第6話

 ひどく嗄れた声に、剣崎さんは振り向いて応じた。

「ああ、たてさん、こんにちは。ご出勤ですか」

「そうだな。やっぱりここへ来ないと落ち着かなくてよ」

 立野と呼ばれた男は、顔をゆがめて笑った。頬の肉が落ちているせいか、ひどく不健康に見える。シャツのサイズがあっていないのも、悪い印象を増幅する。

 身長は170センチぐらいだが、背を丸めているせいか、剣崎さんと視線の高さは変わらない。

 白髪交じりの髪と痩せた身体から五十代後半に見えるが、もしかしたらもっと若いのかもしれない。

「ほい、これ、山田から頼まれてな」

 立野が封筒を差し出し、剣崎さんはそれを受け取った。

「ありがとうございます。わざわざすみません」

「役にたつかい」

「もちろんです」

 剣崎さんは封筒から書類を取りだし、ざっと眺めた。

「なるほど、よくわかりました。おかげで何をすればいいのかはっきりしました」

 何だ、何を言っているのか。

 僕が見ても、剣崎さんは反応せず、書類をショルダーバッグにしまった。

「それでよう、今日、何かいいレースはないか。せっかくだから買っていきたいんだよ」

「いいですよ」

 剣崎さんがレース場とレース番号、馬番を教えると、立野はメモを取った。一度、口に出して内容を確認すると、手を振って、僕たちに背を向けた。

 わけのわからないやりとりに、僕は腹がたった。

 何だ、あのオヤジは仲間なのか。

 なんだよ。こっちは金を払って馬券指南を受けているのに、向こうはただで情報を手に入れるのか。何だよ、あれは。

 立野の姿が見えなくなったところで、僕は口を開いた。

「残念ですね。あの人も大損しますね」

 嫌味な口調になったのは仕方がないだろう。

「剣崎さんの予想、思いきり外れてますからね。教えたって、また当たりませんよ。僕と同じで、外れ馬券をつかんで泣くだけだけですね」

「大丈夫です。そうはなりません」

「何故ですか、今度こそ当たるからですか」

「違います。立野さんに教えたレースは八頭立てです。あの馬番は存在していません」

 あわてて新聞を確認すると、剣崎さんの言うとおりだった。立野に教えた馬番は10番で、絶対に買えない。

 どうして、そんなことを……。

 僕が見ると、剣崎さんは立野が消えた人混みを見やった。

「あの人は、ギャンブル依存症なんです。苦しくても馬券を買わずにはいられない。ちょっと前までは、ギャンブルをやっている時だけが正常で、普段は話をするにも手間取る状態でした。幻覚を見たこともあったようです。今は少しマシになりましたが、それでも突然、息が詰まって歩けなくなることもあるようです」

「それは……病気じゃないですか」

「そのとおりです。だから、こうして競馬場に来てしまう。自分ではダメだとわかっていても。だから、私はいつも嘘の馬番を教えるんです。券売機で買って、この馬番は存在していないと機械に言わせる。それで正気に戻すんです。俺は何をやっているんだと思わせて、家に帰るように仕向けます」

「できるんですか」

「今のところはうまくいっています。買えないと、スイッチが切り替わると言っていました」

 剣崎さんの表情には、わずかに憂いの気配が感じられた。

「本来なら、とっくに治療をはじめていなければならないのですが、無理に進めると、鬱になるとお医者様に言われてまして。それで、競馬場に来ることだけは許しているんです」

「ただし、馬券は買えないと」

「だいぶよくなりました。最初の頃は、1レースごとに聞きに来ていましたから」

 そんな生ぬるいことでよいのか。もっと強制的に措置するべきではないのか。

 最後まで転げ落ちたら、立ち直ることはできないのだから。

「本当にいいんですか。剣崎さんの知らないところで買っているかもしれませんよ。いつまでもごまかしきれるものではないでしょう」

「家族も来ていますから、大丈夫です。もう合流しているでしょう」

「でも、嘘をついて止めるなんて」

「よい嘘ならかまわないでしょう。立野さんも家族も承知の上です」

 そこで剣崎さんは僕を見あげた。メガネの下で、瞳が輝く。

「それに、嘘つきはお互い様でしょう」

「え?」

「三好さん、借金なんかしていないでしょう。会社のお金に手をつけたいというのも嘘ですね」

 きっぱり言い切られて、僕は絶句した。

 剣崎さんの言葉は、正しく真相を言い当てていた。

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