第2話

 その店は、蟻が思い出したとおり、ぶどう畑のそばにそびえている大きなすずかけの木の隣に、こじんまりとのれんを出しておりました。

 「裏地の店」という字が、焦げ茶色の地に白く染め抜いてあって、はたはたと風にゆれておりました。

 

 小さな店でしたが、ありとあらゆる布地がそろっていて、それが天井まで届く高い戸棚にぎっしり詰められています。

 店の中はきれいに掃き清められていて、ちりひとつ落ちていません。

 

 商いをしているご亭主もおかみさんも、正直できれい好きで働き者でした。

 それからもうひとり、あと何年かしたらお嫁に行くような年頃のかわいい娘さんがおりました。


 ご亭主はいつもこう思っていました。


「裏地というのは大事なもんだ。

 人目にはつかないけれど、大きな仕事をする。

 冬が来て冷たい風が吹いても、いい裏地をつけた外とうを着ていれば温かく過ごせる。

 きれいだけれど薄い布地のかばんや巾着も、しっかりした裏地をつければ安心して使える。

 服がまとわりつかずに着られるよう、すべりをよくすることもできる。


 まるで世の中の多くの人のようじゃないか。


 偉くも有名でもないけれど、誰もみな、なくてはならない働きをする。


 わたしもちっぽけな人間で、裏地のように目立たない人生かもしれないが、それでもこうして少しばかりは世の中の役に立たせてもらっているし、親子三人、毎日三度のご飯がおいしくいただける」


 ご主人はそんな自分の人生に十分満足しているので、とても優しく思いやりがあって、仕事も丁寧でしたし、どんなお客さんにも親切でした。


 ですからお店は小さかったけれど、とてもよく繁盛していました。

 けれど少し前まで混んでいた客もうまくさばけて、その日のそのとき、店には誰もおりませんでした。


 その店先で、小さな声が聞こえました。


「裏地屋さん、裏地屋さん、ごめんください」


 ご亭主は耳ざとく聞きつけて、奥から出てきました。

 が、誰もいません。

 と、そのとき、また、


「裏地屋さん、ちょっとごめんください」


 確かに聞こえるのです。


 店の引き戸はほとんど開いていません。

 ということは、ほんの少しだけ開いている、ということです。


 やはり誰か来ているのです。

 それもたぶん、人間ではない、とても小さなお客さんが。


「裏地屋さん、おいらですよ。

 ほら、ここにいるんですよ」


 蟻はちょっと時間をかけて、布地を測る台の上に這い登りました。

 折よくそこには、さっき帰ったお客さんの買った白いネルの裏地が巻いて置いてありました。

 蟻はその上にちょんと乗って言いました。


「ここですよ。ここにいます。

 おいらは真っ黒だから、白い布の上だとよくわかるでしょう」


 蟻はちょっといばってみせました。


「おや、これは、蟻んこさん、いらっしゃい。

 でも、どうしてまた、うちの店に?」


 ご亭主は驚きました。

 なにしろ人間以外の客がこの店に来たのは、初めてのことだったからです。

 蟻は言いました。


「いえね、実は赤い布を探しているところなんですよ。

 大事な布にほんの少し穴をあけてしまいましてね。

 もちろん、おいらが粗相したんじゃありません。

 ちょいと虫が食っちまったもので、つぎをしたいと思いましてね」


 蟻は自分がよだれをたらしたことはこけんにかかわると思って黙っているつもりでした。

 そして、店中の値札を見回して付け加えました。


「しかし、裏地というのは、けっこう高いものなんですねえ…」

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