第176話 仕組まれた罠

 目が覚めると、辺り一面がまばゆい光で明るく照らされていた。

 昨日まではどんよりと曇り、容赦なく雨が地面を叩きつけ、たくさんの水たまりができていたはずなのに、水たまりのほとんどはいつの間にか渇いて干上がっていた。

 早朝から太陽が強烈な光を放ち、抜けるような真っ青な空が広がっていた。

 どうやら長く続いた梅雨の季節が終わり、今年も本格的な夏が始まったようである。

 朝からセミたちがどこからともなくやってきて、僕たちの幹の上で、けたたましい声を上げて鳴きだした。

 ギギギギ、ジリジリジリ……様々な種類の鳴き声が一斉に公園中に響き渡り、頭の中がパニックになりそうだ。


『もう、早くどっか行ってよ。うるさくて耳がおかしくなりそうよ』


 キキがセミに負けないほどの金切り声で叫んでいた。


『こいつら、一体どこから集まってくるんだ? シッシッ! あっち行け!』


 ヤットも不機嫌そうな声で必死にセミたちを威嚇していた。


『とにかく耐えるしかない。彼らはがんばってもそんなに長く生きられないからさ』


 僕は、何とかしてささくれ立った苗木たちの気持ちをなだめようとした。


『ケビンさん、俺たちのリーダーなんだろ? 能天気なこと言ってないで、こいつらを追い払ってよ』


 ケンは僕に無茶ぶりを仕掛けてきた。彼はいつもケヤキ達のリーダーである僕に挑発的な言葉を投げかけてくるが、今回は相当な難問であった。

 しかし、リーダーとしては、何とかして威厳を示さなければいけない。

 僕は力をため込むと、全身を震わせながら大声で叫び散らした。


『おい、お前たち、もっと静かにしろ! 静かにできないのなら、どこかに行ってしまえ!』


 しかしセミたちは一向に退散する気配すらなく、それどころか他所から飛んできたセミが僕の幹に付着して鳴き声の煩さが倍増してしまった。


『何やってんだよ! 余計にセミたちを呼び寄せてどうするんだ!』

『そうよ。全く役に立たないリーダーね』


 大声で叫んで息を切らす僕に対して、苗木たちからは僕を蔑む声と痛いほど冷たい視線が投げかけられた。

 折角リーダーとして威厳を見せられる機会だったが、そう簡単にはいかないようだった。

 今日は朝からずっと気温が高く、外を出歩く人もまばらであった。

 こんな暑い日にも関わらず、芽衣が一人で公園に姿を見せ、園内の雑草を刈り取っていた。今日は怜奈の姿が無かったが、この天気の下で作業をさせるのはさすがに危ないと思ったのだろう。

 一人ぼっちの作業でも芽衣は不満を一切言わず、一心不乱に草を刈り続けていた。つばの広い麦わら帽子をかぶり、長袖のシャツと長ズボンを着こみ、汗だくになりながら必死に作業をする芽衣を見ていると、『無理しないでいいよ。ちょっとくらい草が伸びても気にしていないから』と無性に声を掛けたくなってしまった。


『ねえ、あいつらよ! 久しぶりにあいつらが来てる。みんな、気を付けて!』 


 その時、セミたちの声に交じってナナが必死に叫んでいる声が僕の耳に入った。

 僕はナナの方向を振り向いた。その瞬間、僕の全身は凍り付いた。

 そこにいたのは、これまで僕に散々いたずらを仕掛けてきた兄弟……そう、坊主頭と髪の長い男の二人の姿があった。警察によるこまめなパトロールの甲斐があって、最近はほとんど姿を見せなかったのに……。


『ケビンさん、気を付けて! 奴ら、またケビンさんの方向に行ってるよ。今度は何をするつもりなんだ?』


 苗木たちは、恐れおののきながら僕の方を見て叫んだ。

 今日の二人は撮影用のカメラではなく、アイスクリームを手にしていた。今までのように、動画を撮る目的で僕の所に来ているようには見えなかった。


「今日はめっちゃ暑いなあ。なあ翔真、ここでちょっと休んでいこうか」

「そうだな。せっかく買ったアイスが解けちまうから、ここで食べようぜ」


 二人は僕の真下にあるベンチに腰掛け、棒付きのアイスクリームを食べていた。さすがにこんなに暑いと、無茶をする気持ちも起こらないのだろうか。何もせずにくつろいでいる彼らの姿を、逆に僕は不気味に感じていた。

 しばらくすると、坊主頭がアイスクリームを食べ終えて髪の長い男の方を向いた。


「翔真、ちょっとだけキャッチボールでもするか?」

「ああ、そうだな。熱中症にならない程度にな」


 キャッチボール? ボールがないのに、どうやってやるつもりなのだろうか?

 すると髪の長い男は食べ掛けのアイスクリームを坊主頭に渡し、僕の幹に手を掛けて一気に駆け上った。髪の長い男が枝の上に足を載せると、坊主頭がアイスクリームを手に僕の根元にやってきた。


「さ、行くぞ! 上手くキャッチしろよ」


 坊主頭は、アイスクリームを枝の上にいる髪の長い男に向かって投げつけた。


『やだ、ケビンさんにアイスがぶつかっちゃう!』


 ミルクが悲鳴を上げた。

 しかし、アイスクリームは髪の長い男の手中にしっかり収められていた。


「おう、ナイスキャッチ! よし、今度はそこから俺に戻してくれるか?」

「あいよっ」


 髪の長い男は親指を立てると、アイスクリームを真下にいる坊主頭を目掛け投げつけた。


『危ないっ! 根っこに命中しちゃうよ!』


 ミルクが再び叫んだが、地面に落ちる手前で坊主頭がかろうじて受け取った。


「あっぶねーな。ちゃんと見てろよ」

「わりいわりい。よし、もう一回やろう。今度はカッコよく受け取るからさ」

「しょうがねえなあ」


 坊主頭は再びアイスクリームを髪の長い男に投げつけた。すると、頭上から白い液体が一滴、また一滴と僕の幹や根元に落ちてきた。

 どうやら何度も投げつけているうちに、アイスクリームが溶けてきたようだ。その後もアイスクリームが投げられるたびに液体が降り注ぎ、僕の幹や根に付着していった。更に悪いことには、液体が付着した部分にアリが集り始め、不快感が余計倍増した。

