第171話 信じて欲しいのに
翌朝、朝露に濡れた僕たちの葉からは水滴が地面に一つ、また一つと落ちていった。
僕の真下にはベンチが置かれているが、水滴がついてびしょびしょに濡れてしまい、散歩で訪れた人たちがベンチに腰を据えると、顔をしかめながら尻を押さえて走り去っていった。
誰も座ることがなかったベンチに向かって、樹里がズボンのポケットに手を突っ込みながらふらふらと近づいてきた。長い髪をかき上げると、けだるそうな顔で
「何でこんなに濡れてるのかよ」と吐き捨てるように言い、ポケットからハンカチを取り出してベンチの上に広げた。
『樹里ちゃんだ。こんな朝早くから公園に姿を見せるなんて、珍しいよね』
今日は学校に行く日のはずなのに、スウェットの上下を着込み、とても学校に行くような雰囲気には見えなかった。樹里は携帯電話を取り出すと、ハンカチを広げたベンチの上に腰を下ろし、うつろな表情で電話の画面をずっと眺めていた。
「あーあ、かったりィなあ」
樹里は片手で髪をかき乱しながら、大きな声で叫んだ。
そんなに嫌ならば、家に帰ればいいのに……。
「おい、あいつ、まだいるぞ」
どこからともなく、男性の野太い声がした。
振り向くと、僕のちょうど真後ろに髪の長い男と坊主頭の男が立っていた……こちらも仕事や学校に行っている様子もなく、ふらふらとあてどなく公園の周りを歩いていた。
「学校行かねえのかよ。見た感じまだ高校生だろ、あいつは」
「だな。早くどっかへ行っちまえばいいのに。撮影の邪魔だからさ」
二人は樹里の様子を、僕の背後から伺うように見ていた。
しかし樹里は立ち上がる様子もなく、ずっと携帯電話の画面を見続けていた。
「くそっ……こうなったら、奥の手を使うか」
二人は樹里にちょっかいを出すこともなく、そのまま公園の外に出ていった。
折角カメラを手にしているのに、一体何をしにきたのだろうか?
『おい、あいつらまたあのオッサンを連れてきたぞ』
『うわっ……あのいかつい男か。どこまでも卑怯な連中だな』
いつの間にか、僕の視線の先に一人の中年男性の姿があった。
僕の記憶が正しければ、男性は確かあの二人の父親である。
男性は二人から離れると、着ていたジャンパーのポケットに手を突っ込んで、樹里の目の前に立った。
「なあお姉さん。ここで何してるの?」
「ただぼーっと過ごしているんだけど、それが?」
「学校は?」
「うちの学校は単位制だし、休んでもそんなにうるさく言わないから大丈夫だよ」
「ほう、そうかい。でもな、この場所は、周辺に住んでる人たちの憩いの場所だし、学校帰りの子たちが遊ぶ場所なんだ。君がずっとここにいたら、みんな怖くて近寄れないって言ってるぞ」
「ふーん、私はそんな話、聞いたことないな」
男性は後ろを向き、睨みつけるような目つきで髪の長い男と坊主頭を見つめていた。すると二人は「ち、違うよ。俺たちだけじゃなく、俺たちの仲間も、あいつのせいでここで自由に遊べないって言ってるよ」と、必死に弁解していた。
「ほらな、あの二人の言葉を聞いただろ? みんな君を怖がってるんだ。 悪いけど、今すぐここからどこか違う場所に移ってくれないかな?」
「やだね」
「やだ? どうしてかな?」
「聞こえないのかよ、嫌だから『やだね』って言ってんだよ」
樹里は腕を首の後ろに回し、足をベンチの前に投げ出し、反抗的な態度で男性の要求を突っぱねていた。男性はため息をつくと、樹里の前にしゃがみこみ、上目づかいで樹里の顔を見つめた。
「僕の話が分からないようだな」
「はあ? さっきから何寝言を言ってんだよ。大体、あの二人の言うことだけを聞いて、私の言い分は何も聞かないのか?」
「君にも言い分があるだろうけど、他の人たちが君のせいでこの公園に近寄れないのは問題だ。公園は君だけの場所じゃない、みんなが自由に過ごせる場所だ」
「自由? 笑わせるんじゃねえよ。その自由をはき違えてるんだよ、そこの二人は」
「ほう、どんな風に?」
「この公園の木に、いたずらしたり傷つけたりしてるんだよ」
男性は顔をしかめると、再び後ろを向き、坊主頭と髪の長い男を睨みつけた。
しかし二人は「やってねえよ。ダメだよ、そいつの言うことを信じちゃ」と、自分たちにかけられた疑いを必死に否定していた。
「二人とも、そんなことをしていないってさ。君の考えすぎなんじゃないか?」
「やってるよ。今度TACOTUBEに上げている動画を見せてやってもいいぞ」
「今度見てみるよ。それよりも、君のためにこの公園に入れない人たちがいるのは事実だ。悪いが、今すぐここから動いてもらおうか」
男性は樹里の手をつかむと、無理やりベンチから引き離そうと、自分の方へ思い切り引っ張った。
「おいこら、止めろって言ってんだろうが!」
樹里は思い切り腕を振り上げ、男性の手を振り落とした。その瞬間、勢い余った男性はそのまま地面に倒れ込んだ。
「お、親父!」
カメラを手にした坊主頭が慌てて男性に駆け寄った。しかし男性はほどなく立ち上がると、樹里の顔を恨めしそうに見つめながら「早く家に帰れよ」と捨て台詞を吐いて、公園の外へ出て行ってしまった。その真後ろで、髪の長い男と坊主頭が不気味な笑顔を見せながら樹里に手を振っていた。
