第173話 誰か助けて!

 平日の朝、公園の中はまるで嵐が去った後のような風景が広がっていた。

 昨日の夜、動画撮影目的で来た若者たちが、僕や苗木たちを傷つけながら好き勝手な行為を繰り返していた。切り取られた枝が散乱し、幹には落書きされ、何かにぶつけられた衝撃からひびが入るなど、皆それぞれ深い傷を負っていた。


『ひどいよお……こんなひどいことされて、もうここにはいたくないよ』

『僕たちがいくら叫んでも人間たちは気づいてくれない。奴らはきっとまたここに来て、僕たちをいじめるに違いない』


 苗木たちからは涙交じりの声や元気のない声が次々と上がっていた。

 僕もあの兄弟が枝に取り付けたロープの重みで、真っ二つに裂けるかのように枝が折れてしまった。

 この状態をどうやったら打破できるのか?

 面白い動画を撮りたいがために、僕たちを利用することに怒りが収まらなかった。一方で僕は、僕たちケヤキの気持ちが人間たちになかなか伝わらないことへのもどかしさを感じていた。樹里が唯一僕たちの気持ちに気づいていたようだが、彼女がここに来ることが出来なくなってしまった今、僕たちは誰にも理解されず助けられることもなく、徐々にエスカレートするいたずらにひたすら耐えるしかなかった。

 このままでは、再び悲劇が繰り返されることになる。ひょっとしたら致命的な傷を負うことになるかもしれないし、傷を負わなくとも心に深い傷を負い、生きる気力を失う木も出てきてしまうかもしれない。

 誰でもいいから、僕たちの気持ちに気づいてほしい。いたずらから僕たちを守ってほしい。きちんと伝わるかどうかは分からないけれど、僕は目の前を通りかかる人間たちに「どうか僕たちを助けてくれ」と必死に声をかけていた。

 その時、近くの家の玄関が開き、帽子をかぶり大きなゴミ袋と草刈鎌を持った女性たちが談笑しながらこちらに近づいてきた。


『怜奈さんと、芽衣さん……?』


 二人は園内に入ると、いつものようにコンクリートの隙間に生えた細かい草を一つ一つ刈り取っていった。


「イタタタタ……」


 歯ぎしりをしながら怜奈が立ち上がった。


「大丈夫ですか、お義母さん」


 芽衣は怜奈の異変に気付くと、怜奈の身体を支えながらゆっくりと歩きだし、ベンチの上にそっと座らせた。


「今日は暑いし、ここからは私がやるから大丈夫です。ベンチでお茶を飲みながら、ゆっくり休んでください」

「何言ってんのよ。芽衣ちゃんだけじゃ終わらないわよ、これだけ広い公園の草を一人で刈り取るなんて」 

「公園の草のことより、自分の身体の調子を優先してください!」


 芽衣は怜奈の肩に手を置いてたしなめるかのように話すと、怜奈は「ほっといてよ」と言いつつ、腰をさすりながらベンチの上でうなだれていた。いくら同年代の人たちに比べて気力はあるとはいえ、怜奈はもう十分に高齢である。昔と同じように体をかがめて作業をしていたら、すぐに腰が痛くなるのは仕方がないことである。

 こんな時に必要なのは若い人たちの力なのだが、シュウも樹里も草刈りをやろうとしなかった。空の上にいる隆也が現状を見たら一体どう思うだろうか? 

 彼の性格を考えると、「母さんに何やらせてるんだ、お前ら!」っていきり立ったに違いない。



「やだ。何なの、これ!?」


 ちょうど苗木たちの周囲で草刈りをしていた芽衣が、突如悲鳴を上げた。


「芽衣ちゃん、何があったの?」


 怜奈は腰をさすりながら立ち上がると、体をかがめながら心配そうに芽衣の元へ駆け寄った。


「枝がこんなに落ちてるんです。ここしばらくそんなに強い風が吹いていないはずなのに」

「そうよね。何だか不自然よね」


 怜奈は落ちていた枝を拾うと、まじまじと見つめていた。


「変な折れ方してるわね。無理やり曲げられたように見えるんだけど」


 すると芽衣は、怜奈の言葉に反応するかのように突如後ろを向き、怜奈の方に人差し指を向けた。


「お義母さん、それ、私も思いました。誰かがいたずらで木の枝をむしり取ったとしか思えなくて」

「いたずら?」

「そうです。あそこの木を見てください。幹に何か落書きされてるんです。それに、何かがぶつかって陥没したような跡があるんです。これもどこかの誰かがわざとやったとしか思えません」

「ひどいわね。どこの誰が……」


 怜奈は、ひどい傷を負った苗木たちの姿に戸惑いを見せていた。


「私、市役所に電話しますね。公園を管理してる担当の人に話しますから」


 芽衣は携帯電話をポケットから取り出すと、怜奈に背を向けて通話を始めた。僕からは遠くてよく聞こえなかったが、相手方に公園の様子を事細かく伝えているようだった。


「市の担当者も、公園の木に不審な傷跡が残っているのを知ってるみたいで、ずっと気になっていたみたいよ。これから樹木医をこちらに向かわせるって」

「そう。じゃあ、来るのを待とうか?」

「お義母さんは先に家に帰って休んでください。私一人で樹木医と色々話しますから」

「ダメよ。芽衣ちゃんだけにお任せできないわよ。この公園の問題は、私の問題でもあるんだから」

「気持ちはわかりますけど、樹木医がここに到着するまで時間がかかるかもしれませんよ? 今日も暑いし、熱中症予防のためにも、先に帰った方がいいですよ」

「もう……余計な気なんか回さなくていいのに」


 怜奈はむくれた顔で芽衣を睨むと、腰を曲げた姿勢でふらふらと自宅へ戻っていった。昼が近くなり、太陽の光は徐々に力を増してきていた。このままずっとここにいたら、年老いた怜奈には相当な負担になるのは僕でも想像がついた。

