第185話 思い出がいっぱい
ついこないだまであんなに暑かったのに、朝晩はめっきりと冷え込むようになった。時折強く吹く西からの風に押されて、僕たちについている葉は真っ赤に染まり、一枚、また一枚と地面に落ちていった。
『寒くて凍えそうだよ。ちょっと前まで暑くて気がめいりそうだったのに』
『僕らが小さかった頃って、暑い時と寒い時の間に、涼しくて快適な時期があったはずなのに……』
苗木たちは寒さに震えながら、落ちていく葉を見つめ続けていた。
例年であれば地面が僕たちの葉で埋め尽くされてしまうのだが、今年はそんなこともなく、公園内は整然とした状態を保っていた。
近くのマンションの人たちや、樹里が呼びよせた掃除動画を撮影する若者たちが定期的に訪れては、公園を綺麗に清掃してくれていた。
平穏な秋の公園で、僕たちは過ぎ行く時間をのんびり過ごしていたが、そんな空気を突き破るかのように、車が急ブレーキ音をかけて公園の沿道に停まった。
すると、運転席からシュウが飛び降り、全速力で玄関へ駆け込むと、大声で何かを叫んでいた。
その後静寂が戻ったが、しばらく時間が経った後、突然「ふざけんじゃねえよ!」という金切り声が上がり、その後何人かで何かを言い合っている声が聞こえてきた。
その声はあまりにもすさまじく、遠くにいる僕たちにもはっきりと聞き取ることができた。
やがて、激しい音を立てて玄関が開き、樹里が鬼の形相でこちらに向かって走り出した。茶色い髪を振り乱しながら走ってきた樹里は、ベンチに腰掛けると、息を切らしながらうつむいた。
「くそっ、何で私も一緒に行かなくちゃいけねえんだよ、あのババアの所に」
樹里は吐き捨てるようにそう言うと、ベンチを握りしめた片手で殴りつけた。
「今日は大事な約束があるってあれほど言ってたのにさ、何聞いてたんだよ、ウチの親は。そんなにあのババアのことが大事なのかよ?」
樹里の言葉には怒りがこもっていた。親ということは、シュウや芽衣との間に何かトラブルがあったのだろうか?
「樹里! そこにいたのか!」
再び玄関の開く音がして、シュウと芽衣が声を上げて樹里の元へと駆け寄ってきた。
「あんたも行かなくちゃだめだよ。おばあちゃん、今日は少し病状が落ち着いてるっていうし、おばあちゃんもあんたに会えるのを楽しみにしているのよ!」
芽衣は腰に手を当て、まくしたてるような口調でベンチから動こうとしない樹里をたしなめた。
「今日はどうしても外せない約束があるって、前から言ってただろ? どうしてそれを忘れて、今朝になって急に『ばあちゃんの所に行くぞ』なんて言うわけ?」
樹里は顔に覆いかぶさった髪の隙間からするどい眼光を発しながら、唸るように自分の気持ちを訴えていた。
「悪いが、諦めてくれ。樹里に会いたいというおばあちゃんの気持ちをわかってほしい。おばあちゃんに会えるのは、これが最後かもしれないんだぞ? 約束が何なのかはわからないけど、そんなもの、後でも何とかなるだろ?」
シュウは樹里の前でしゃがみこみながら、懐柔するかのようにゆっくりと易しい口調で語り掛けた。しかし、樹里はシュウが話し終えるや否や、急に立ち上がり、シュウを見下ろしながら「ざけんなよ!」と叫んだ。
「お前らに私の約束の何が分かるんだ? 私は今日が来るのを楽しみにしていたんだ。私が約束破ってばあちゃんに会いに行って、その結果あいつと私の間にひびが入ったら、どう責任取るつもりなんだよ!」
「あいつ? 誰なんだ、それは」
「お前らになんか話したくない。とにかく、私は予定通り行ってくるからね!」
