第169話 どんなに嫌われても
翌日、僕たちに嫌がらせをしていた若者たちは全く姿を見せず、静かな朝を迎えていた。僕たちは、ようやく訪れた平和な日常に胸をなでおろしていた。
登校する小中学生が通り過ぎ、公園の中の人通りが減ってきた頃、目の前にある一軒家の玄関の扉が開いた。
扉の向こうから、長い髪を片手でくしゃくしゃと掻きながら、眠たそうな顔をした樹里が姿を見せた。
『樹里ちゃんだ! 僕たちの命の恩人だ!』
『感謝してもしきれないよ。 ありがとう、樹里ちゃ~ん!』
苗木たちは樹里の背中に向かって感謝の言葉を連呼していたが、樹里は機嫌が悪いのか、時々舌打ちのような音を立てながらズボンのポケットに手を突っ込んでだるそうな様子で道路を歩き始めた。
その時、カメラを手にした見知らぬ男が樹里の目の前に突然飛び出してきた。
「おはようございます。お姉さん、これからどこに行くんですかぁ?」
男はにやつきながら、樹里の顔のすぐ手前までカメラを近づけた。
「な、なんだよテメエは」
「あれ、お忘れですかぁ? 僕、あなたに喉元にのこぎりや竹刀を突き付けられたんですけどね」
「覚えてなんかねえよ、剣道の練習の邪魔だったからだよ。これから学校に行くのに邪魔だから、あっちいけよ!」
樹里は唸るような声で男を睨みつけた。しかし男はひるむ様子もなく、カメラを回し続けた。
「ふーん、学校ですか。 ちなみにどこの高校ですか? 制服、着てないじゃないですか?」
「一応、通信制だけど」
「ほう、通信制とは珍しい。 学校は楽しいですか?」
「まあ、それなりにな。それがどうした?」
「学校では好きな人はいるんですか?」
「ばーか、いねえよ。というか、何だよいきなりその質問は。失礼だぞ」
「え、まさかいないんですかあ? あ、わかった。モテないんですね。かわいい顔して野蛮だからでしょうね。のこぎりや竹刀を突き付けて、ガラの悪い言葉遣いで、そりゃモテないわけだ」
「おい、いい加減にしろっ。邪魔だから、早くどっか行けよ!」
男はいくら樹里に凄まれてもへらへらと笑い、怒り心頭の樹里の顔にカメラを向け続けた。
「おー、怒ってる顔、いいですねえ。その顔をどんどんカメラに近づけてくださいよ。ますますその野蛮ぶりが伝わりますから」
「こ、この……!」
樹里は握った拳を震わせながら、カメラから目を背け、男から逃げるように歩き去っていった。
「あーあ、逃げちゃいましたね。あんなに僕たちにケンカ売っておきながら、敵前逃亡ですか? ま、僕たちはこれからもあなたに会いに来ますから、そのつもりで」
男はカメラをバッグに仕舞うと、そのままどこかへ行ってしまった。
『ひどいね。今度は僕たちから樹里ちゃんに標的を変えてきたぞ、あいつら』
『多分奴らは相手が誰でもいいんだよ。誰かに嫌がらせをしたいだけなんだよ、きっと』
ケンは、冷めた様子でここまでの状況を分析していた。
『嫌がらせが目的なの? ひどい、しかもどうしてそれをカメラで撮ってるの?』
『それはわからない。でも、さっきあいつら「全国の仲間」がどうのこうのって言ってただろ? きっとああいう嫌がらせを見るのが好きな誰かに見せているんだよ』
苗木たちは信じられないと言いたげな様子で、ケンの言葉に聞き入っていた。しかし僕はケンの説明にある程度納得していた。あんなにひどいいたずらばかり収めた動画でも、見ている人間がいるから、撮りに行くのだろう。
昼が近づき太陽が僕たちの真上から強い日差しを注ぎ始めた頃、さっき樹里が出てきた玄関から、つばの広い帽子をかぶり草刈鎌を持った芽衣と怜奈が姿を見せた。
芽衣は怜奈の肩を両手で支えながら、ゆっくりとした足取りで公園の中に入ってきた。二人は僕の真下にたどり着くと、芽衣は怜奈をベンチに座らせようとしていた。
「お義母さん、ここで待っててください。今日は暑くなりそうだから、私一人でやるから」
「そうは行かないわよ。私がやらないでどうするのよ。心配しないで、草刈ぐらいはやれるから……」
怜奈は芽衣の手を振り切り、左右によろめきながら草刈鎌を手に草を刈り始めた。
「ちょっと、あぶないでしょ!? 私の言う通り、ここで休んでいてくださいよ」
「だから大丈夫だって。芽衣ちゃんだけじゃ、こんなたくさんの草はやり切れないわよ」
「一番大事なのは公園の草じゃなく、お義母さんの体ですから」
「私はどうなったっていい。一番心配なのはこの公園と、樹里のことだから」
怜奈は白髪を振り乱しながらそう叫ぶと、しゃがみこみ、鎌を手に一心不乱に草を刈り取り始めた。芽衣は怜奈の姿を真上から見つめながら、何か言いたげな表情を見せていた。
「樹里のことなんて……ほっとけばいいんですよ」
「そうはいくもんですか。樹里が立派な大人になるまでは死ぬに死ねないわよ」
「見ていて分かるでしょ? 家族の誰にでも突っかかって、わがまま気ままし放題。お義母さんにも『クソババア』とか『死ねよ』とか平気で口走るし」
芽衣は早口でまくし立てるようにそう言うと、タオルで何度も額の汗を拭いた。
「それでも私は言い続けるわよ。『勉強しなさい』って。大学まではちゃんと行ってほしいの。この街だけでくすぶっていても彼女の人生には何のプラスにもならない。もっと広い世界があることを知ってほしいから」