 怜奈は一人で携帯電話をいじりながら、ベンチに腰掛けてずっと待ち続けていた。


「こんにちは」


 いつの間にか、僕の真後ろに樹木医の櫻子の姿があった。おそらくさっきの電話の後、市から依頼されて僕たちの様子を見に来たのだろう。

 櫻子は心配そうに僕を見上げると、「あーあ、こないだよりも傷がついてるね」と残念そうにつぶやいた。


「先生、お忙しい所すみません」

「芽衣さん、連絡ありがとうございます。聞いていたよりもひどい状況ですね」

「そうなんですよ……一体どこの誰が、何の目的でやったのか見当がつかなくて。でも、このまま放っておいたらますますいたずらされそうで、この木たちも可哀想だから」

 

 櫻子は苗木達を一本ずつ確認し、傷口に薬を塗ったり応急処置で添え木をするなど、一つ一つ丁寧に治療を施していった。その顔は真剣だがどこか物悲しく、時折目元を拭う仕草が見られた。


「ごめんなさい。私があの時市役所の人たちの言うことを鵜吞みにせず、もっとあなた達のことを気にかけていれば、こんなひどい傷を負わなくて済んだのにね」


 確かに櫻子は以前この公園に来た時に異変に気付いてはいたものの、市の担当者が何事もなかったかのように言ったのを信じ、それ以上は手を施さなかった。しかし仮に櫻子が市の担当者の言葉を疑い、何か防御策を講じたとしても、あの若者たちは隙を見計らって執拗にいたずらを仕掛けてくるから、防ごうにも防ぎようがないと思った。


「先生、これは誰かのいたずら以外に考えられません。私もちょっと心当たりがあるんです。こないだ樹里に会って話がしたいという若い子が来て、しつこく話を聞き出そうとしていたんです。その時、確かカメラを持って動画を撮影していたんですよね」

「そうなんですか。いったい何の目的なんでしょうね」

「樹里に竹刀で殴られたことへの謝罪を要求してきたんです。確かにうちの子は短気ですぐ手を出す性格なので、何かしでかしたかもしれないですけど……」


 芽衣は申し訳なさそうな顔で櫻子を見つめた。櫻子は首を振り、両手を芽衣の肩の上に置いた。


「今は簡単に動画投稿が出来るから、動画の閲覧数を稼ぐため内容もどんどん過激化してるんですよ」

「……」

「他の公園では遊具で無茶な遊び方をしたり、わざと壊したりするのを動画に撮ったりするケースも報告されているんです。この公園では遊具がないから、ケヤキの木が標的にされた可能性はありますね」


 芽衣はこぶしを握り締めながら、櫻子の話を聞き続けていた。そのこぶしは時々小刻みに揺れ、やり切れない思いを必死にこらえているのが僕にも伝わってきた。


「何か方法はないんですか?」

「私は樹木医だから木の健康を守ることが仕事なので、公園の管理をしている市から指導してもらおうと思ったんですけど、市の担当課はこの件になるとみんな逃げるんですよね。誰かに圧力でもかけられてるのかしら」

「圧力?」

「そう。何か必死にはぐらかしてるように聞こえるんですよね」

「じゃあ、どこの誰にこのことを話せばいいんでしょうか? 警察とか?」

「警察は一応パトロールはするでしょうけど、ちゃんと証拠がないと摘発に動きませんから……あとは、弁護士ですかね。何か法的な対策があればいいけど」

「弁護士かあ……この辺にいる弁護士って、あいなちゃんと、そのお父さんかな? でも、あいなちゃんは、生まれたばかりの赤ちゃんの世話に追われてるって聞いたから……」

「そうだとしたら、あとはお父さんに話すしかないでしょうね」


 芽衣と櫻子は、お互いの目を見つめ合い、うなずいた。


「今の私たちに出来るだけのことはしましょ。この公園と木たちを心から愛したお義父さんやお義母さんのためにも、このまま黙ってるわけにはいかないから」

「そうですね。早速動きましょう。私も、もうこの木たちにこれ以上悲しい思いをさせたくないから」


 二人は片手を出し合い、固く握りしめると、あいなと父親が営む弁護士事務所の入っているマンションへ足を進めた。

 その時僕は、茂みの陰からガサガサと物音がしたのを聞いた。目を向けると、二人の男たちが植栽に隠れながら公園の様子を見ていた。

 髪の長い男、そして坊主頭……そう、この公園で迷惑行為を繰り返す兄弟二人組だ。


「あのババアたち、ようやくどこかに行ったな。今がチャンスだぞ」

「ああ、早速行こうか、今日もあの大きな木でいっちょ難しい技に挑むか」


 どうやら、芽衣と櫻子が公園から出ていくのを見計らっていたようだ。

 二人は不気味な笑みを浮かべると、ふらふらと歩きながら僕に近づいてきた。

 僕は息を飲みながら、芽衣と櫻子が出向いたマンションに向かって「早く帰ってきて……」と祈り続けた。

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