第186話 私が行かなくちゃ!
夜が明けて辺りが白みはじめた時、僕は不気味な風の音で目が覚めた。
風に乗って降り注ぐ横殴りの雨が、僕の幹をあっという間にずぶ濡れにした。頭上の葉は次々と剝がされ、そのまま遠くへと飛ばされていった。
今朝は朝から物凄い風雨だ。
毎年この時期になると、強烈な風と雨が僕たちケヤキに襲い掛かってくる。僕はもう慣れてきているが、苗木たちは体は大きくなったとはいえ、まだまだ風雨の衝撃に耐えきれていないようである。
『誰か助けてよお、吹き飛ばされちゃうよぉ』
『雨が冷たい! 体中がびしょびしょになっちゃった。このままじゃ風邪ひいちゃうよ』
苗木たちの泣き声があちこちから聞こえてきた。
もう子どもじゃないんだし、ちょっとは耐えられないのだろうか——彼らの声を聞いているうちに、僕は思わず苛ついてしまった。
しかし、そんな僕も、キングについてはずっと心配が絶えなかった。
他の苗木たちの半分くらいの背丈しかないキングは、風雨の影響をもろに受け、風が吹き付けるたびに上半身が左右に揺れ動いていた。
『だれか、助けて……』
かすかなうめき声が僕の耳に入ってきた。その声を聞くたびに、僕は何とかしたいという気持ちで居ても立ってもいられなくなった。しかし、ここから動くことはできず、ひたすら『がんばれ、耐えろ!』と声を掛けることしかできなかった。
風と雨は容赦なくキングの体を揺さぶり続けていた。枝は全てもぎ取られてしまうのではないかと思うほど引っ張られ、幹も下手したら折れ曲がってしまうのではないかと思うくらい歪曲していた。
彼のことを想うと、早くこの風と雨が収まってくれと天に祈りたくなった。
容赦なく降り続く雨で視界が悪い中、まばゆい光が速度を上げて公園の沿道を駆け抜けていった。光は徐々に僕の近くまで来て、突然激しい音を立てて止まった。目を凝らすと、そこには一台の車とシュウの姿があった。シュウは傘を差すと、一目散に家の中に駆け込んでいった。
しばらくすると、二つの傘が並ぶように玄関から出てきて、慌ただしく車の中に入っていった。そして間を置かず、激しいエンジン音を立てながら遠くへと走り去っていった。
一体何事だろうか? こんな風雨の中、慌てて出かけていくなんて。
ビュウウウウウ!
その時、僕に襲い掛かるかのように真横から激しい風が吹き付けた。あまりにも激しい風に、僕の体はこの場所から押しだされてしまうかのように感じた。
しばらくすると、風は止み、僕は息を切らしながらこの風をしのぎ切ったことに安堵していた。
『ケビンさん!』
ミルクのつんざくような声が僕の耳に入った。何事かと思って振り向くと、そこには斜めに倒れかかるキングの姿があった。かろうじて根元から倒れ込んではいないものの、体のバランスを崩し、隣に立つミルクに折り重なって何とかバランスを保っている様子だった。その姿はまるで、ミルクにもたれかかっているようにも見えた。
『ミルクのお陰でキングがそのまま倒れなかったのかもね。ありがとう、ミルク』
『嬉しいけど……誰かキングを引き上げてくれないかしら? ずっとこのままの姿勢は窮屈だし、キングに抱き付かれているみたいで嫌だもん』
ミルクがそう言うと、苗木たちはぎこちないながらも笑い声をあげていた。
気が付くと雨は小止みになり、風だけが時折激しく吹きすさんでいた。
天気が落ち着いたせいか、公園を通りかかる人の数が増えてきた。大きな水たまりや僕たちの枝や葉が地面に散乱しているせいか、通りかかる人たちが皆歩きにくそうに感じた。
鉛色の雲の隙間からうっすらと太陽の光が地面に差し込み始めた時、玄関が開き、樹里が姿を見せた。
髪を左右に振り乱し、ショートパンツのポケットに手を突っ込み、サンダルの音を立てながら、樹里はふらふらと僕の方に近づいてきた。彼氏が出来て、もう僕のことなんか眼中にないはずなのに、なぜ僕に近づいてくるのだろうか?
