F 3
ここに書かれている三人のおれはおれの三つの可能性だと思った。おれにはやってみたい仕事がいくつかあったし今もある。今のおれはその中の一つの可能性だ。もっと幼いころから考えればおれは無数の分岐点を通り抜けて今に至っている。その途中から分岐したおれは恐ろしくたくさんいるはずだ。受験に失敗しなかったおれ、失敗したおれ、出会いに恵まれたおれ、恵まれなかったおれ、誘惑に負けたおれ、負けなかったおれ。ミュージシャンになったおれ、プログラマになったおれ、CGクリエイターになったおれ、シェフになったおれ、レーサーになったおれ、写真家、俳優、政治家。何かを選んだ結果いまのおれがあり、そのとき選ばなかった選択肢の先にはべつのおれがいる。おれとほかのおれは違うけれど同じ部分もある。おれはいろいろ想像してみた。選ぶ道が違ったということがどれほどの違いを生み出すだろう。もしスポーツをやっていたら体格は違っただろう。やっていることによって気持ちの持ちようみたいなものも変わってきそうだ。武道をやっているのといないのでは違いそうだし、囲碁をやっていたりしても違うだろう。そう考えると分岐した先のおれはおれとはまるで違う人だという気もする。あらゆるおれに共通する部分というのはあるだろうか。遺伝子的にはあるはずだ。そのすべてのおれに共通する部分だけを取り出したものが本当のおれだろうか。だとしたらそれはどういうものだろうか。おれにはうまく想像することができなかった。
今のおれがかつて描いた夢の姿でないことは間違いない。描いたのは一流だったはずだ。おれは今の自分にそれほど大きな不満はないけれど満足もしていない。でもじゃあどうなりたいんだと言われればもはやそういう
なるほど、とおれは思った。たしかにほかの道を行ったおれが今どうなっているのかは知りたい。どうせたいしたことはないだろうけれど、どの程度やれているのか、どの程度満足しているのか、聞いてみたい気がする。このメールをよこしたおれがその方法を見つけたことはとても興味深いし、そのおれの言わんとしていることはこのおれにもよくわかる気がした。
試しに他の使っていないメールアカウントにもログインしてメールを確認してみた。すると普段使っていないメールアカウントでは、このおれ同士のやり取りしか見えなかった。ほかのおれがメインとして使っているアドレスならいろんなやり取りが入っているはずだけれど、それはおれの場所からは見えないみたいだ。ただおれ同士がやり取りした暗号のメールだけが見える。おれはほかのおれが返信したというメールも見つけた。たしかにそれはおれが送ったものと寸分たがわぬ内容だった。他のおれも友達の力を借りてこの狂った文字ずらしを解読したのだ。おれにとっての鞍内みたいな友達がいるのだろう。もしかしたらそれはもう一人の鞍内かもしれない。おれがこうして見ているのと同じように、今ごろむこうのおれもおれの送信済トレイを覗いて同じようなことを思っているかもしれない。
メールの画面を閉じて席を立つ。なにか食べるべく冷凍庫を開ける。冷凍庫には白米、茹でた野菜、挽肉などが少量ずつタッパに分けて冷凍してある。休みの日に量産して分割保存しておいた食材モジュールを組み合わせて料理を作るのだ。こうしておくとかなり短時間でそこそこちゃんとしたものを作ることができる。白米を2つと茹でた野菜をいくつか解凍し、レトルトのカレーをかければ野菜カレーができあがる。おれは一人暮らしを始めたときからもう何年もこうやって料理をしているしこんなやり方をしたことはこれまでにない。
おれはあっという間にできあがったカレーを食いながら今日の仕事の段取りを考える。まずはBDMのリテイクをやってしまおう。3カットのうち1カットは昨日終わらせたからあと2カットだ。そうこうしているうちには五月女からじぇねじぇねのギターソロが上がってくるはずだから差し替えて島崎に渡す。だいたいそんなところだ。
リテイクの方針を立てながらカレーを食いつくしてすぐに皿を洗う。ものを食べたり食べ終えた食器を洗ったりするのは毎日やっているからなのか、ほとんど何も考えずに実行できる。頭の中がまったく別の仕事のことやなんかに支配されていてもほとんど自動的にめしを食い、自動的に後片付けをする。一連の行動はそれぞれがサブシステム化されていて、メインが別のことをやっていてもサブプロセスで実行できるのだ。習慣とはこのようにサブシステム化されたもののことだ。複雑な動きであっても反復することでサブシステム化することができ、そうなってしまえばあとはほとんど何も考えなくても実行できるようになる。指示を出さなくても動作が行われる。例えば二足歩行なんていうのはものすごく難しい動作だけれど、五体満足であれば多くの場合サブシステム化されている。もはや記憶にはないけれど遠い昔、初めて立ち上がったときにひたすらトライアンドエラーを繰り返してサブシステム化したはずだ。二足歩行がやっと可能になった頃、きっとエスカレーターは高難度のウルトラCだったはずだ。でもそれもやがてサブシステム化され、意識の外で実行されるようになる。意識の外で実行されたものは、まちがいなく実行されていながら記憶には残らない。
おれは後片付けシステムをサブプロセスで実行しながら、どこかのタイミングで鞍内にあの暗号メールの話をしてやろうと考えていた。なあ鞍内。もう一人のおれはさらにもう一人いて三人だったぞ。それで全部かどうかもわからない。鞍内にももう一人の鞍内がいるかもしれないぞ。使ってないメールアドレスがあるならメール出してみろよ。文字コードをずらして。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます