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 使った食器を片付けたらコーヒーを淹れる。これも日課だ。おそらくすでにサブシステムとしてサブプロセスでも実行できる状態にある。しかしおれはコーヒーを淹れる行為を常にメインプロセスで実行する。他のことは考えずに、一つ一つの工程を確認しながら行う。それが好きだからだ。好きというのはサブプロセスで走れるものをメインに置くということ。その価値があると判断すること。いや、判断することそのものではなくて、その判断の根拠になるものこそが好きということだろう。おれはこういう考え方が気に入っていたし今初めて思いついた。


 水を入れたポットを蓋を開けたままIHにかける。スイッチを入れると磁ーという音がして、すぐに麩ーというファンの音が重なる。磁と麩のハーモニーが部屋の中を漂う。ポットの表面を見るとおれがおれとはわからないほど湾曲して写り込んでいる。おれが模様になったみたいに明るい部分と暗い部分が強いコントラストを描いている。おれは換気扇を回す。換気扇は紐を引っ張って電源を入れるタイプで、回転する羽が露出している。その羽がゆっくりと動き始め、5回転ぐらいの間に一気に加速する。モータの音が低いところから音階を駆け上がる。スピードが乗ると一つ一つの羽は見えなくなり、全体が半透明の円盤のようになる。モータの務ーという音がIHの磁ーと麩ーに重なってさらに幅のある和音になる。


 受け取る情報量が増えているような気がした。目と耳それぞれのデバイスドライバがアップデートされて性能が良くなったようだ。


 全身の感覚器官から入ってくる情報。その総量はセンサーが正常であればだれでもそう大きな差はない。しかし受け取った情報の処理には大きな差がある。ミュージシャンは耳がいいのではなく耳から入ってくる情報を処理する能力が磨かれている。アニメーターは目から入ってくる情報を分析して動きを見極めることに長けている。写真家は光と影を瞬時に把握する。アスリートはそれぞれの競技に合わせて身体を扱うことができる。ハードウェアの性能以上にデバイスドライバの問題が大きいのだ。


 コーヒーサーバとドリッパを取り出し、ガラスのサーバに陶器のドリッパを乗せて紙のフィルタをセットする。サーバにはプラスチックの持ち手がついている。それぞれの素材は異なる光沢を放っていて見ただけでその素材がわかる。


 やがて水が沸騰してぽつぼくぱぼつくぼぱくぼぽぼつぼぱぼぱぼというような音とともに水面に押し寄せた泡が次々にはじける。泡は水中から上ってきて水面を膨らませ、耐えられなくなるとはじけて空中に飛び散る。飛び散った泡の下からすぐに次の泡がやってきて絶え間なく飛び散り続けている。その様子を見ていると水面までの距離がわからなくなってズームアウトしながらトラックアップしているような感覚を覚える。聞きなれているはずの音が初めて聞くみたいに聞こえ、見慣れているはずのものが初めて見るみたいに見えた。


 何かが以前とは違うと感じた。以前というのはどのぐらい前だろう。昨日か。今朝か。さっきか。いつどこから変化したのかはわからない。もしかしたらずっと何も変化していないのかもしれない。

「おい。沸騰してるぞ」

 だしぬけに背後で声がしておれはぎゃぁっと踏まれた猫みたいな声を出して文字通り跳び上がった。振り返るとキッチンの食卓におれが座っていた。おれとおれの目が合った。おれは口を開いたけれど声が出なかった。

「ほら。溢れてるんだってば」

 座っている方のおれがあごでポットを指しながら言う。おれはひとまずIHのスイッチを切った。沸騰の収まった水面を眺めて息を整えてから振り返った。だれもいなかった。


 おれはドリッパに螺旋を描きながら湯を落とした。濡れた粉の表面が盛り上がってドーム状になる。ドームを決壊させないように落とす湯の量を調節する。ドームは膨らんだり落ち着いたりを繰り返す。呼吸しているみたいだ。


