第10話
僕らが連れ立ってゴール板の前に立ったのは、発送直前だった。
メインレースということもあって、人が多く集まり、壁を築いている。
「見えますか」
「大丈夫です。案外、人の隙間からうまく見えるものなのですよ」
そう言いながらも、剣崎さんは身体を左右に揺らしていた。
苦笑して、僕は剣崎さんを誘って少しゴール板から離れた。少し1コーナー側にずれただけで、ぐっと視界は広がり、ゴール前の芝生も見てとれることができた。
大型ビジョンには、ゲート裏の馬を映し出している。
入れ込んでいる馬はおらず、騎手もリラックスしてまたがっているように見える。
こんな穏やかな気持ちで、レースを見るのはいつ以来だろう。少なくとも、小川とトラブってからは記憶にない。
「剣崎さん、僕、近いうちに、小川と話をしてみるつもりです。今日、どんな結果になろうとも」
「自分のしたことを話すのですか」
「まさか、そんな善人じゃありませんよ。ただ会って話をする。それだけです。でも、何かが変わるように思えるんです」
「そうですか」
「借金のことも話しあうつもりです。返せるところから返せって」
よくわからないが、今ならばあいつと素直に話ができる。そんな気がした。
僕は剣崎さんを見た。
「馬券、買ってありますよね」
「もちろん。1-7の組み合わせです」
「助かります」
自分で買う度胸がなくて、僕は剣崎さんに購入を頼んだ。馬券は見ていないけれど、今までみたいに買っていないということはないだろう。
視線を転ずると、スターターが台にあがって旗を振るところだった。
ファンファーレが鳴って、馬がゲートに向かう。いよいよスタートだ。
ゲート入りはスムーズで、またたく間に11頭のうち10頭が収まった。
残るのは大外11番のヒデノスタンバイだけだ。栗毛の馬が誘導員に引かれて、ゲートに入る。
間を置いて、
「スタートしました。横一線、何が行きますか。6番のヤマノショウブでしょうか」
実況アナウンサーの声に押されたかのように、緑のヘルメットをかぶった馬が前に出た。ついで、2番、9番である。
そして、1番のミサトチャンスは……。
なんと、後ろから二番目だった。馬群から少し離れて、1コーナーに入っていく。
隊列が決まって、先頭から6番、9番、2番とつづく。
7番のリリリンは、五番手ぐらい。ちょうどよいが、ミサトチャンスは後方のまま動かずにいる。
流れはゆったりとしていて、前が残りそうな展開だ。果たして間に合うのか。
「大丈夫です。ちょうどいいところです」
ぼくの心を見透かしたかのように、剣崎さんがつぶやいた。いつの間にか、オペラグラスを取りだして、自分の眼で隊列を確認している。
「ベースは遅いですが、それを見越して、ミサトチャンスは動いています。あの切れ味なら、必ず届きます」
剣崎さんの声には、力強さがあった。おかげで、気分はだいぶ落ち着いた。
向こう正面から3コーナーに入るところでも、馬群の動きに変化はなかった。マヤノショウブが逃げ、2番、9番がそれを追う展開だ。
ペースはやはり遅い。果たしてどう動くのかと思った時、ミサトチャンスの騎手が手綱を動かした。中段に取りつくと、そのまま大外を回して、一気に前に出る。
歓声があがり、僕は手を握りしめる。
ミサトチャンスはなおもスピードをあげ、4コーナーを回る頃には前方グループに取りついていた。すさまじい脚だ。
一方のリリソンは内でもがいていた。騎手がゴーサインを送っているが、なかなか行き足がつかない。
「さあ、直線に入って、先頭はヒデノスタンバイだが、外を回ってミサトチャンスが来たぞ。先頭に並びかける勢いだ。その後ろは5番のグランドール」
大型ビジョンにミサトチャンスが大写しになる。悠々とヒデノスタンバイを抜き去って、先頭に立ち、一気に二番手以下を突き放していく。
これは強い。
あとは二着だ。どうなるか。
「
剣崎さんが声を張りあげると、もう一方の緑のヘルメットが前に出てきた。
リリソンだ。しばらく、ヒデノスタンバイと並走する。
ゴールまで、あと50。
どうなるかと思ったところで、ぐっとリリソンが出た。騎手のアクションにあわせて、力強く抜け出す。
その時、すでにミサトチャンスはゴールに達していた。手綱を抑える余裕で、先頭で駆け抜ける。
