッカーを口にしただけだ。

 テニスラケットを抱えた女生徒数名が楽しそうに数歩先を歩いていく。

 遠くから聞こえるのは野球部の威勢のいい掛け声。


 並んで正門を出たところで、さっきの続きをとばかりに洋海が口を開いた。


「大谷くんは体が弱いんだって。だからすぐ帰っちゃうのかもしれないね。体育も見学してるんでしょ?」


 窺うように見上げられ、そうだったっけ?と、数日前一度だけあった体育授業を思い返してみる。

 一組男子との合同ランニング中に、言われてみれば睦月の姿は無かった……ような、あったような……。

 どうだっただろうか。

 その時は特に気にする要素もなかったため、ぶっちゃけ記憶にない。


「なんかね、お医者さまに止められてるらしいよ」

「そんなにか? ――何か病気?」

「わかんないけど……。でもそんな感じもするよね、色白だし。薄幸の美少年って感じで」


 なら倒れそうにもなるわな、と今日のフラつきっぷりに合点がいく。

 と同時に、ふと消えかかっていた炎が再燃した。

 だからといってこちらの心配をあれほど力一杯振り払わなくてもいいではないか。

 体育の授業さえドクターストップかかるくらい虚弱体質なら、おおっぴらに周囲にひけらかして心おきなく心配されやがれ、というのだ。


洋海おまえそれ、あいつ本人に聞いたのか?」

「まさか。女の子たち何いても無視されちゃうから、先生に訊きに行ったんだって」


 無視――……あいつなら平気でしそうだ。

 ありありと目に浮かんで苦笑いが出る。

 本当に誰にでもそんな態度なら……なるほど。でもマトモな会話を交わした唯一の人間ということになるのか、自分は。

 複雑な思いがするだけで、これっぽっちも嬉しくはないが。


「んで、そこまでシカトされてんのに何であいつがいんだ、女どもは?」


 確かに見苦しくはなく繊細な顔立ちをしているとは思うが、とにかく線が細く、男子の中では身長もかなり低いほうだ。そのうえ虚弱ときた日には……。

 善からぬ連中の格好の餌食苛めのターゲットにこそなれど、女子にきゃあきゃあ言われる対象になりうるとはとうてい思えない。

 が、現に水面下で人気を集めつつあるというのだから、女の趣味というのはまったくもって謎である。


 ひとつだけ腑に落ちるというか、強烈なことはあったな、と授業中目が合ったあの瞬間を思い返していた。

 ひ弱な身体に似合わず睨み付けてくる眼といったら――

 まあ確かに……妙に迫力があって、驚いたが。


「『クールで良いよねー! 彼のシカトなら許せる!』……だって」


 ………………謎だ。

 キレイめな顔をしてれば何でもアリなのか。 

 女ってわからない。


「あーいうのもいいけど、やっぱりあたしは素敵なオジ様だけどね!」


 きゃううぅ!と顔を真っ赤にして鞄を抱き締め悶えている幼馴染みをげんなり見下ろし、哲哉はまたひとつ大きなため息をついた。

 ……洋海コイツもわからない。





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