第187話 生きるということ
怜奈が亡くなった翌日から、公園のすぐ隣にある自宅は雰囲気が一変していた。
入り口には白い花で覆われた大きな花輪が飾られ、黒い服を着た人たちが次々と中に入っていった。皆ハンカチで目元を拭い、神妙な顔つきで自宅の周囲を歩いていた。
せっかく気持ちよい秋の空が広がっているのに、僕たちはどんより曇った空の下にいるような気分になっていた。
黒い服の人たちが行き交う一方で、公園の中では作業衣に身を包んだ樹木医の櫻子が数人の作業員とともに、キングの手当を行っていた。
キングは先日の暴風雨であわや倒木するのではないかと思うほど、大きな損傷を受けていた。幹は大きく右に歪曲し、頭頂部の枝の一部が公園の周囲を取り囲む植栽に突っ込んでいた。
やがて唸るような音を立て、重機が公園の中にやってきた。重機はキングの頭頂部に鎖を引っ掛けると、グイングインと音を立てて徐々に植栽から引き上げていった。
『いたいよぉ……』
キングの悲痛な声が、重機の音に交じって僕たちの耳に入ってきた。僕はその声を聞くたびに複雑な気分になったが、倒れ込んだままの姿勢にしておくのは彼の身体のことを考えると何もいいことは無い。「悪いけど、耐えてくれ」としか言いようが無かった。
「ごめんね、痛いけど我慢してね。あなたの体を思ってやることだから」
櫻子は申し訳なさそうな様子で、重機がキングの頭を持ち上げていく様子を見届けていた。
しばらくすると、彼の身体は植栽から揺り起こされた。作業員たちが剥がされかかっていた根元を再び土の中に埋め込み、キングは徐々に元の状態に戻っていった。
「あとは身体を固定するしかないか。あなたにはちょっと窮屈な思いをさせるけど、ごめんね。また昨日みたいな天気になったら耐えられないだろうから……」
櫻子は腕組みをしながらキングの身体を舐めるように見回すと、作業員達の所に行き、色々と指示を出した。
作業員達は一度トラックに戻ると、ロープや菰、木材を手にして再び公園に姿を見せた。一人の作業員が梯子に登り、キングの枝や幹にロープを括り付けると、地面に居るもう一人の作業員がロープを地面に打ち付けてある杭に縛り付けた。さらに、幹の周囲に四本の木材で囲いが作られ、傍目から見ると閉じ込められているように見えた。
『うわ、窮屈そう……キング、散々よね。私たちより身体が小さいし弱々しいから仕方がないけどさ』
『しょうがないよ。根元から倒れたら今度こそキングが死んじゃうもん。辛いだろうけど、こうするしかないんだよ』
キングは痛々しい表情で、時折『苦しい……』という声を発しながら全身をロープでひっぱり上げられていた。
自分だったら、こんなことまでされて生き永らえたいだろうか?……僕はキングの様子を見ながら時々首を捻った。もし自分が今のキングのように瀕死の状態に追い込まれたら、無様なまま延命措置をされるより、このまま死んでもいいと思うかもしれない。
『僕なら耐えられないな……こんな痛くてつらい思いしながら生き続けるなんて』
『え? 突然何を言い出すんだよ、ケビンさん』
ヤットが怪訝そうな顔で僕を見つめた。
『キングの顔を見ろよ、苦しそうだろ? あそこまでして生き永らえる位なら、このまま伐採してもらったほうが良いんじゃないかって思ってさ』
苗木たちは僕の言葉を聞くと、一斉に静まり返った。僕の言葉に対し、きっと彼らなりに思う所があるのかもしれない。やがて、キキが重い雰囲気を打破するかのように口を開いた。
『私はまだまだ生きていきたいな。どんな無様な姿になってもね』
『何を言ってるんだ? キングを見てみろ。ロープで繋がれ、囲いで覆われて、菰でぐるぐる巻きにされても、延々と生きていきたいと思うのか?」
僕はキキの言葉に対してついムキになってしまい、自分の思っていることを吐き出すかのように一気に口走った。その後、苗木たちは再び静まり返った。
『だったら伐採されれば? ケビンさん、見損なったよ』
ケンは低い声で唸るように話した。
『あのさ……痛みに耐えながら無様な姿で立ち続けるのが、僕には耐えられないって言いたかっただけだ!』
『耐えられない? じゃあ、ケビンさんはどうぞ伐採されてください。僕は怜奈さんを見て、たとえ歳をとっても身体がどんなに不自由になっても、ここでがんばって生きて行かなくちゃって思えるようになったんだよ。暑い日も寒い日も、僕たちが快適に過ごせるように掃除して草を刈ってくれてさ……そこまでしてくれたのに、カッコ悪いから伐採されたいだなんて、口が裂けても言えないよ』
ヤットは冷静に言い返した。僕はそれ以上、何も言えなかった。
『ヤットの言う通りだよ。全くケビンさんは自分のことしか考えてないんだから。それでもリーダーかよ?』
ケンはヤットの言葉に乗じるかのように、僕に言葉を投げかけてきた。ケンの言葉は相変わらず辛辣で挑発的で、聞いていて嫌な気分になる。
『わ、分かってるよ。怜奈さんの真心を踏みにじる気なんて、全然ないから』
僕はこの場を鎮めようと、言葉を選んで苗木たちに呼びかけた。
苗木たちはそれ以上僕に言い返しては来なかったが、互いに小声で色々と囁き合っていた。そのほとんどは聞き取れなかったが、時折『ケビンさんは自分のことばかり考えてる』とか、『早く伐採されてリーダー交代した方が良いんじゃない?』という声が漏れ聞こえてきた。