4馬身ほど遅れて、リリソン。ついでヒデノスタンバイだ。
「やった、やりました。ミサトチャンス、これで無傷の3連勝。皐月賞への優先出走権を獲得しました。二着にはリリソン」
栃栗毛の馬体がビジョンに映し出される。
白い息をはきながらゆっくりと速度を落とす姿には余裕が感じられた。すぐに同じ距離を走っても、ぶっちぎりで勝てそうだ。
「やりましたね。三好さん」
「ええ、ミサトチャンス、強かったですね」
「違いますよ。馬券、的中しています」
ああ、そうだった。1番と7番の組み合わせだった。ついレースに夢中になりすぎて、大勝負をかけていたことを忘れていた。
「ありがとうございます。これで借金の半分は払ってやれます」
僕は素直に頭を下げた。
「あとはあいつと話しあいながら何とかしていきます。きっと立ち直りますよ。僕も手を貸しますから」
「半分? 何のことですか」
「え? だって、馬連で一八倍ですよね」
僕が顔をあげると、剣崎さんはショルダーバッグから馬券を取りだして、僕の前に示した。
「誰が馬連を買うと言いました?」
馬券に記された額は、9万。組み合わせは1-7。
しかし馬券の種類は……
「馬単」
「そうです。あ、ちょうどオッズが出ていますね」
1着、2着の並びを気にしない馬連より、着順を正確に当てる馬単の方が、当然のことながら配当が高い。しかもミサトチャンスは4番人気で、リリソンよりも評価が低かった。そのあたりも加味すれば、当然……。
「36・2倍」
「9万円、突っ込みましたから、325万8000円です。余裕で、お友達の借金は返せますね」
僕は目を見開いて、剣崎さんを見た。
言葉をつむぐまでには少し時間がかかった。
「……どうして」
確かに馬連を買うとは言っていなかったが、手堅い馬券にするような雰囲気は漂わせていた。なぜ馬単にまで踏みこんだのか。
「私が依頼されたのは三好さんが必要なお金を稼ぐことです。150万では足りません。残りの半分も何とかしないと。ならば、どういう買い方をすればいいのか、自然と決まってきます」
剣崎さんは、戻ってくるミサトチャンスに目を向けた。いななく姿は、自分が勝ったことがわかっているかのようだった。
「必要なお金を与えることができなければ、報酬はいただけません。幸い二頭の力は抜けていましたから、何とかなりました」
剣崎さんは、僕に馬券を握らせた。その手は温かかった。
「これで、お友達に会いに行けますね。思う存分、話をしてください」
「あ、ありがとうございます」
胸が熱くなって、ぼくは先をつづけることかできなかった。ただ、うつむいて、目頭を押さえるだけだ。
「お茶を飲むといいですよ。無料のほうじ茶がありますから。あれ、おいしいんです」
やわらかい声に心が和む。ようやく気分が落ち着いてきた。
「じゃあ、私はこれで」
いきなりの言葉に顔をあげると、剣崎さんは背を向けて歩き出していた。
「待ってください。あの……報酬……」
「ああ、それならいただいています」
剣崎さんは振り向くと、馬券をかざして見せた。
同じレースの同じ馬単の組み合わせ。投入した額は一万円だ。
「本気で勧めるレースは私も買います。これで十分ですよ」
「そ、それでいいんですか」
「いいんですよ。願いを叶えて、何とか生きていけるだけの報酬がもらえれば、それで十分です。余計な欲は身を滅ぼすだけですから」
剣崎さんが頭を下げて立ち去ろうしたので、ぼくはなおも呼びとめた。
「あの……」
「何か?」
「そ、その、なんて、その、なんて言いますか」
僕はすっと思い浮かんだ言葉をそのまま口にした。おそらく、それは、今、最も言いたいことに違いない。
「もし、また競馬場で見かけたら、声をかけてもいいですか。今度は、普通に競馬を楽しみたいから」
剣崎さんは一瞬、間を置くと、笑みを浮かべた。
「喜んで」
春風が吹く。
可憐な表情に目を奪われているうちに、いつしか背の小さな女性はいつしかスタンドに向かう人混みに飲まれて、その姿を消していた。
プロ馬券師剣崎順子の備忘録 中岡潤一郎/加賀美優 @nakaoka2016
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