第172話 満身創痍
翌日、芽衣が運転する車が玄関の前に横付けされた。
しばらくすると、樹里が玄関から姿を現し、ポケットに手を突っ込んでふらふらと歩きながら車の中に入っていった。
車は樹里が乗るや否や、急発進してあっという間に僕たちの視界から姿を消してしまった。
『ああ……行っちゃったか。僕たちの守り神だった樹里ちゃんが』
『あのくそったれ親子のせいで。思い出すだけでも本当に腹が立つわ』
苗木たちからは、悲鳴や怒りの声が次々と沸き起こった。
樹里は、一見何もせずにぶらぶらと公園を徘徊しているようで、実は僕たちケヤキのことを誰よりも心配していた。
しかし、ここで迷惑動画を撮りまくっていた兄弟とその父親が樹里を警察に通報し、樹里は二度とここで僕たちを見守ることが出来なくなってしまった。
今はもう、誰も見守ってくれる人がいない。
あの兄弟は、再びここで僕たちを傷つけながら迷惑動画を撮り始めるに違いない。
そして、兄弟に倣って悪質な行為をする連中が続々とここにやってくるに違いない。
案の定、僕たちの悪い予感は、的中してしまった。
昼下がり、カメラを持った坊主頭が一人で公園に姿を見せた。公園の中を見渡し、樹里がいないのを確認したのか、公園の外に向かって片手を振った。
「さ、今日からまたここで遊ぼうぜ」
「ハハハハ、あの女、警察に相当こっぴどく怒られたんだろうな。ま、これで邪魔者がいなくなって、せいせいしたな」
「とっておきのやつをやるか」
「そうだな。ロープ、持ってきてるだろ」
「ああ、怪我もよくなったし、体がウズウズして仕方ねえ。今日は久しぶりに大技に挑もうかな」
二人は不気味な笑みを浮かべながら、ロープを手に僕の元に近づいた。
『ケビンさん、気をつけろ! あいつら、またイタズラするつもりだぞ』
『わ、わかってるよ。でも、何もできないよ……』
ケンが僕に声をかけてしてくれたけど、ケヤキである僕に出来ることは何もなかった。
やがて髪の長い男が僕の幹に手をかけ、中腹まで一気に上り詰めた。比較的頑丈な枝を選んでロープを括り付けると、ロープのもう片方の端を自分の足周りに括り付け、木の上から一気に飛び降りた。
『いやっほう!』
髪の長い男は、髪を風になびかせながら地面すれすれのところで逆さ吊りになり、そのまま全身をぶらつかせていた。
「すげえ! こんな地面すれすれのバンジージャンプを決めるとは、さすがだよ、翔真。これで完全復活だな」
カメラを持った坊主頭は、興奮しながらと歓喜の雄たけびを上げていた。
『怖い! なんだよあいつ。あんなひどいことしてるのに、よく笑ってられるな』
『動画のためとはいえ、頭がおかしいとしか思えないわ』
ロープが括られた僕の枝は、重さのあまり下へとしなり、折れてしまいそうになっていた。このままずっとロープでぶら下がっていたら、いつか耐え切れなくなり、無残に折れてしまう。
「おーい、助けてくれよ!」
髪の長い男は突然金切り声を上げて坊主頭を呼んだ。
「何やってんだよ。せっかくカッコよく決めていたのに、台無しだぞ」
「台無しもクソもねえよ、早く何とかしろって!」
坊主頭は神の長い男の胴体を受け止めると、下へ下へとロープを引っ張った。僕の枝はそのたびに強く揺らされ、耐え切れなくなり、ついに「ボキッ」と音を立てて半分にへし折られてしまった。
『い、痛い……!』
枝が折れた衝撃で全身に痛みが走り、僕は思わず悲鳴を上げた
一方で間一髪助かった髪の長い男は、坊主頭に抱きかかえられながら「助かった! ありがとう」と涙声を上げていた。
「翔真ががんばったお陰で、ものすごいアクセス数と『いいね』の数をゲットしたぞ」
「そうか。体を張った甲斐があったなあ」
「でも、コメント欄を見ると、俺たち以上に体を張った動画を撮ってやるって息巻いてるやつもいるぞ」
「ああ……すごいプレッシャーだな。でもこの公園にはせっかくこんな立派な木があるんだ。木を使ったもっと高度な技に挑戦しないとな」
二人は肩を抱き合いながらお互いの労をねぎらい、公園の外へと出て行った。彼らの去った後には、へし折られた僕の枝の半分が無残な姿で転がり落ちていた。
『ケビンさんの枝が、あんな姿に……ちくしょう、あいつらめ。絶対に許せない!』
『ダメだよ。悔しいけれど、僕らは何もできないんだ』
苗木たちがにわかにざわめき始めたその背後で、今まで見かけたことのない若者たちが公園をうろついているのが目に入った。彼らは一体、何者なんだろうか。そしてこの公園でいったい何をするつもりなんだろうか?
