第二章 王子は婚約者に恋をする 3

 こうして、カインの用意したドレスを身にまといイシュミールは社交界デビューを果たした。


 イシュタルは、初めてイシュミールのドレス姿を見たときは見惚れて、「姉様素敵です」とうっとりしていたが、それをカインが用意したものだと知った途端、「姉様は何を着ても素敵ですけど、わたくしならもっと可愛いドレスを用意できました!!」と言って、イシュミールを困らせたのだった。

 

 イシュタルは、領地で用意をした瑠璃色の可愛らしいAラインのドレスを着ていた。

 華奢な首や肩が見えるデザインで、当初イシュミールに用意されたデザインに少し似た形だった。

 腰から裾にかけてふんわりと広がり、華やかなイシュタルを更に美しく見せていた。

 手袋に包まれたほっそりとした手で、イシュミールの腕を掴み、一緒の馬車で会場に向かいましょうと、楽しそうにしていた。

 しかし、イシュミールはゆるく頭を振って謝った。

 

「イシュタル。ごめんなさい。私は、カ……、殿下と一緒に向かうことになっているの」


 カイン様と言い掛けて、言い直した。二人の時ならいざしらず、他の人間の前で名前を言うのはまだ気恥ずかしかったのだ。

 しかし、イシュタルはイシュミールが言い直したことに気がついて、可愛らしいく頬を膨らませた。

 イシュミールは、機嫌を損ねた妹を慰めるべく、頭を優しくなでた。

 

「一緒に行けなくてゴメンさない。お願いよ、可愛いイシュタル。機嫌を直して」


 イシュタルは、一緒にいけないことよりも婚約式のときよりも二人の距離が思いの外近づいていることに頬を膨らませていたのだが、イシュミールが勘違いしているのならばそれでもいいと考えて、もう少し彼女を困らせることに予定を変えた。

 

「ふんっだ」


「イシュタル。お願いよ。機嫌を直して?どうしたら機嫌を直してくれるのかしら?」


「それじゃぁ、今日は一緒に寝てくれるなら、機嫌を直してもいいわ」


 そういって、イシュタルは上目遣いでイシュミールを見つめた。妹のおねだりに弱いイシュミールは即座に折れた。

 

「もう、今日だけよ?」


「やったー!!姉様大好きよ!!」



 この時の約束が今後の二人の運命を大きく隔てる分岐となったことを二人は知らない。

 いや、この約束がなくてもいつかはそうなっていたかもしれないが、それは誰も知り得ない運命の分かれ道だった。

 

 

 イシュミールとイシュタルは、それぞれ王家の馬車と公爵家の馬車で会場に向かったのだった。

 

 

 

 王家の紋章の入った馬車から、降りてきたカインは自分の贈ったドレスを身にまとったイシュミールを見て惚けた。

 想像以上に愛らしい婚約者に見惚れたのだ。

 しかし、今回もカーシュの咳払いで我に返ったカインは、王子らしくイシュミールを優雅にエスコートをして馬車に乗り込んだ。

 

 イシュミールも、正装したカインの姿にときめいていた。軍服のような詰め襟の衣装はカインによく似合っていた。青銀の髪と合わせた、濃紺の衣装はいつも以上に大人びていてイシュミールは鼓動が早くなるのを感じていた。

 

 王宮に向かう馬車の中は、二人のもじもじとした初々しい空気で満たされていた。

 

 王宮に到着した馬車は、ゆっくりと止まった。

 カインは先に降りて、イシュミールに手を差し出した。

 イシュミールは、手袋に包まれたカインの自分よりも大きな手にそっと自分の手を乗せて、エスコートされて馬車から降りた。

 

 会場は、沢山の令息、令嬢でいっぱいだった。

 広間には、階級が下の者から入室していくので、イシュミールとカインはできるだけ遅く来たのだが、広間に続く部屋にはまだ沢山の人が自分の番を待っていた。

 

 本来は、公爵家の令嬢であるイシュミールはイシュタルと一緒に入室するはずだったが、エスコートをするカインが最後になるため、特例としてカインと共に入室することになっていた。

 

 二人の名前が呼ばれて、広間に続く扉が開いた。

 緊張で小さく震えるイシュミールにカインは軽く微笑み小さく、イシュミールにだけ聞こえるように言った。

 

「大丈夫。俺がついている。何も心配することはない」


 その言葉を聞いたイシュミールは、自然と体の震えが止まるのが分かり、安心しきった表情で小さな声でお礼を言った。

 

「カイン様。ありがとうございます」


 その表情は、カインの心を撃ち抜いた。気を抜けば、口元がだらしなく緩みそうになった。しかし、そんな格好悪い表情を愛しい少女に見せるわけには行かないと、気合を込めてきりりとした表情を作った。

 

 しかし、イシュミールはそんなカインのことなど知らず、きりりとした表情を見て、見惚れていた。

 熱に潤んだ、イシュミールの朝露に濡れた新緑の芽吹く森のような瞳に見つめられたことが分かった、カインは心臓が飛び出るのではないかと言うほど胸がときめいた。

 

(まっ、まずい。このままではイシュミールの前で鼻血という醜態を晒してしまいそうだ。それにどうして、イシュミールはこんなにも可愛いんだ!!俺をキュン死にさせるつもりなのか!!!)