 誰か、彼らの暴挙を押さえられる人間はいないのだろうか? そういえば、芽衣が草刈りをしているはずだが、さっきからどこにもその姿を確認できなかった。


『あれ? 芽衣さんは……帰っちゃったのかな?』

『何言ってるの? 芽衣さんなら、そこにいるけど』


 僕が苗木たちに尋ねると、キキが芽衣の居場所を教えてくれた。ちょうどキキとヤットの間の植栽に潜むかのように、芽衣が座り込んでいた。その手には草刈り鎌ではなく、携帯電話を握りしめていた。


『芽衣さん、奴らの悪行を撮影してるんだよ。さっきから、ずーっとあの二人に携帯電話を向けてるんだもん』


 芽衣は植栽に隠れながら、微動だにせず携帯電話を向けていた。おそらく先日と同様に、撮影した動画を市役所や警察に差し出すつもりなのだろう。


『何だあいつ、さっきから何やってるんだよ!?』


 その時、公園の奥に立っているケンの唸るような声が聞こえた。僕はケンのいる方向を見ると、そこには今まで会ったことのない金髪の若い男が、ビデオカメラを芽衣の方向に向けて撮影していた。


『変だよな、芽衣さんばっかり撮影して。撮影すべきはあの二人の悪行なのに』


 ケンの隣に立つヤットも金髪男の行動を不審に思っているようだ。

 芽衣を撮って、一体どうするつもりなんだろう? 

 しばらくすると、髪の長い男は枝から地面へ飛び降り、坊主頭からアイスクリームを受け取ると、「帰ろうぜ」と言って公園の外に向かって歩き出した。

 そして、二人が公園を去るのと同時に、金髪男もそそくさと公園から出て行った。あの男、二人と何か関係があるのだろうか?

 芽衣は二人が帰ったのを見計らって僕に近づいてきた。そして、僕の幹や根に付着した白い液体に指を近づけると、そっと撫でるように掬い取った。


「やだ、これ、アイスクリームじゃん! しかもアリがこんなに……!」


 芽衣は声を震わせながら指についた液体をティッシュで拭き取ると、その後、僕の幹や根に付いた液体を必死にこすり取ろうとしていた。


「あーもう、なかなか落ちないし、アリが手にくっつくし、嫌になっちゃう!」


 芽衣は悲鳴を上げて、液体をこすり取ったティッシュを地面に放り投げた。

 僕だって気分が悪いんだから、人間、それも女性ならば猶更嫌な気分になるに違いない。

 その時、僕の背後からコツコツとサンダルの鳴る音が近づいてきた。僕が振り向くと、そこには樹里が立っていた。


「何やってんだよ、母さん」


 樹里は、けだるそうな声で芽衣に声をかけた。肩紐を首の後ろで結ぶキャミソールと極端に短い丈のショートパンツを着て、背中と脚を大胆に露出させた樹里の姿は、ケヤキである僕でさえも見ていて赤面してしまうほど刺激が強かった。


「な、何でもないわよ。それより勉強はどうしたの? 夏休みのうちにやらないと間に合わないわよ!」

「そんなの、どーだっていいよ。どうせがんばってもいい学校なんて行けないんだから。それよりも私、こっちの方が気になってさ」


 樹里は携帯電話を取り出すと、ボタンを操作し、動画を再生し始めた。


「この『マッドブラザーズを盗撮する女を撮影してみた』という動画、今すごくバズってるんだけど、写ってる女の人って、母さんじゃないの?」

「……!」


 僕の目からは遠くて見えづらかったが、動画の中には、携帯電話を持った芽衣らしき女性の姿が映し出されていた。


「一体、誰がこれを?」

「さあ……この動画を上げた『黄金太郎』って奴、初めて見る名前なんだよな。あ、そうそう、コメント欄も見てみろよ。ひでえことばかり書いてあるから」

「なになに……『この女、二人に無断で動画を撮影してるんじゃないか』『どこかに映像を売り渡すつもりで撮影してるのかな』『断りもなしでやってるならば、肖像権違反じゃないか? 訴えてやろうぜ、この女』……ど、どういうこと、これ?」

「さあな。あの二人、TACOTUBERタコチューバーとして全国に名が知れてるし、固定ファンもいるからな。母さんが勝手に動画を盗撮したと思って、怒りを感じてる奴が多いみたいだよ」

「と、盗撮? 私は単にあの二人の行為を警察に告発するために撮影したんだよ」

「ふーん。じゃあ、その行為を逆手に取られたんだな、きっと」


 樹里はそう言うと、舌打ちしながら携帯電話をしまい込んだ。

 その隣で、芽衣は全身を震わせ、拳を握りしめたまま立ち尽くしていた。

 動画を撮影していた怪しげな金髪男……彼が絡んでいるのは間違いない。そして彼は、あの兄弟と何らかの関係がある人物なのだろう。

 公園には、相も変わらずセミたちの喧しい声が響き渡っていた。仕組まれた罠にまんまと嵌められた僕たちをまるでせせら笑うかのように……。

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