ティーサロン【Bonne nuit.】

こしあんぱん

1話

すっかり陽が落ちた街に、生温い風が吹く。

春物のコートでは、少々肌寒く感じる。

エレベーターから足早に降りた舞子は、腕時計で短針が8を示していることを確認するとため息をつく。


『本当に最悪。』


毎週金曜日は、定時で帰ると決めているのに。他人にペースを乱されるなんてごめんだ。


オフィスといってもそんな便利な場所にはない。

東急東横線の所謂『オシャレエリア』と言われている場所にあるが、周辺にあるランチは高いし、駅から少々距離があることもあり、不便な場所だと感じている。


社風に合わせて真面目に結ってあるポニーテールのゴムを外し、ぐしゃぐしゃと髪を乱す。


『契約期間もあと半年か、そろそろ今後のことも考えなきゃなぁ。』


駅の方に歩きながら、ぼんやりとスマホのカレンダーにアイコンがついていることに気付く。


剥げかけたベージュのネイルで、アイコンをタップすると『29歳誕生日』と表示される。


『あぁ、私、今日誕生日だったんだ』


大人になると自分の誕生日なんてただの通過点にしか過ぎない。

いつからだろう、『誕生日だからって特別なことなんて期待してはいけない』と諦めたのは。


でも、せめて、ケーキの1つくらいは買ってもいいだろう。と頭を過ったが一人で食べるケーキほど悲しいものはない。


『これだから、根暗は嫌なのよ・・・』


学生の頃もそうだった。

そんな自分を変えたいと、営業職についた。


でも思っていた世界と違って、やっぱり根本的なものは変えられないのだと痛感させられた。



ーーーぽつ、と頬を雨粒が濡らした。


次第に、ぽつりぽつりと、瞬く間に雨脚が強くなってくる。


『やば、こんな降るって・・・聞いてない・・・!』


駅まで走って、5分でいけるだろうか。たくさんの書類が入った鞄を胸元に抱えて走り出す。


『・・・、痛っ』


突然、右足の指に違和感を感じ思わず声をあげた。

よれよれになったピンヒールを脱ぐと、知らぬ間に豆ができている。


『カッコ悪いな、私・・・』


自分の情けなさにため息をつき、再び立ち上がるが足の違和感は消えない。


ーーどうせこのまま駅まで行っても雨に濡れてしまうだろうし、どこかで雨宿りでもしよう。


なんとなく覗いた路地に、オレンジ色のクラシカルな外灯が点いている看板が見えた。

近くまで寄るが、空いているかよく見えない。

検索サイトで店名らしきものを入力してみるが、情報は出ない。


『こんな店、あったっけ?』


古びたドアを押すと、コロンコロンとベルが鳴った。

それと同時に鼻腔をくすぐる、焼き菓子の甘い香り。


『すみません』


こじんまりとした空間だが、使い込まれたようなテーブルや椅子がノスタルジックな雰囲気を醸している上品な店だ。

カウンターには、カップやソーサー、ティーポッド、そして、大きな缶のようなものがずらりと並んでいる。

見たところ、店員らしき人は見当たらない。


ゆっくりと店内を見回しながらハンカチで雨に濡れた頭や肩を拭いていると、奥の方でドアが開く音がした。


『ーーおや、』


小柄な初老の男性が、舞子を見るなり目を見開いた。


ほっそりとした顔に優しく下がった目尻、白髪まじりの口髭。

アーガイル柄の上品なセーターに、小さな蝶ネクタイと小洒落ている。

腰には長めの黒いシェフサロンが巻かれていた。


見たところ、この男性がオーナーらしい。


『あの、、すみません、開いてますか』

男性は、改めて舞子をまじまじと見た。


『ほぉ、、、珍しい。お客様ですね』

『め、めず…?』


『どうぞ、せっかくですからカウンターへ』


舞子は戸惑いながらも、カウンター席に座った。

狭い店内に店主と二人きり、先ほどの言葉も気になってしまい落ち着かない。


そんな舞子の様子を察したのか、よく磨かれた銀製のポットに新鮮な水を汲み直しながら店主は微笑む。


『すみません、もしかして閉店時間でしたか』

 