その時、黒服を纏った髪がやや白く染まった初老の女性と杖を突いた高齢の男性が公園に姿を見せた。その後ろには、同じく黒服姿で二人の後を付いていくようにゆっくりと歩く芽衣の姿があった。
「お義母さんはここでいつも草を刈ったり、ゴミを拾ったりしていました。私もいつも手伝っていたんです」
芽衣は二人の真横で、公園の奥の方を指さしながら語った。
「へえ、綺麗ね。すごく手入れされているし……昔の姉からは全然想像できないわ。」
初老の女性は公園を見回すと、感嘆の声を上げた。
「想像できないって……どういう意味ですか?」
「だって姉は実家に居た時、草刈りもゴミ拾いも全然やらなかったもの。いつもおしゃれや食べ歩きや旅行のことしか頭になくて、家の掃除も母親がほとんどやっていたからね」
「そうでしたか。お義母さん、どんな作業も全然苦にせずやっていたから、実家でも普通にやっていたのかな、と思いました」
そう言うと、芽衣は携帯電話を取り出し、女性に写真を見せた。そこには、作業衣姿で笑顔で手を振る怜奈の姿があった。
「これ、本当にお姉ちゃん? 顔は真っ黒に日焼けしてるし、割烹着にゴム長靴姿なんて今まで一度も見たことないわよ……実家に居た頃はいつも完璧な位に化粧して、凄く短いスカートにヒールの高いブーツ履いてたから、全然想像できないわ」
初老の女性は口に手を当てて驚いていた。女性は怜奈の実の妹のようだ。そして、隣にいる杖を持った男性は父親なのだろう。怜奈の年齢を考えると、相当歳を召しているはずである。
男性はしばらくの間公園を隅から隅まで見回していたが、やがて杖を持つ手を震わせ、よたよたと歩きながら初老の女性の方に近づいていった。
「なあ、
「なあに、お父さん」
「怜奈が生まれ育った東京を離れ、見知らぬこの土地に嫁いでいった時、俺は正直心配で仕方がなかった……でも、俺が心配して電話をかけても、怜奈は楽しそうに話すんだよ。『ここが好きなんだ、好きで好きでたまらないんだ。青空が広がって、風が心地よくて、近所の人達が自分を家族のように接してくれるから』と言ってな」
男性は歳の割にしっかりとした声で、訥々と思い出話をしていた。そして、杖を突きながら、僕の方を振り返った。
「子育てで辛いことは無いのかと聞いても、旦那である隆也君とこのケヤキの木が、自分をいつも見守ってくれているから大丈夫、と言ってたよ」
「ふーん。隆也さんはまだわかるけど……木が?」
「ああ、そうだ。俺は最初、何寝言を言ってるんだと思ったが、怜奈は自信満々にそう言うんだ。この木には心から感謝しているから、自分が出来ることがあれば全部やりたいってね」
「そうなんだ……だから姉は、この公園を……」
初老の女性は公園を見つめながら、しばらく物思いに耽っていた。
その時、芽衣が二人の傍からそっと声を掛けた。
「すみませんが、そろそろ精進上げをしますので、自宅の方にいらしていただけますか?」
「あ、もうそんな時間なんだ? ごめんね、時間を取らせちゃって」
二人はいつまでも公園を名残惜しそうに見つめながら、ゆっくりとした足取りで去っていった。
時が経ち、真っ赤な夕焼けが西の空を染め始めた頃、一台の車が公園の前に停まった。
やがて、黒いスーツに身を包んだシュウが車から降り、コツコツと靴音を立てながら公園に姿を見せた。その手には、台形の大きな箱があった。
シュウは箱を開き、僕の目の前に差し出した。そこには、細かく白い骨がたくさん詰まっていた。
僕は、以前隆也が死んだ時、シュウが同じように隆也の骨をここに持参したことを思い出した。
「さ、おふくろ……帰ってきたぞ。大好きだったこの公園に」
シュウは箱の中の骨を指でつまむと、苗木達がいる方向に向かって差し出した。
「これから親父と同じ墓に埋めるけど、その前にここをちゃんと見届けていかないとな。ここが本当に好きだったよな、おふくろも親父も。俺も、この場所でおふくろにおんぶされて、抱きかかえられて、一緒に散歩して……」
シュウは言葉に詰まり、それ以上何も言えなくなった。そして、何度も黒いスーツの裾で目元を拭った。
「出来ることなら、また元気になって戻ってきて欲しかったよ。いつも言ってたもんな。『早く元気になって、ここで草刈りをしたい。家族や近所の仲間とお茶を飲みながらくだらない話をしたい』ってさ……」
シュウは小声でそう呟くと、指で骨をつまんだまま嗚咽していた。僕も苗木たちも感極まって、徐々に樹液が染み出していった。シュウの言葉を聞きながら、若き日から最近までの怜奈の姿が走馬灯のようによみがえった。
「さ、行こうか。色々思い残すことはあるだろうけどさ」
シュウは骨を箱の中に入れると、大事そうに抱えながら自宅へと戻っていった。
夕日が山々の中へと沈み、辺りが薄闇に包まれていく中、苗木たちの泣き声があちこちから聞こえてきた。僕はリーダーとしてずっと泣くのをこらえていたが、怜奈の姿が脳裏に浮かぶうちに、樹液が止まらなくなってしまった。そして、「伐採されたい」と口走った自分自身を激しく恥じた。
僕たちのために頑張ってくれた怜奈のために、どんなに辛いことがあってもめげずに生きていかなくちゃ。これからもこの場所で、ずっと……。
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