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車なんてほとんど運転しないくせに、彼は自分の車を買い、駐車場を借りている。もう十月だが、今年入って四回目くらいのドライブだ。
車ではTSUTAYAでジャケット買いならぬジャケット借りしたCDを流す。気に入らなくても全曲聴くルールになっている。一枚目は力強い女性ヴォーカルが歌い上げるソウルミュージックのCDで、これは当たりだった。
スマートフォンでその湖について調べた。明治時代に地主の息子が幼馴染の男友だちとの恋を諦めきれず、入水したという噂が書かれていた。それには諸説あり、恋人関係ではなくひとりの女性を巡って揉みあったとか、第三者による殺人だったとか。読めば読むほどぐったりとしてきて、窓を開けて遠くを見た。
「車酔い?」
「車酔いではなさそう」
旋のあまりうまくない運転のせいかと思いつつも、本人は楽しそうに運転しているので彼を責めはしなかった。
荻窪のマンションを出発して、五時間程度で目的地近くの山に入った。駐車場なんてなく、適当に駐車して駐禁を恐れながら、歩き始めた。
歩いていていい気持ちにならないのは、日差しがあまり入らないせいか。聞きなれない鳥の鳴き声のせいか。旋の横顔は強張っていた。山道で手を繋いでいては歩きづらい気がしたから、できるだけ身を寄り添って歩いた。あのときもそうだった気がする。——あのときって、いつだ。
「高校のときさ、マックでひとりでずっと小人のはなししてるおばさんいただろ」
旋が沈黙を破った。
「ああ、いた」
「この前、駅のベンチに座って小人のはなししてた」
「え、まだ小人の話してたの?」
「ああいうのって、ほんとに見えてんのかな」
「わかんないけど」
「あのひとのなかでは、それが現実なのかな」
遠くで悲鳴のような鳥の声が聞こえた。
「俺たちにとっては、これが現実なんだよな」
旋はひとりごとのようにそう言った。
みんながみんな、自分達は特別だと思っているのかもしれない。わたしたちだけが特殊なのではなく、それぞれがそれぞれ、こういう不思議な感覚を持って生きているのかもしれない。だけど、わたしたちにとってはこの、妙なことが現実だ。
「そうだね」
訳もなく、わたしはいまも旋のことを愛しく思った。
茂みを越えると湖が出現した。また、あの日みたいに血の気が引いた。真っ白な靄が頭にかかる。
「行こうか」
旋も平気そうじゃなかったけれど、ゆるやかな斜面に足をつけ、転ばないように降りて、湖に向かって歩く後ろをついて歩いた。
湖は青黒く輝いていた。美しいという感情よりも、どこまで続いていくんだろうという漠然とした興味と、哀しみが急に襲ってきた。どうしようもない気持ち。どうしたらいいんだろう。涙が止まらなくなった。
だけどもう迷いはなかった。不幸じゃない。離れないように、きちんと結んでいればひとりじゃない。——これは誰の気持ち?
隣を見た。
「ユウタロウ」
その知らぬ名前を、わたしは旋に向かって放っていた。何を言ってるんだろう。自分のこころの中に誰かが入ってきた。
涙目の旋がわたしに返した。
「ヨウジ」
わたしと旋はいま、別の誰かの顔で見つめ合っている気がした。
手が震えていた。震えながら旋の手をつかんだ。
同じことを、旋が思い出していたのかわたしにはわからない。でも、こんなイメージが浮かんだ。
平屋、広い庭、若い女の子の姿。厳格な父。街の人々の声。着物を着て裸足で湖に入った。ユウタロウの右手を、自分の左手に巻きつけた。絶対離れないように。
——この恋を失うくらいなら、命を失うことを、選びます。
「希和」
旋の声でイメージの世界からこちらに戻ってこられた。
「もう、行こう」
わたしは黙って頷いた。これ以上ここにいたら、息ができなくなりそうだ。
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