『ねえ、樹里ちゃんの表情、いつもより暗くない?』
ナナが心配そうに声を上げた。よく見ると、時折携帯電話の画面を見つめる樹里の表情は、どこか深刻そうに見えた。
樹里は携帯電話をポケットに仕舞いこむと、吹きすさぶ風に立ち向かうかのようにその場に仁王立ちになり、両手の拳を握りしめたまま、大きく息を吸い込んだ。
「ちくしょう! 風のバカヤロー! 雨のバカヤロー!」
樹里は息を吐きだしながら、がなり立てるように叫んだ。
僕は彼女がなぜ風や雨をバカヤロウと言うのか理解に苦しんだが、いつものようにイライラして何かに当たり散らしたいだけだったのかと思っていた。
樹里はゼエゼエと息を荒くしながら、長い茶色の髪が顔にかぶさったままうつむいた。
「……私の、バカヤロー……」
樹里は小さな声でそう呟くと、突如嗚咽し始めた。
『おいおいケビンさん。いくら樹里ちゃんに嫌われたからと言って、泣かせちゃダメだろ?』
苗木たちは怪訝そうな様子で僕を睨んでいた。
『ち、違うよ! 何もしていないよ。突然泣き出したんだよ』
僕は必死に否定したが、苗木たちの視線はひたすら冷たかった。
樹里は涙を拭いながら、携帯電話のボタンを必死に押しまくっていた。しばらくすると、煩いほどの音量を上げながら携帯電話が鳴り出した。
「もしもし……あ、建佑? ごめんね、急にこっちからメッセージ送りつけて。だって、心が苦しくて、誰に怒りをぶつけていいか分かんなくてさ」
どうやら樹里は、恋人の建佑と話をしているようだ。
「そうなの、ばあちゃん、ついさっき亡くなったの」
僕は一瞬、耳を疑った。
そして、驚きのあまり全身が硬直してしまった。
どうやら樹里の祖母・怜奈が亡くなったようだ。
「さっきまですごい雨風だったじゃん? ばあちゃん、自分が行って公園とケヤキ達を守らなければいけないって言って、ベッドから突然起き上がって病棟から出ようとしていたんだって。父さんと母さんが病院から呼ばれて急いで説得したんだけど、全然言うことを聞かなかったみたいで……。雨風が止んだ時に、ようやく安心して眠りについて、そのまま死んじゃったんだって」
何て言うことだ。
怜奈はこの公園を守りたい一心で、周りの反対を押し切って出かけようとしていたなんて。そして、それが引き金になって、息を引き取ってしまったなんて。
「私は行かなかったのかって? だって、私が行ったら、只でさえ仲が悪いからきっと喧嘩になると思って……」
樹里は伏し目がちにそう言うと、再び目に涙が溜まりはじめた。
「でも、今思えば行っておくべきだったなって。親と一緒にばあちゃんを説得していれば、もっと早くベッドに戻っていたかもしれないし。そしたらきっと、ばあちゃんが死ぬなんてことにならなかっただろうし……」
話をするうちに、樹里は次第に声の調子が落ちていった。でも、樹里が行ったところで果たして怜奈は言うことを聞いただろうか? 怜奈は自分の考えをなかなか曲げない性格だし、特にこの公園には相当な思い入れがあるから、誰に引き留められてもきっと強行突破しようとするに違いなかった。
「ありがとう建佑、もういいよ。え? ばあちゃんが死んで寂しくないのかって? まあ、正直まだ信じられないし、受け止められないけどさ……。この話はまた今度、学校でね」
樹里は携帯電話を閉じると、ポケットに仕舞いこんだ。大きなため息をつくと、「ちくしょう……」と唸るように声を上げ、その後ベンチの上でうつむいたまま座り込んでいた。公園の沿道では、一台の車が速度を落としながら僕の方へ近づいてきた。
『あれ、シュウの車だな。病院から帰ってきたのかな?』
『朝方は大雨の中猛スピードで出て行ったのに、帰りはずいぶんゆっくりと走ってきたぞ』
車は公園の入り口辺りで停まると、ドアが開き、シュウと芽衣が姿を見せた。
二人とも目元に深いくまが出来て、僕が見ても大分疲れ果てているように見えた。
「樹里、そこにいたのか」
シュウはベンチの上で座り込む樹里の前に立つと、ため息をつき、かすれた声で話しかけた。
「さっき電話でも話したけど……おばあちゃん、ついさっき亡くなったんだ」
「……」
シュウはそこまで話すと、公園をぐるりと見渡した。隣に立つ芽衣はすっかり気落ちし、時折思い出したかのように顔を押さえてむせび泣いていた。
「なるほど、かなり木の枝や葉が散乱しているな。おふくろが心配していたのも分かるな……」
シュウは公園の中に落ちた枝葉を踏みしめながら、雨風の壮絶さを確認していた。
「何だこの木は? 今にも倒れそうだな、これは」
シュウは横倒しになっているキングの姿に気づくと、折れ曲がりそうなその体を両手でゆっくりと起こそうとした。やがてサワサワと音を立てて葉を落としながら、隣に立つミルクと折り重なっていたキングの頭は真上へと引き起こされた。
倒れ込んだキングの体とずっと密着していたミルクは、ようやく安堵の様子を見せた。
一度は体を揺り起こされたキングだったが、風の衝撃は相当ひどかったようで、キングの体は不安定な姿勢のまま、今度は真後ろの植栽の方にもたれかかるように倒れていった。
「これは俺には無理だな。後で市に電話してちゃんと手当てしてもらわないとな」
汗をぬぐいながら、シュウは芽衣と樹里の元へと戻っていった。
「おふくろはあの木の身代わりになったのかな、ひょっとして」
「そうなの?」
「うん、まあ、何となく……だけど」
シュウと芽衣は、寄り添いながら斜めに立っているキングの様子を遠目で見つめていた。二人の真後ろで、樹里は相変わらずうつむいたまま座っていた。
シュウは樹里を見て、苛立たしげに声を上げた。
「おい、樹里。寝てるのか?」
「……起きてるけど?」
「お前、何で来なかったんだ? おばあちゃんが嫌いなのは分かるけど、お前のこと、小さい頃からずーっと面倒見て来たんだぞ。なのに一度も見舞いに行かず、何考えてるんだ!」
シュウが声を荒げても、樹里はそっぽを向いたままベンチに座り込んでいた。
「ねえ父さん。ばあちゃん、まだ病院にいるの?」
「ああ……まだ病室のベッドの上にいるよ」
「これから行ってもいい? 今更だけど、ちゃんと謝りたいんだ」
「……いいよ」
樹里はようやく立ち上がると、シュウに背中を押されながら車に乗り込んでいった。
車のエンジンがかかり、次第に公園から遠ざかっていく様子を、僕はひたすら見つめていた。
いつの間にか風は小康状態になり、西の空が真っ赤に染まり始めていた。
怜奈の思い出がたくさん詰まった公園には、風で落ちた木の枝や葉が散らばっていた。
「何でこんなに散らばってるの? 今すぐ掃除しなくちゃダメでしょ!」
怜奈が箒と透明袋を手に玄関から姿を見せ、そそくさと枝や葉を片付け始める——今もまだそんな気がしてならなかった。
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