第170話 守りたい一心で
雨上がりの朝。
太陽が強い日差しを放ち、僕たちの葉についた朝露が白く輝いていた。そして、怖いくらい真っ青な空が真上に広がっていた。
今日は早い時間から公園沿いに小型の車が止まっていた。車の色や形を見ると、樹木医の櫻子の乗っているものだろう。櫻子はこの公園のケヤキの樹木医としてすっかり定着し、僕たちは彼女の乗っている車まですっかり覚えてしまった。
櫻子は車を降りると、車輪のついた大きな鞄を引きずりながら僕たちの前にやってくると、いつものように僕たちを一本ずつ看て回った。丁寧に枝や葉、幹の健康状態を確認し、根元に栄養分を注入した。
「あれ? 今日はみんな傷だらけね……一体どうしたの? 君なんか、切り刻まれた跡も残ってるし」
櫻子は首をかしげながら、キングの身体を見回していた。キングはこないだ、動画を撮影していた若者たちに危うくのこぎりで切り取られそうになった。その時にできた傷跡は、今も彼の身体にくっきりと残っていた。そのほかの苗木たちも、踏みつけられたり、ロープを括り付けられたりして、何かしらの傷跡が出来ていた。
櫻子はキングの傷跡に薬品を塗り付けていた。
『い……いたいっ』
キングはかすれた声で、必死に叫んでいた。僕も何度か塗ってもらったことがあるが、傷跡に塗る薬品は飛び上がりそうになるほど刺激が強いのだ。
「さ、次は君だね」
櫻子は僕の方を振り向くと、真上から根っこまでじっくりと見回した。
「こないだと違うところにも傷が出来てるね」
櫻子は傷跡を発見すると、カメラで写真に収めていた。櫻子が覗き込んでいるのは、無理やり木登りしたり、枝にロープを括り付けてブランコのマネをしていた連中が作り上げたものだ。
「ひどい。ここの枝なんて、今にも折れそうじゃない」
櫻子は急いで車に戻り、梯子を手にして僕の元へと戻ってきた。梯子をゆっくり踏みしめながら僕の折れ曲がった枝に手をかけると、補強材のようなものを何重にも巻き付けた。締め付けられて窮屈だけど、このまま枝が折れてしまうと元に戻るには相当な時間がかかってしまう。
「どこの誰が、こんなひどいことを……」
僕への手当が終わると、櫻子は大きなため息をつきながら梯子を下りて行った。そして、鞄から一枚の書類を取り出し、僕の目の前に差し出した。
「あなたの症状を私の先輩や上司にも相談したの。とりあえず、手術の必要はないって。これは病気ではない。樹皮が剥がれやすいのは、栄養が足りないのと、老木になってきた証拠だよって言って笑われちゃった」
櫻子はにっこり笑いながら書類をかざすと、鞄にしまい込んだ。
とりあえず手術する必要がなく、胸のつかえが下りたような気分になったけど、老木という言葉を聞き、僕はちょっと複雑な気持ちになった。まだまだ若い木のつもりでいたのに。
「でもね、明らかに不自然で、人の手で剥がれたと思われるものもあったんだって。誰かにいたずらされたんじゃないかって……」
そう言うと、櫻子はあごに手を添えながら補強材が巻かれた僕の枝をじっと見上げていた。
「今日診察したら、何だかだんだんひどくなってきてるもんね。ちょっと市の担当者にも相談してみようかな」
道具を片付け終わると、櫻子は携帯電話を取り出し、片手で持ちながら色々話し出した。僕たちの様子がおかしいことを逐一話していたが、途中から櫻子の声のトーンが落ちはじめ、渋い表情をしながら何度も首をかしげていた。
「わかりました……とりあえず、公園の木に異変があったら私にも情報共有お願いしますね」
櫻子は携帯電話を作業服のポケットにしまい込むと、両手を天にかざしながら何度も首を振った。
「今、市の担当者にも聞いたんだけど、何も知らないって。市民からそのような苦情もきてないって。でも何だか変なのよね、職員の子たち、焦ったような様子で必死に否定してるのよ。何かを隠してるかのように感じるんだけど……」
櫻子は鞄を引きずりながら、何だか名残惜しそうに僕たちの様子をうかがいながら公園を後にしていった。彼女なりに異変に気付いてはいるようだが、それが誰の仕業であることまでは突き止められなかったようだ。
市の職員は誰の仕業なのか知らないと言っているようだが、彼らは現場を見に来ているはずだ。僕は彼らが「知らない」と言い続ける理由を何となく知っていた。きっとあいつらに、相当圧力をかけられているんだろうな……。
次第に辺りが闇に包まれ、公園の中を歩く人の数も減っていった。
静まり返った公園の中、近くの家の玄関が空き始める音が響き渡った。
気が付くと、僕のすぐ近くに竹刀を手にした樹里の姿があった。
『おお、樹里ちゃんだ。今日もここで剣道の練習するんだね』
『これでまる一週間、いや十日かな? 練習が続いているのは』
僕たちを相手にいたずらしていた若者たちを追い払ったあの日以来、樹里は毎日のようにこの公園にやってきた。玄関から出てくるときはだるそうな表情をしているものの、いざ竹刀を手にすると表情が一変した。前後左右に機敏に動き、ヒュンヒュンと風を切るような音を立てながら素早く竹刀を振り下ろしていた。
『樹里が練習している間は、あいつらが姿を見せないね。竹刀で返り討ちされるのが怖いのかな?』
『だろうね。なかなかの腕前だからね、樹里ちゃんは』
樹里が竹刀を何度も振り続ける中、僕の真後ろから不気味な笑い声が聞こえてきた。
その笑い声は、どこかで聞き覚えがあった。
そして、笑い声の主が暗闇の中から徐々に僕の目の前に現れた時、僕の全身は硬直した。
『見ろよ、あいつらだ!』
ヤットが大声で叫んだ。あいつら……そう、坊主頭と髪の長い男の二人組が。
坊主頭の手には、カメラがしっかりと握られていた。髪の長い男はケガが完治したようで、よろめく様子もなくまっすぐ背を伸ばして樹里に視線を向けていた。
「よう姉さん、カッコいいなあ。こんな夜に剣道の練習とは」
そう言うと、髪の長い男はポケットに手を突っ込んだまま、樹里の真正面に立ちはだかった。
「なんだあんたたちは、邪魔だからどけよ。ケガするぞ」
「ケガ? まさか、俺たちが? そんなわけないでしょ? ガハハハ」
二人は顔を合わせながら大笑いしていた。
樹里は竹刀を手にいらついた表情で二人を見つめていた。
「で、結局あんたたちは、何をしたいんだ?」
「姉さんと一度お手合わせをしたいなと思いましてね」
「馬鹿じゃねえの? 竹刀持ってるのかよ? それに防具をつけないと、大怪我するぞ」
「いえいえ、そんなものがなくてもいいんです。僕らは『いい
髪の長い男は深々と頭を下げると、頭を指さしながら「さ、そのまままっすぐ僕をめがけて、思い切り竹刀を振り下ろしてください」と言った。
樹里は「馬鹿かお前らは」とつぶやくと、竹刀を持って構え、男をめがけて猛スピードで駆け寄り、真上から一気に竹刀を振り下ろそうとした。
バシッ!