『何だ、あいつらの顔。出て行ったのはいいけれど、何だか嫌な感じがするな』
公園から去っていく男たちの背中を見ながら、ケンは唸るように声を上げた。
自分の父親まで巻き込んで動画撮影の場を取り戻そうとしたのに、追い払われ、相当根に持っているはずなのに、何なんだろう、あの笑い顔は……。
翌日も、朝早くから樹里が公園に姿を見せた。
僕の元に来ると、辺りをぐるりと見渡し、「チッ、かったりィ」言いながらベンチに腰掛け、携帯電話をいじり始めた。
今日もここで僕たちのことを守ろうとしてくれるのだろうか? それはそれで嬉しいが、学校には行かなくていいのだろうか? あまりにも休むようだと親たちも心配するだろうし……。樹里に心配されている僕たちの方が、樹里のことを心配出たまらなかった。
その時、一台の車が、頭についた赤い灯りを回転させながらこちらに近づいてきた。車は公園の入り口で止まると、紺色の制服をまとい、紺色の帽子をかぶった二人の警察官が降車し、樹里のもとに近づいてきた。
『あの人たち……警察?』
キキが二人の男性を見て、声を震わせていた。
『そうだ。確か昔、隆也さんをここから無理やり連れ去っていった人たちだね。今日はどうしてここに?』
『今、この公園にいるのは樹里ちゃんだけ……ということは、まさか?』
苗木たちは次第にざわつき始めた。彼らの心配通り、警察官たちは樹里を左右から挟み撃ちするかのごとく立ちはだかった。
「ここで、何をしているのかな?」
警察官の一人は、優しい声で樹里に語り掛けた。
「何をって、ここで日向ぼっこしてるんだよ」
「ふうん、そうなんだ。学校には行かないの?」
「行かねえよ。授業なんてつまんねえしさ、時々気が向いたときに行けばいいんだよ」
「だから、ここにずっといるんだね」
「そうだよ。それが何か?」
「この公園を通り抜けたという人から、君に暴力を振るわれたという話があったんだ」
「はあ?」
警察官は、ポケットから携帯電話を取り出すと、樹里の目の前に差し出した。
僕は不謹慎ながら傍からのぞき込むと、画面には昨日樹里が男性を突き飛ばした映像がちらりと映っていた。
「これ、君だよね?」
「あ、あいつら……」
「あいつら? 心当たりがあるんだね?」
「違う! あいつらはあたしをここから無理やり追い出そうとしていたんだ。腕をつかまれたから、振りほどいただけなのに……」
「でも、この人、地面に倒れてるよね。いいのかな、こんなことして」
警察官たちは、画面を見せながらじわじわと樹里を追い込んでいった。
「とにかく、一度事情を聴取させてもらうから、一緒に来てくれるかな」
樹里は警察官に腕をつかまれ、そのまま引きずられるように車に乗せられていった。車は赤い灯りを回しながら発進し、あっという間に遠くへと去っていった。
『やっぱり……あいつら、動画に撮っていたんだよ。樹里ちゃんが抵抗する場面を』
ケンは歯ぎしりしながら、車の行方をずっと目で追い続けていた。
『それを警察官に証拠として差し出したんだね。どこまで卑怯なんだ、全く!』
ヤットも、ケンの言葉に頷きながら怒りを露わにしていた。
その後、いくら待っても樹里が公園に戻ってくることはなかった。きっと警察から、しつこい位に聞き出されているのだろう。隆也の時のように、無実の罪を着せられてしまうのだろうか……?
時間が経過し、西の空が徐々に暮れなずみだした頃、はるか向こう側から夕陽に照らされた二つの影が徐々に僕たちの方へ近づいてきた。
『あ、樹里ちゃんが帰ってきたよ! だいぶかかったなあ。何を聞かれたんだろう?』
苗木たちがざわめく中、樹里は母親の芽衣と肩を並べて公園の中を通り過ぎて行った。自宅の玄関の戸を開ける前に、芽衣は樹里と向き合うように立っていた。
「ごめんなママ、警察署に来てくれて」
「いいのよ。とりあえず故意ではないってことは何とか分かってもらったし……でも、警察の人たち、最後まであんたのことを疑いの目で見ていたわよ」
「……」
「それにあんた、学校を二日間もさぼってたんだって? 私に無断で。どういうこと?」
「ママには関係ないよ」
「関係なくないわよ。とにかく明日からしばらくは私が同伴して学校に行くからね
」
「ふ、ふざけんなよ! あたしだって、好きでさぼってここにいるわけじゃないんじゃないよ!」
「じゃあ、何が目的でここにいるのよ」
「だから、あたしは……」
樹里は何かを言いかけたが、それ以上は口を閉ざした。
「もういい。ママにこれ以上話してもきっと分かってもらえないから」
「じゃあ話さなくていいわよ。とりあえず、明日は絶対に学校に行ってもらうから、早く寝なさいよ!」
芽衣は金切り声を上げ、樹里の背中を押しながら玄関の門をくぐっていった。
『樹里ちゃん……このままでは、もうここには来れなくなっちゃう』
ミルクが悲しそうな声を上げたその背後から、あいつらがカメラを手にやってきた。嘲るかのようにへらへらと笑い、「ざまあみろ」と叫びながら。
樹里のおかげで守られてきた平和な日々が終わり、再び地獄の日々がひたひたと忍び寄ってくる予感がした。
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