「でも、受かる学校なんてあるんですか?」
「あるわよ。私も高校時代にあまり勉強しなかったけれど、その気持ちだけでがむしゃらになって勉強したら、ちゃんと大学に受かったから」
「お義母さんと樹里では、頭の出来が違いますよ。高校だって、今の通信制の学校に受かるのがやっとだったでしょ?」
「そんなことを言うんじゃないの。あんた、母親なんだから、もっとあの子を信じてあげなくちゃ!」
怜奈は顔じゅうの皺を寄せ、声を荒げて芽衣をたしなめていた。
「ごめんなさい。でも、最近の樹里には、親の私も正直お手上げですよ……」
「それでもしぶとく付き合わないとね。私、あの子に何を言われても、どれだけ嫌われても、めげずにしつこく言い続けるつもりだから。『勉強しなさい』ってね」
怜奈はそう言うと、白い歯を見せて高笑いしていた。
口では樹里の話ばかりしているのに、手元はちゃんと動かし、僕たちの周りにたくさん生えていた雑草はあっという間にきれいに刈り取られていった。
「そういえば昨日、樹里が突然竹刀を持って外に出て行ったんですよ」
芽衣は怜奈の真後ろで、刈り取られた草を集めながら呟いた。
「え、もう二度と剣道なんかやらないって言ったのに?」
「そう。突然稽古に行くのを止めた時にお父さんと大喧嘩して、それ以来竹刀を握ることさえしなかったんですけどね」
芽衣は草を集め終えると、僕の方を見ながら、手にした鎌を何度も上下に振り下ろした。
「窓越しにこの公園を見ていたら、あの子、こんな風に何度も素振りしていたんですよ。練習してる姿を見たの、本当に久しぶりでびっくりしちゃった。突然練習を始めて、一体何があったのかしら」
その時芽衣は、左右に首をかしげながら僕の背後を見て、徐々に怪訝そうな表情に変わっていった。
僕は何事かと思って周りを見回すと、カメラを手にした一人の若者が辺りをぐるぐる旋回するなど、不審な動きを見せているのを確認できた。
『あいつ、今朝樹里ちゃんを追いかけていた奴じゃないか』
『まだいるのかよ。ヤダなあ……樹里ちゃん、無事に家に帰れるのかな?』
苗木たちも彼らの存在に気づいたようで、にわかにざわめき始めた。
「あの子、何なのかな? 私たちの家をさっきからのぞき込んでるんだけど」
芽衣が呟いたその時、鞄を手にした樹里が、だるそうな様子で公園の向こう側からだんだんこちらへ近づいてきた。
「あーかったりィわ。早く帰ってスマホでゲームしようかな」
樹里は僕のそばで大きなあくびをすると、まっすぐ自宅に向かい、玄関の扉を開けようとした。
「おっかえりなさーい、お姉さーん!」
朝方、樹里にカメラを向けていた男が再び樹里の前に姿を見せた。男は、朝方と同じカメラを片手に抱えこんでいた。
「またおめえかよ。邪魔だから帰れって言ってるだろ。いい加減にしないと警察に言うからな?」
「ふーん……そんなこと、よく言えますね」
男はポケットから携帯電話を取り出すと、樹里の目の前にかざした。
「こないだ僕たちにのこぎりや竹刀を突き付けた時の動画、ここにちゃーんと残してありますからね。あなたが僕を警察に訴えるなら、その時にはこの動画を警察に出してもいいんですよ? 脅迫罪で不利になるのは、あなただと思うんですけどね」
「テメエ、何で勝手に撮影してるんだよ!」
「何なら今から行ってきますよ。あ、そうそう。あなたが検挙されるときの動画も、しっかり撮って、仲間に拡散するつもりですからね、アハハハハ」
男は笑いながら携帯電話をポケットに入れ、樹里の元を離れようとしたその時、目の前には怜奈と芽衣が立っていた。
「今の話、ぜーんぶ聞かせてもらったわよ」
「何ですか、突然……」
「その子は私の娘なの。あんた、うちの娘に何をしたわけ?」
「何をって、逆なんですけど。 僕がこの人にのこぎりや竹刀で脅されたんですけど」
「あんたが何かちょっかい出したからでしょ? うちの娘がそんなことするわけないわよ」
「いや、証拠はありますから」
「ふーん。じゃあ、その携帯、私によこしてくれるかな? あ、そうそう、あなたが持ってるカメラもね」
芽衣は鬼の形相で男が手にしているカメラとポケットを指さした。
「……ババアは黙ってろ」
男は捨て台詞を吐き、その場から駆け出して行った。
「さ、樹里も帰るわよ。家でいきさつを教えてちょうだい」
「ふん、いきさつもクソもあるかよ。あいつらが脅してきただけだよ」
「私はあなたのことが心配なの? わかる? ちゃんと教えなさい!」
「うるっさいなあ!」
樹里はいきり立った様子で早足で家の中へ入っていった。
「もう、何なのよあの子。余計な心配なんかしなきゃよかった……」
「いいのよ芽衣ちゃん。それでこそ母親だから」
怜奈は落ち込む芽衣の背中を何度もさすった。芽衣は、ため息をつきながらも怜奈と寄り添うような姿勢で玄関の中へ戻っていった。
樹里が心を開くには、まだまだ時間がかかりそうだ。
でも、何となく予感がした。今は樹里にどんなに突っぱねられても、諦めずに彼女を見守り続けていれば、いつか心を開く日がやってくると。
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