竹刀が何かにぶつかり、鈍い音を立てた。
僕は何があったのかと目を凝らすと、樹里が竹刀を地面に押し付けたまま、悔しそうな顔を見せていた。どうやら、髪の長い男に素早く身をかわされ、攻撃を避けられてしまったようだ。
「マジかよ……!」
樹里は歯を食いしばって再び竹刀を構えると、髪の長い男は「またやるんですか?俺、こう見えても運動神経は人一倍いいんですよ」と言い、樹里を招きよせるかのように片手を上下に振って笑っていた。
樹里は「ちくしょう!」と喚きながら全速力で駆け出し、髪の長い男の頭上で竹刀を振り下ろした。
ガシャン!
竹刀は再び地面を叩いた。髪の長い男は腹を抱えて笑いながら、樹里の方を指さしていた。坊主頭は携帯電話を眺めながら「すげえ!」と大声を上げていた。
「翔真、中継動画のアクセス数が一気に上がってるぞ。いい稼ぎになるぞ、これは」
「おお、そりゃよかった。あとで山分けしようぜ」
携帯電話を見ながら笑いあう二人の姿を見て、樹里は全身を震わせて怒りを露わにした。
「おい! 勝手に動画に撮ってアップしてんじゃねえよ!」
「それは出来ませんね。これが俺たちの稼ぎの元だから」
「か、稼ぎだと?」
「姉さん、TACOTUBEって知ってますか?」
「名前は知ってるけど……それが?」
「俺たち、そこで『マッドブラザーズ』っていう名前で活動してるんですよ。絶対無理だって言われることに体当たりで挑んで、何万ものアクセスを稼いでるんですよ。今や日本、いや、世界中に俺たちのファンがいるんですよ」
樹里はポケットから自分の携帯電話を取り出すと、必死にボタンをいじって何やら検索を始めた。
「ま、まさか、お前らは……」
樹里は真っ青な顔で、前に立つ二人に携帯電話の画面を見せた。
「もしかして、これ、お前らなの?……この木に登った動画上げてた奴らは」
「その通り。こないだはそこの木のてっぺんに登って、動画上げたらすごい反響でしてね。その結果、ここで俺たちのマネする奴らがいっぱい集まってきたみたいだけど、 所詮、俺たちに敵うわけなんかないのにね」
「そうか……全てはお前らだったのか」
樹里は竹刀を拾うと、地面にたたきつけながら二人の元に近づいた。
「出ていけ……今すぐこの公園から出ていけ」
「はあ? 何言ってるンすか? 俺たちもこの町の住民としてこの公園で遊んだり、くつろぐ権利がある。何であんたごときにその権利を剥奪されなくちゃならないんスか?」
「うるさい! 出て行けと言ったら、出ていけ!」
樹里は男たちに向かって竹刀を振り回した。
「ヘヘヘッ、何度やっても同じッスよ」
男たちは笑いながら身をかわしていた。
しかし樹里はひるむことなく、四方八方に狂ったかのように竹刀を前後左右に振り回し始めた。その動きは次第に激しくなり、そのまま二人を撲殺しかねないような雰囲気が漂っていた。
「や、やばい。この女、目が血走ってるよ。マジで何されるかわかんねえぞ」
ただ事でない雰囲気を感じ取ったのか、二人は慌てて公園の外へと駆け出して行った。
「二度と来るな!」
樹里は竹刀で地面を何度も打ち付けながら、二人の背中に向かって大声で叫んだ。
そして、両膝に手を当てて激しく呼吸しながら、「許せない」という言葉を何度も繰り返していた。
『ひょっとして、樹里ちゃん、奴らの動画を見て……』
『だから最近、ここで剣道の練習をしていたのか』
苗木たちは樹里を遠い目で見つめていた。
やり方は乱暴だけど、樹里は樹里なりに、僕たちに思いを寄せてくれているようだ。
彼女にも、祖父・隆也や父・シュウの想いがちゃんと繋がっているのだろう。
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