 そんなことは噯にも出さず、優雅な仕草で会場にイシュミールをエスコートするカインだった。

 

 二人して、国王陛下と王妃陛下に挨拶をした。

 しかし、王妃はカインの内情などお見通しのようで、扇に隠れて見えない口元は小刻みに震えていた。

 それは、カインのダラシのない心の声を滑稽に思ったのではなく、笑いを堪えるためだ。

 カインが、幼い頃あれだけ逃げ回っていた勉強を急に頑張り始めたときに、不審に思い探りを入れていた。

 すると、庭師の男に好きな女の子のことを相談している事実を突き止めたのだ。

 そして、ナイスなことにその庭師の男はカインをいい方向に導いてくれたのだ。

 

 そのことを知っている王妃は、こっそり初恋の相手を探していた。

 初恋の相手は、すぐにアックァーノ公爵家の双子の姉の方だと調べがついた。

 そして、カインが婚約者にしたい少女を探しているときもそれをただ見守った。

 カインの手腕を見るために、あえて何も言わずにそれを見守った。

 そして、王妃の期待に応えるように、カインは自らの采配で少女を見つけ、双子のうちどちらが初恋の少女なのかを見定めたのだ。

 もし、違った方と婚約したいと言ったら、認めはしてもカインの評価は下がったことだろう。

 

 そんなことから、陰ながらカインの恋路を応援観察していた王妃は、表情には出さないように、心のなかで婚約者にデレデレしているカインの事に気が付き、爆笑してしまいそうな自分を必死に抑えていたのだ。

 

 

 社交界デビューする全ての令息、令嬢の挨拶が終わったところで、音楽がなった。

 国王夫妻は、フロアの中央に移動し、優雅にダンスを踊った。

 

 二曲目は、今回デビューする者たちが踊ることになっていたため、イシュミールとカインはフロアに向かった。

 

 イシュミールは、社交界デビューが決まった日から、カインにダンスの練習を付き合ってもらっていた。

 本当は、ダンスの教師や守護騎士のカーシュが相手をしてくれることになっていたのだが、カインの強い希望で、練習相手はカインだけとなった。

 

 「俺も、ダンスの練習をしたいから付き合え。イシュミールは俺とだけダンスの練習をしていればいいんだ」

 

 と言って。

 それを聞いた、ダンスの教師の女性とカーシュはカインの独占欲を感じて吹きそうになったが、イシュミールはそのことには気が付かずにいた。

 

「そうですね。わたしも、殿下と練習できて嬉しいです」


 ダンスの教師もカーシュも、イシュミールよりも随分身長が高かった。それに比べて、カインは大きいと言っても、そこまでの身長差はなかった。

 イシュミール的には、身長差があまりない方がダンスの練習がしやすいと言った理由だったが、それに気が付かないカインは、耳まで赤くしていた。

 

 残念なことに、ダンスの教師とカーシュはイシュミールの考えに気がついてしまい、カインの赤くなった耳を見て少し悲しい気持ちになったことは絶対に気づかれてはいけないと強く思ったものだった。

 

 

 二人の社交界でのファーストダンスは、カインが愛おしそうにイシュミールを見つめ、イシュミールは嬉しそうにそれを見つめ返すという、甘々な空気が充満する中終わった。

 

 二人は、そのまま四曲目まで踊り続けた。

 流石に疲れてきたイシュミールに気がついたカインが、五曲目の音楽がなる前に、フロアを抜け出した。

 

 カインに、他の令嬢がダンスを申し込んできたがカインはそれをそっけなく断った。

 

「俺は、イシュミールとだけダンスをする。他の人間と踊ることはない」


 ことごとく断られた令嬢たちは、嫉妬に燃える瞳でイシュミールを見たが、その美しいまるで妖精のような姿に言葉を失い、引き下がった。

 

 令息たちは、イシュミールをダンスに誘いたがったが、カインの鉄壁の防御の前に声をかけることすら出来なかった。

 

 その代わりというわけではなかったは、イシュタルに沢山の令息からダンスの申し込みが殺到した。

 イシュタルは、ファーストダンスを父と踊った後にすぐにフロアを離れていた。

 

 申込みは全て、「ごめんなさい。わたくしとても疲れてしまって……」と、申し訳無さそうに断られてしまっては、無理に誘うことは出来ないと、声をかけたものは残念そうに離れていくのだった。

 

 しかし、イシュタルの瞳にはそんな令息たちは一切映ってはいなかった。

 

 彼女の瞳には、楽しそうにそして、幸せそうにくるくると踊るイシュミールとカインの姿だけが映っていた。

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