樹里はブーツで靴音を立てながら、遠くへと走り去っていった。
「待て! 樹里!」
シュウは樹里を追いかけようとした。
「いいのよシュウ。もう行きましょ」
「でも、おふくろは樹里に会いたがってるじゃないか。病室に行っても、この公園のことと、樹里の勉強や進路のことばかり俺たちに聞いてくるだろ?」
「でも、無理に連れて行ったら、却って気まずくなるかもしれないわよ」
「……ちくしょう、何であいつはあんな風にひねくれてるんだ」
「それはパパに似ちゃったから、どうしようもないわよ、ね?」
「ぐっ……」
二人は寂しそうな表情で、公園の傍に停めていた車に乗り込んだ。
車が遠くへ走り去るのを見届けながら、僕は思わずため息をついた。
怜奈の病気は予想以上に悪化していたようだ。シュウ夫婦の話を聞くうちに、寂しさで胸が苦しくなっていくような気がした。
『樹里ちゃんの約束って何だろう? ひょっとして、オ・ト・コ?』
『だとしたら、ショックだよね、ケビンさん』
『ふーん、ケビンさんに強力なライバル出現ってことか』
さっきの樹里の話を聞いていたのか、苗木たちはにやつきながら、くだらない噂話で盛り上がっていた。
僕はあきれながら、薄曇りの中自分の真上からひらひらと舞い散っていく葉を見ていた。こんな枯葉だらけのケヤキを、若くて元気盛りの樹里が好きになるわけなんかないのに。
午後になり、曇り空から薄日が差し始めた時、公園の沿道に一台の車が停まった。
病院に行っていたシュウ夫婦が戻ってきたらしく、二人は座席から降りて、荷台から何かを取り出そうとしていた。やがてシュウは、車のついた大きな椅子をゆっくりと降ろし、ガラガラと音を立てながら後部座席の前に付けた。
「芽衣、おふくろのことを降ろしてくれるか?」
シュウが声を掛けると、芽衣はドアを開け、両腕を突っ込んで誰かの体を自分の方へ引き寄せた。芽衣に抱えられた人物が椅子に載せられると、シュウは椅子を少しずつ前方へと走らせていった。
椅子の上に載っていた人物は、髪は真っ白に染まり、頬は痩せこけ、衣服から見える腕は棒のように細くなっていた。
しかし、僕はその表情に十分見覚えがあった。そこにいたのは、間違いなく怜奈だった。
「おふくろ、わかるか? おふくろが大好きな公園に来てるんだぞ」
「そうだね……久しぶりね、ここに来たのは」
「どうだ? 感想は」
「うれしいに……決まってるでしょ?」
かすれた声で、怜奈はこの場所に来れた嬉しさを表現していた。
「ねえ、公園、すごく……綺麗ね」
怜奈は目を細めながら、辺りを見回した。
「あ、そうそう。誰だかよくわからないけど、時々公園を掃除してくれる人がいてね。あんなに草やゴミがあったのに、気が付くとこんなに綺麗になってたんだ」
「よかった」
怜奈は一言だけそう言うと、椅子の上で安堵した表情を見せた。
「私、ずっと、ずーっと……公園のことを心配してたの。私以外に、掃除をやる人がいるんだろうかって、今すぐにでも掃除に行きたいって、ずーっと心が疼いてたの……」
怜奈がそう言うと、芽衣は何度も目元を拭った。そして、小さな声で「ごめんね」と繰り返し言いながら怜奈の背中を何度もさすった。
「謝らなくて良いわよ。私、この公園が好きだから……そして思い出がいっぱい詰まっている場所だから……ずっと綺麗にしておきたくてね」
怜奈は芽衣の方を振り返ると、その髪に優しく触れた。
「結婚した時にね、隆也が私を公園に連れてきて、当時ここに立っていた木に私のことを紹介したの……まるで家族に紹介するみたいに、『今度、この人と結婚するんだ』ってね。そうそう、あそこにいるカップルみたいに、二人仲良く連れ立ってね……」
