さよなら。ありがとう。

星樹 涼

第1話







目の前に映る光景が、信じられなかった。


信じたく、なかった。心が、理解することを拒んでいた。




――――前から、気付きかけていたんだ。


僕も君も、仕事が忙しくて。本当は、休もうと思えば休めた。僕の職場はブラック企業でもないし、僕は社畜でもなかった。


ただただ、仕事が楽しかったんだ。


初めは戸惑うばかりだった業務も慣れてきたら飛ぶように終わって行った。


先輩方は何かと気にかけてくれるし、後輩も入ってきてちょっと威張ることも覚えた。


毎日が充実していて、仕事が楽しくて仕方なかった。



でもだからといって彼女に飽きたわけでも、ましてや嫌いになったわけでもなく。


今なら分かる。


――――彼女に、甘えてたんだ。


付き合ってた彼女と、就職と同時に同棲を始めた。浮かれてたのもある。彼女はいつも笑って許してくれてたから。


時々、その笑顔が底抜けに恐ろしくなることもあった。怒った彼女はいつも笑っていたから。口元だけ。


目が笑っていないその表情がどれだけ恐ろしかったか。


だけどそれも全部心地よかった。それに彼女はそうやって怒ってる時は怒ってますって表情に出してくれていたから、油断していたんだ。



ああ、僕は大馬鹿者だ。





そうだ、彼女は僕を見てたじゃないか?

何か、言いたいことがあるのか、と。一言聞いてあげることすら僕はしなかった。


僕は大馬鹿者だ。


同棲を始めた彼氏が自分のいる家に帰ってこず、仕事ばかりだったら。


優しい彼女のことだ、自分が僕の邪魔になっているんじゃないかって気を回してたんだ。


でも我慢強い彼女のことだ、僕の邪魔をしないように、ひたすらいつも通り過ごしていたんだろう。




その努力に、心の傷に、気付きもせずに僕は。




なんだか違和感を感じていた。


彼女の縋るような目線を感じていた。


何か違和感を感じていた。


僕を呼ぶ声が、いつも微かに震えていた。






そしてとうとう。




――――今日は付き合い初めて4年目の記念日じゃないか。



僕は大馬鹿者だ。




長い針と短い針が、カチッと音を立てて揃った。


僕と彼女の、最後の記念日が終わった。



信じられなかった。


信じたくなかった。



でも、信じてしまった。

腑に落ちてしまった。



遅かれ早かれ、こうなっていたんだ、と。











エレベーターが止まって、自分の部屋へ向かった。

僕が一番最初に感じた違和感。

それは家の鍵だった。



ガチャ。


いつもはすんなり下がるドアノブが、僅かに下がったのみで鍵が閉められていることを示した。


彼女はいつも鍵を開けてくれていた。

どれだけ遅くなっても、彼女が既に寝ていても、鍵はいつも開けてくれていた。


いつも食卓の上には逆さに置かれたお茶碗と、ラップがかけられたおかずがあった。


いつもリビングの電気はつけられていた。



全て、疲れて帰ってきた僕への気遣いだった。

鍵を探す手間が省けた。

自分でご飯を作らなくてもよかった。

帰ってきて暗い部屋を見て寂しいと思うことがなかった。



でも、今日は違った。


鍵は閉まっていた。

電気は消えていた。


パチ、とリビング兼キッチンの電気をつける。


いつもより数段に豪華な夕食。壁には可愛らしい、紙の輪っかの連なったものがかけられて、

所々にハート型の風船。


そして壁に貼り付けられた、横に連なる、色とりどりの直径20cm程の円。ひとつの丸に1文字ずつ、〈いままでありがとう〉の文字。


その円の下に、いくつも輪になったテープを見つけた。


きっと全部、テープで壁に貼り付けたんだろう。


そしてきっと、2列目に書かれていた文字達は彼女によって取り外されたのだろう。


テープが残されてしまうような、乱暴とも言える剥がし方で。


今となってはそこに何が書かれていたのか分からない。


ラップのかけられた夕食の皿には、僕の好物ばかり並んでいる。


彼女はよく、僕を見てくれてた。僕が楽しいことにのめり込んでしまうのも知ってくれていたし、許してくれていた。仕方ない人ね、なんて笑いながら。





きっと後に続いていた言葉は〈これからもよろしく〉。


どんな気持ちで、どんな思いで。どんな顔をして、剥がしたんだろう。きっと勢いよく剥がして、その勢いのまま握り潰して。




歯を食いしばって泣いていたのかもしれない。




一筋、頬に涙が伝った。




――――ありがとう。


――――さようなら。



――――――ごめんなさい。



そんな言葉を、暗くなった部屋の隅で吐いた。


まるで魔法のような日々だった。




僕は何度愛想をつかされかけて、彼女の温情に救われ続けていたんだろう。

何度も愛想をつかしかけて、それでも彼女はここにいてくれた。




ほんとに、ごめん。


彼女に伝わらない謝罪を口にする。


ああ、もっと一緒にいればよかった。ちゃんと周りを見ればよかった。


ちゃんと君を見ればよかった。

君に甘えすぎだった。





ほんとに、ごめん。



甘えててごめん。


君を見てなくてごめん。


自分勝手でごめん。


何もしてあげられなくてごめん。


悲しませてごめん。


苦しませてごめん。





幸せにしてあげられなくてごめん。








許して、なんて言わないから。



―――――だからどうか、幸せになって。








ポタ、と。

握りしめた写真の、彼女の頬に雫が落ちた。

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さよなら。ありがとう。 星樹 涼 @Re3s_Hoshinoki

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