 できあがったコーヒーを注ごうと思ったらカップが2つ並んでいた。一つは黒いマグカップでもう一つは白いマグカップだ。どちらもアニメの女の子が描いてある。黒い方がおれのだという気もしたし、白い方が見慣れているような気もした。おれはあまり迷わず、どちらもコーヒーで満たした。

「さんきゅ」

 隣にやってきたおれがそう言って黒い方のカップを持って食卓に座った。おれも残った白い方のカップを持って食卓へ行く。

「おまえはどのおれだ?」

 おれは座りながら声をかけた。

「どれだって大差ないだろ。みんなおれなんだから」

「それもそうだ」

「それにもう。おまえだって自分がどのおれだかわかるまい」

 そう言われておれは考えた。おれはおれだ。ずっと変わらない。ずっとまえからこうだし今初めてこうなった。

「おまえはいったいだれだ。自己紹介をしてみろ」

 おれが黙っていると向かいに座っているおれが言った。

「おれは澤木健祐だ」

 おれが答える。

「そうだ。おれも澤木健祐だ。おまえの仕事はなんだ」

「CGアニメーターだ」

「そうか。じゃあブランクなんとかいうやつをやってるわけだ。半裸の女の子がブタに殴られるやつ」

「なぜ知ってる?」

「まあまて。じゃあおまえ、五月女って男を知ってるか?」

「五月女? ギターのか」

「そうだ。今日五月女がくりぃみぃ♡ほいっぷってアイドルの曲のギターソロを録りなおして送ってくることになってる」

「じぇねらてぃぶじぇねれーしょんだ」

「なぜ知ってる?」

 おれは言葉に詰まった。

「みろ。おれとおまえはもう境界が曖昧だ」

 おれは考えようとした。おれはいったい何者だ。おれはおれだという答え以外浮かばなかった。

「あのメールのせいか」

 おれはおれに尋ねた。

「だろうな」

「おまえが考えたのか」

「おれは受け取ったんだ。だがあれを送ったのもおれだ。おれだからおまえだ」

「おれはいったい何をしているんだ」

「わからん」

「おまえはありえたかもしれないおれなのか」

「それもわからん。そうかもしれないしそうではないかもしれない」

「おまえはどうやってここへ来たんだ」

「それもわからん。ここはおれの家だ。おれはもう何年もここに住んでいて家で仕事をしている。その仕事がなんだったか今はわからん。自分がミュージシャンのようでもあるしCG屋のような気もする」

「おれはさっきから自分がコンピュータみたいな気がする。おれはもしかしてコンピュータなのか。いろんなタイプのアプリケーションを同時に起動したマルチタスクのコンピュータなのか」

「そうかもしれん。でももしそうならアプリケーション間でデータがダダ洩れて混乱を来しているわけだからそうとうポンコツなコンピュータだ」

 おれがからからと笑いながら言った。

「おまえはただ家にいただけなのか。じゃあおまえが住んでいるところへおれが現れたのか」

「そうだとも言えるしそうではないとも言える。おれはここに座ったままコーヒーを淹れ始めたんだ。なんで座ったままなのにコーヒーを淹れているんだ、と思ったらおれがもう一人いた。おれが二人に分かれたのか、おまえが別のところから来たのか、おれのほうがおまえのところへ踊り込んだのか、わからん。どの可能性もありそうだしどれもありそうもない」

 おれとおれはほとんど同時にコーヒーに口を付けた。

「このコーヒーを飲みながら仕事をするつもりだったはずだ」

「おれもそうだ」

「今日の仕事はなんだ」

「五月女が送ってくるギターソロの差し替えとBDMのリテイクだ」

「どっちかがおれの仕事でもう一方がおまえの仕事のはずだ」

「おそらくはな。しかしおれは自分がどっちなのかもうわからん」

「おれもだ。両方ともやるしかない」

「そういうことだ」

「ところでおまえ今の自分に満足しているか?」

 おれはおれに聞いてみたかったことを聞いた。

「不満がいろいろあるから満足してるわけじゃないんだろうな」おれはコーヒーカップを覗き込みながらそう言い、「でも、悪くない」と続けておれと目を合わせた。

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