怜奈は頬を赤らめながら、真正面の方向を指さした。怜奈の指先には、一度どこかへ行ってしまったはずの樹里の姿があった。樹里のすぐ隣には、同じくらいの歳の少年が立っていた。
「樹里?」
芽衣が樹里の姿に気づき、声を掛けた。樹里は僕を取り囲むように並んでいた芽衣と怜奈の姿を見て、突如顔をひきつらせた。
「どうしておばあちゃんが、ここに?」
「どうしてって、今日は体調が良いから、特別に外出を許されたんだよ。そしたら、いの一番にここに来たいって言われてさ」
シュウは怜奈の椅子を支えながら答えていた。
「無理して連れてくんなよ。病気、重いんだろ?」
樹里は顔をしかめながら、視線を注ぐ他の家族から目を逸らそうとした。
「その人、誰なの?」
怜奈は樹里の隣の少年を見ながら、訝し気な表情で問いかけた。
「誰だっていいだろ……」
「僕は
「バカ! 余計なこと言わなくていいって!」
「僕が樹里さんを誘ったんです。勝手なことをして、すみませんでした」
建佑という少年は樹里を片手で制すると、芽衣たちの前に出て深々と頭を下げた。
「ひょっとして……あなた、樹里の彼氏?」
怜奈は建佑に顔を近づけ、穏やかな表情で問いかけた。
「はい……」
建佑が頷くと、怜奈は建佑に微笑みかけ、「樹里をよろしくね」と伝えた。そして、椅子を動かしながら、今度は樹里の元へ近づいた。
「樹里、あんたには色々つらく当たってごめんね……でも、それはあんたのことを誰よりも気にしてるからなの。これだけは、分かってほしい」
そう言うと、棒のような細い腕を伸ばし、樹里の手をそっと握りしめた。
「ばあちゃん……」
怜奈の手を握りしめながら、樹里は言葉少なくその場に立ち尽くしていた。
「じゃあね樹里。今日はみんなに会えて……そしてここに来れてよかった」
怜奈は別れを惜しむかのように何度も公園の中を見回した。ここには思い出がいっぱい詰まっているのだろう。隆也と出会い、シュウを育て、孫の樹里と遊び、芽衣と一緒に世間話をしながら掃除をして……彼女がいの一番にここに来たかったという気持ちは、僕にも痛い程理解できた。
「さ、そろそろ外出時間も終わりだし、病院に帰ろうか」
「うん……」
シュウに声を掛けられ、怜奈は軽く頷いた。その目には、うっすらだけど涙がにじんでいた。
公園の外に出た怜奈は、シュウに抱きかかえられて車に乗せられ、そのまま遠くへと走り去っていった。車が豆粒になるまで、樹里と建佑はずっと見届けていた。
「いいおばあちゃんじゃないか。樹里」
「全然よくないよ。家に居た時は、いつもくだらないことで私に難癖付けてきたんだよ」
「でもさ、樹里もこの公園が好きなんだろ? おばあちゃんと同じじゃん」
建佑は携帯電話を取り出すと、僕たちの姿が写った写真を樹里に見せた。おそらく樹里が撮って建佑に送った写真なのだろう。
「くそっ、悔しいけど……否定はできないかな」
「ほらね」
建佑は樹里の手を掴むと、二人肩を並べて歩き出した。
『へえ、樹里ちゃんと建佑くん、なかなかいい雰囲気じゃないか』
『残念だねケビンさん。今は辛いだろうけど、きっと素敵な彼女がいつか現れるよ』
苗木たちは僕が失恋したと思い、慰めようと言葉を掛けてきた。
『いい加減にしろ!』
思わず僕は叫んでしまった。
え? 振られて悔しかったから叫んだのかって? それは、ノーコメントということで。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます