2話

秋晴れの空が、茜色に染まる頃。


舞子は、カウンターの奥にある小窓の磨りガラスが風の音に揺れるのを感じながら、

華奢な装飾が施されたティーカップを愛おしそうに磨き上げた。


ーーー今日は、なんて穏やかな日だろう。


店内はこじんまりとしていて、カウンターやテーブル席もそれほど多くない。

しかし、置かれているもの全てに『愛が溢れていた』のだ。


『上善寺さんのティーカップは本当に素敵ものばかりなんですね』

『ほほ、舞子さん。君にとっての素敵とは、どういうものが基準なのかね』


舞子はカップを磨く手を止め、上善寺の微笑みを見つめた。


『素敵だと感じるものに、理由なんてあるのでしょうか・・・』

上善寺は少し驚いたように目を見開き、ゆっくりと頷いた。


『そう、素敵なものを素敵と感じることのできる心が、素敵なんだと思いますよ』


舞子は、顔と首のあたりが熱くなるのを感じた。


『上善寺さん、、そういうば、牛乳が足りなくなりそうなので・・・買い出しに行ってきます!』


短く切りそろえたボブカットと、小さな銀色のピアスが揺れる。


丈が少し短めのブラウンのサロンエプロンを慌てて脱ぎ畳むと、買い物かごを持って裏口へと向かった。



舞子が出て行ったの見届けた上善寺は、戸棚の奥に手を伸ばした。


綺麗に並べられた食器の奥の、さらに奥。


白い薔薇の模様が施された、ティーカップを取り出した。



『舞子さん、あなたならきっとわかってくれますね』



ティーカップを見つめながら呟いて、上善寺は黒く長いサロンを脱ぐと

使い古された大きな革のトランクに丁寧に畳んで仕舞い込んだ。



そして、店内をただ静かに眺め、ゆっくりと目を閉じた。




ーーーーーーーーー



『うっ・・・さすがにカーディガンだけじゃ寒いか・・・』


一瞬身震いをするが、先ほどの上善寺の言葉が脳裏に反芻する。


舞子は唇をきゅっと噛み締め、歩く速度を早めた。



この店に来てからというもの、上善寺からは紅茶の産地をはじめとする知識から、

茶種ごとのティーサーブの作法まで、あらゆることを叩き込まれた。


舞子にとっては、初めてのことばかりだったが、見るもの全てに感動した。


そして、この世にはまだまだ自分の知らない世界があるということ、

『違う世界で生きていた人』のことを知ったから。


舞子は、店に置いてあるものが好きだった。

上善寺が若い頃に世界を旅して、旅先で見つけた品だという。


中でも、まるで我が家のように迎え入れてくれるような温かみのある家具たち。

優しい木目がこの店が過ごしてきた時間を記憶しているようだった。


そして、アンティークのティーカップもひとつひとつ、思い出があることを教えてくれた。




ただ一つだけ、『白い薔薇』の模様が施されたティーカップを除いては。



誰にでも、言えないことの一つや二つはあるだろう。


でも、一緒に半年も過ごしてきた中で唯一、『触れてはいけない』と感じた。


いつもにこにこと穏やかな笑みを浮かべる優しい瞳が、そのカップを見つめると憂いを帯びたからだ。



時々、カップを見つめる横顔に『青年』の面影を見た。


上善寺は、年齢で言うときっと自分の父親よりも年上だろう。


はっきりと年齢を聞いたことがなかったが、感じとる物腰からは相応のものがあった。


けれど、『お茶を淹れているとき』だけは、彼の若かった頃の姿が見えるような気がしていた。


舞子は、そんなことを考えながら、買い物かごに入れた牛乳の瓶をが街頭に照らされるのを見つめた。



辺りは、ぽつりぽつりと街頭が照らし始め、帰路につく人々の波に反して舞子は店へと戻った。



すると、店の玄関の灯りが既に点いていた。


開店時間まで、まだ少し時間があるはず。


不思議に思った舞子は、裏口からではなく店の玄関の小窓を覗く。


やはり、うちの店は開いているのかよくわからない。そんなことを思いながら、扉に手をかけた。



すると、扉には鍵がかかっている。


玄関の灯りが開店の合図のはず、舞子は背筋に冷たい風を感じて裏口へと急いだ。



『ーーーたっ、ただいま、戻りました・・・・!』



店は、しんと静まり返っている。


あたたかな家具、銀製のティーポット、先ほど仕込んでいた焼き菓子の香り。


舞子の進み歩くたびに少しだけ軋む床。


何か、足りないような気がした。




   あれ、私は何をしていたんだっけ。




そうだ、ティーカップを磨いていた。

綺麗なティーカップ。ひとつひとつに思い出がある。(誰の思い出か、知らない。)



そして、牛乳がなくなりそうだったのを思い出したんだ。



いつもの店に牛乳がなかったから、確か別の店まで少し歩いて行った。



そして、あっという間に陽が落ちてしまったから焦って戻ってきた。


そして、お店が開店の合図をしていた。


  このお店は、私しかいないはずなのに。




一体誰が、玄関の灯りを点けたんだろう。




舞子は不思議に思いながら、丁寧に畳んであったブラウンのサロンエプロンを腰に巻く。



そして、内側から鍵を開けた。



『よし、開店ですね、    』



私は、ようやく、その違和感に気付いた。



一体、誰に話しかけようとしたんだろう。



     話しかけようとした。







ーーー舞子は、店に立ち尽くした。




(続く)

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