舞子は申し訳なさそう尋ねるが、店主は嬉しそうに微笑んだ。


『いやいや、この店はね、この時間から開くんですよ』

『へぇ・・・!この時間から。夜に開店するなんて、素敵ですね』


穏やかに流れる時間、BGMはないけれど、コポコポとお湯が沸いている音も心地よい。


舞子は足の痛みもすっかり忘れていた。


『あの、メニューありますか』


『この店はね、メニューという概念がないんですよ』

『それって、どういう・・・』


舞子が疑問に思っていると、店主はカウンターに並んだ大きな缶をカウンターの開けて見せた。

覗きのむと、茶葉のようなものがたくさん入っている。


『わぁ、すごい・・・!これってお茶ですか』

『左様です。ここにある缶はすべてお茶なんですよ。』


どうやらここは、所謂、紅茶を専門とするティーサロンらしい。


『あの、私、あんまり紅茶とか詳しくなくて・・・。。』


『いえいえ、いいんです。そういう方にこそ、飲んでいただきたい。』


『じゃあ、おすすめでお願いします』


店主は微笑むと、丸みのあるポットに沸かしたてのお湯を注ぎ、ポットを持ち上げるとゆっくりと回し、ポット全体を温めた。


そして、大きな缶から金色のティースプーンで茶葉を掬い、また別の缶からも茶葉を掬った。


温め終わったポットのお湯をティーカップに移す。

ポットの中に先ほどの茶葉を入れると、沸騰した銀製のポットから勢いよくお湯を注いだ。


そして、ポットの上に布のようなものをかぶせている。


『かわいい、帽子みたい。これはなんですか』

『ティーコジーですよ。抽出中も温度が下がらないようにね』


紅茶をこんなに丁寧に淹れてもらうことってあっただろうか。


流れるように美しい所作に、舞子は店主の手元につい見惚れてしまう。


『砂時計の砂が落ちきったら、お召し上がりいただけますよ』


金色の淵の華奢なティーカップに、黄金色のお茶が注がれ、なんとも言えない香ばしく甘い香りが広がる。

注がれたお茶を覗くと、鮮やかなオレンジ色の水色をしている。


『いただきます』


慣れない手つきでゆっくりとカップを持ち上げ、すすっと口に含む。


カップから立ち上る香りと口に広がる心地よい香ばしさと軽やかな渋みに思わず舞子の口元は緩んだ。


『美味しいです。最初はすっきりしているのに、あとから甘みというかコクがありますね』


自分でもびっくりするほど、香りと味が鮮明に感じられた。


『ほう、お客様。表現がすばらしい、私のブレンドを気に入ってくださいましたかな』


『はい、とっても!紅茶って、普段あまり飲まないけどこんなに美味しいって思ったの初めてです・・・』


嬉しくて、大切に飲み進める。


『私も嬉しいですよ、こんなに嬉しそうに召し上がってくださる方がいて』

店主の言葉に、思わず笑みが溢れた。


『また、来たいです。いつ、開いてるんですか』

『また来たい、・・・ですか』


そう微笑んだ店主の顔に、少し翳りが見える。

そして、一瞬躊躇ったように口を噤んだ。


『実は、この店は今日限りで畳もうと思っていまして・・・。』


『え、それって、閉店しちゃうってことですか・・・!』


ショックだ。こんなに美味しい紅茶が飲めなくなってしまうなんて。

舞子の気持ちを察したのか、店主はゆっくりと頷いた。


『本当に、お気持ちは嬉しいよ。ただ、近所に若者向けの店ができてしまってね・・・

それに、私はもう体力がないからこれ以上続けるのも限界だと思っていたところなんですよ』


『そんな・・・。』


どうにかして、このお店を守りたい。


『店主さん、私、実は、今日誕生日で・・・でも、そんなことすっかり忘れてて。』


舞子はカップを置くと、ぽつりぽつりと話し始めた。


『毎日、職場と家の往復で、本当にこのままでいいかなって思っていたんです。

思い切って転職してみたけど、私には向いていなくて・・・。

言葉では伝わらないことも、こんな風に、味で伝えることって素敵だなって思ったんです。

このお店に出会えてよかった、私、本当にこのお店が好きです。

なくなってしまうなんて、悲しいです・・・。』


じわりと目頭が熱くなって、涙が滲んでいることに気づき我に帰る。


『ごめんなさい、私、初めて来たのにこんな・・・』


とめどなく流れる涙を必死で拭うと、店主は温かいタオルを差し出してくれた。


『ありがとう。このお店をそこまで思ってくれて。』


すると、店主は思いついたようにポケットから小さな銀色の鍵を取り出し、舞子に差し出した。


『お誕生日、おめでとう』

『えっと、これ…鍵……?』


舞子は店主から小さな鍵を受けとった。

使い古されているが、よく磨かれていてその存在感からは歴史を感じ取れるようだった。

舞子は不思議そうにそれを見つめ、店主が優しい声で告げる。


『あなたに、この店を差し上げます』


『え・・・い、今なんて・・・』


店主はにっこりと笑って、ゆっくりと確かめるように頷いた。



ーーーーーーーーーー


半年後、舞子は店の前に立っていた。


『上善寺さん、いよいよですね』


右側に立つ元店主に、穏やかな口調で微笑んだ。


『そうですね、舞子さん。生まれ変わるこの店がとても楽しみですよ』

『あの時は、本当に驚いたんですからね!初めて会った人に店をあげるなんて聞いたことないです!』

『ほほ、まぁ、あの店はもともと趣味でやっていたようなものだったからね』

『趣味、ねぇ・・・。本当、大企業の社長が考えてることって本当にわからないです』


ため息をつく舞子に、上善寺はいつものように穏やかに微笑む。


『さぁ、開店ですね』

『はい、では』


ーーー新装、『Tea salon Bonne nuit.』


すっきりと晴れた秋の空。


真新しい看板が掛けられたドアは、心地よいベルの音が響いた。



(続く)

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