夜になり、防犯灯のかすかな灯りが公園を薄ぼんやりと照らす中、柔道着に身を包んだ恰幅のよさそうな若い男性が突如姿を見せた。
男はケンの前で一礼すると、両手を広げた姿勢で突如腰を低くし、そのまま一直線に走り込んで、ケンの幹に飛び蹴りをくらわした。
『ふぎゃあああ!』
ケンの悲痛な叫び声が公園中に響き渡った。
男性はその後も手を緩めることなく、ケンに飛び蹴りや正拳突きをくらわせ、ケンの悲鳴は止むことなく続いていた。
男性の後ろには、カメラを手にした小太りの男性が立っていた。この二人も、動画撮影目的でケンに暴行を行っているのだろう。
『ねえ、ちょっと止めてよ!』
ケンの悲鳴に交じってミルクの金切り声が聞こえてきた。ミルクの周囲にはロープが掛けられ、それを高校生くらいの少年達が左右から引っ張り合っていた。彼らの後ろにも、カメラを持って少年たちを写し続ける少女の姿があった。
『俺んところにもいるよ! くそっ、あっち行け!』
『こっちにも来た! 帰ってよ、もう』
『痛いよお、止めてよお……』
ヤット、キキ、ナナ……他の苗木たちからも、次々と悲痛な声が聞こえてきた。
彼らの周りにも、いつの間にか見知らぬ若者たちが群がっていた。枝葉をむしりとって体中に付けてみたり、針のような道具を使って幹に落書きしたり、切り取った枝に着火して焚火を始めたり……公園の中は、若者たちの手により無法地帯と化していた。
僕とキングだけが彼らの手から逃れているが、いずれ彼らの中から誰かが僕たちの元にやってくるのは目に見えていた。しばらくすると、ケンに蹴りを入れていた柔道着の男がこちらに目を遣り、不敵な笑みを浮かべながら徐々にこちらに近づいてきた。ケンの身体はあちこちにへこみや傷がつき、意識も朦朧としているようだった。
僕やキングも、ケンのようになってしまうのだろうか……?
今日は樹里が剣道の稽古に出てくる様子もなく、僕たちを守ってくれそうな人間はだれ一人現れなかった。
絶体絶命……その言葉が僕の脳裏に浮かびあがった。
『ねえ、けいさつ……来てる』
その時、キングのか細い声が聞こえてきた。
『どうした? また誰か来たのか、キング?』
『けいさつ、来てる……ぼくらを、きっと、まもって……くれる……』
苗木たちが喚きたてる中、かろうじて聞き取れる声でキングがそう伝えたのと同時に、はるか前方から、赤色灯を回しながら警察の車が近づいてきた。
「お前たち、何やってるんだ? こんな夜中に」
車の窓が開き、制服を着た警察官が大声で叫んだ。
「や、やべえ! 警察だ!」
苗木たちの周囲に集まっていた若者たちは、一目散に公園から走り去っていった。
赤色灯を回転させた車は公園の脇で止まり、二人の警察官が灯りを手にして公園内を見回り始めた。
「茂みとかに隠れてる奴はいないよな?」
「いませんね。しかし、木に傷をつけたり、枝や葉をむしって散らかしたり、ひどいですね」
「こっちには焚火の跡が残ってる」
「あの子たちは、一体何をしたいんでしょうね……公園の木にこんなにいたずらして」
警察官たちは公園を歩きながら、ひそひそと話し合っていた。
「そういえば、こないだここで暴力を振るった女の子は?」
「今日は見かけないですね。彼女が再犯を犯さないようにパトロールに来たんですけどね……」
「さっきここにいた連中は、どこから来たんだろう? そういえば、さっきこの近くで他県のナンバーが路上駐車していたよな」
「そうですね。このあたりではあまり見かけないようなナンバーでしたね」
僕は警察官の言葉を聞いて、耳を疑った。
確かに今日ここで悪戯をしていた連中は、今まで一度も見たこともない顔ばかりだった。
「俺たち以上に体を張った動画を撮ってやるって息巻いてるやつもいるぞ」
僕は、坊主頭が去り際にボソッと言っていた言葉を思い出した。
奴の言う通り、触発された連中がわざわざこの公園まで出向いて、より悪質で刺激の強い動画を撮っているのだろう。
いたずらを犯した連中は許せないが、それ以上に彼らを誘発した坊主頭と髪の長い男の兄弟を僕は心から憎んだ。
その後、警察官は赤色灯を回転させながら公園の周りを何度も周回し、怪しげな連中は二度と姿を見せなかった。
一夜が明け、公園の中に朝陽が差し込み始めた。
疲れて眠りに落ちていた僕は、朝陽に照らされてふと目が覚めた。今まで暗闇に包まれて分からなかった公園の様子が、夜が明けてはっきりと僕の視界に入った。その惨状に、僕は気が動転してしまった。
公園の地面は、枝葉が散乱し、焚き火で地面が黒く焼け焦げ、苗木たちは樹皮が傷つき、剥がされ、枝が無惨に折り曲げられていた。
『何度も思い切り殴られて、体中のしびれが止まらないよ……誰か助けて』
『体中に針で落書きをされたの……心も体も辛くて耐えられないわ。出来ることなら、この公園から出ていきたいよ』
苗木達の悲痛な声が聞こえてきた。彼らの姿を見つめ、声を聞くたびに、歯がゆくて、情けなくて、悔しかった。
「樹里、早く乗りなさい。学校に遅れるわよ」
「わかってるよ、うるさいな」
その時、ガラガラと音を立てて玄関が開き、芽衣に急かされながら鞄を手にした樹里が姿を見せた。樹里は公園を横目で見ると、芽衣の車に乗らず、真っ直ぐ僕の方へ近づいてきた。樹里は公園の中を歩き回り、惨状を目にするうちに、眠そうだった表情が徐々にこわばり始めた。
「ひでえ、何だよこれ!」
樹里は顔をしかめて叫び散らした。
散乱した枝を手に取り、顔に近づけると、目に涙を溜めてしゃくり上げ始めた。
「こら樹里! 何やってんの? またサボるつもりなら許さないわよ!」
芽衣が声を張り上げると、樹里は「くそったれが!」と吐き捨てるように叫び、涙を拭いながら車に乗り込んだ。
樹里も僕たちも、何もできない……真っ青な空と燦々と降り注ぐ太陽の下にいるのに、僕たちは先の見えない暗闇の中にいるように感じた。
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