第167話 やめられない、とまらない
朝から生暖かい空気に包まれ、視界がきかなくなるほど強い雨が降った日。
僕たちの体はすっかりびしょぬれになってしまった。
露わになった枝の割れ目やめくれた樹皮にも水分がしみこみ、いつにも増して痛さが身に沁みていた。こないだ樹木医の桜子が応急手当をしてくれたものの、一度めくれた樹皮や割れ目は簡単には元に戻らない。時間をかけて自然に傷口がふさがっていくのを待つしかないのだ。
『ねえ、ケビンさん。まだ痛むの? 時々歯ぎしりが聞こえるわよ』
キキが僕を見て心配そうに声をかけてくれた。
『だ、大丈夫だよ。今だけだよ、もう少し我慢すれば徐々に良くなっていくからさ』
『でも……そんなに樹皮がめくれてるんじゃ、簡単には元には戻らないわよ』
『キキの言うとおりだよ。櫻子先生の手当だけで治るものじゃないよ』
いつもは僕に挑発的な言葉を投げてくるケンも、今日はどこか心配そうな顔で僕を見ていた。苗木たちの気持ちは嬉しいが、僕の傷を治せるのは樹木医だけである。先日桜子が僕の樹皮や枝を持ち帰ったが、一体何に使っているのかがすごく気になっていた。そして、「手術」することになる、という言葉も……。
『あ、あいつらよ! やばい、またこっちに向かってくるわよ……!』
その時、突然ナナが声を上げ、全身を震わせておびえていた。そして、ナナの真後ろから、先日僕にケガを負わせた二人組の若い男たちが姿を見せた。
『あいつら、手にロープとか持ってるぞ。今日は何をするつもりなんだろ? ケビンさん、注意した方がいいぞ』
ケンは男たちが手にしているものを目ざとく見つけて、僕に警告を送った。彼らの姿が徐々に僕の方に近づいてくると、あれほど痛みを発していた傷口のしびれが収まり、僕の全身が硬直した。あのロープで一体何をするつもりなのか……。
「よし、快斗。そこでカメラ構えてくれ。俺はこいつを、そこの木に縛り付けるからさ」
髪の長い男が黄色に染まった汚らしい歯を見せて、ニヤニヤと笑いながらロープを手にして僕に近づいた。男はロープを幹の周囲に巻き付けると、きつく縛り上げた。僕はロープが体に食い込み、時々ロープが傷口に触ると刺さるような痛みが全身を襲った。
「さあさあ、今日も俺たち『マッドブラザーズ』の登場だ! 今日もみんなをあっと驚かせて、腹がよじれるほど笑わせるから、途中で画面を切り替えず最後まで見てくれよな!」
坊主頭の男がカメラを持ちながら軽妙な語り口で話すと、髪の長い男がロープの端を手にしたままぐいぐいと僕を引っ張り、全身を揺さぶった。
「な、なんと、公園の大木と綱引き対決! 相手はかなりの巨体だけど、勝利は果たしてどっちだ!」
坊主頭は煽り立てるように声を張り上げると、髪の長い男は息を切らしながら必死に僕を引っ張った。男一人の力ではずっしりとした僕の体を簡単に引き抜くことはできないけれど、引っ張る時の衝撃で僕の体は揺さぶられ、枝や葉が次々と地面に落ちていった。
「ぐはあ……ダメだ。さすがに勝てないや」
髪の長い男は大の字になって地面に寝転んだ。
「ああ、なんということだ! さすがに綱引きには勝てなかったか? これまでどんな無謀な挑戦も成功させ、この世に不可能は無いと豪語していた翔真。このまま敗北宣言をしてしまうのか?」
「馬鹿野郎、俺たちがこんなことで負けてたまるかよ。五万人いる登録者の皆さんをガッカリさせちゃいけねえよ。今度はこのロープを使ってもう一つの技に挑むから、みんな、ここで画面を閉じずに最後までよーく見とけよ」
髪の長い男はロープをつかんだ手を高く掲げると、不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。そして、ロープの端を僕の幹の分かれ目の辺りにきつく括り付けると、そのままロープを伝いながら一気に登り始めた。
『な、なんて野郎だ!』
ヤットが声を震わせながら怒りを露わにした。しかし、髪の長い男はロープを手に僕の幹を靴で思い切り踏みしめながら、どんどん上へと登り続けていった。樹皮がめくれた部分や枝に亀裂が入った部分も構うことなく足を踏みつけ、悪魔のような笑みを浮かべながらひたすら登り続けていった。
「すごい! 木との力比べでは負けましたが、ここでめげることなく身一つで木の上まで駆け上がり、ついにてっぺんにたどり着いてしまいました!」
坊主頭が興奮しながらカメラを向けると、髪の長い男は僕の頭の上で握った拳を振り上げ、狂ったかのような雄たけびを上げていた。
「ハハハハ、力比べで勝てないならば、てっぺんに登って征服してやればいいんだよ。とりあえずこの勝負、俺の勝ちってことで、そろそろ降りるかな。今日はどのくらいバズったか気になるなあ」
髪の長い男は枝伝いに僕の頭から下って行った。
「すげえ、あっという間に三千アクセス越えてるぞ。反応も上々だし、収益も期待できるかもな」
「すげぇ! 早く見せろ。この目でどのくらい稼いだか、確認しなくちゃ……あれ? あれれれ?」
髪の長い男は慌てて下に降りようとして、誤って僕の幹の上で足を滑らせたようだ。あいにく僕の体は雨に濡れて、いつもより滑りやすくなっていた。男の体はガサガサと強烈な音を立てながら枝や葉の中を通り抜け、体ごと真下へと滑り落ちていった。
「うわあああああ!」
男は全身僕の枝葉にまみれながら一気に地面に滑り落ちた。腰から地面に落ちたようで、腰をさすりながらその場に倒れ込んでいた。
「翔真! おい! しっかりしろっ」
坊主頭はカメラを置くと、全速力で髪の長い男の元へ駆け寄った。
「こ……腰が痛くて立てねえや……くそっ」
髪の長い男は腰をさすりながら、歯を食いしばって痛みに耐えていた。
「ちょっと待ってろ」
坊主頭はポケットから電話を取り出すと、誰かと話し始めた。通話はわずかな時間で終わり、坊主頭は髪の長い男の肩に手を回すと、体を支えて立ち上がらせた。
「もうすぐ親父が来るから、ちょっとだけ耐えろよ」
「ああ……ごめんな、心配かけて」
しばらくすると、公園の中にがっしりとした体つきの男性が、ポケットに手を突っ込んで体を左右に揺らしながら入ってきた。黄色く染まった髪の毛を後ろに流し、濃い茶色に染まったレンズの眼鏡をかけ、見ただけでも強烈な威圧感が伝わってきた。
「どうしたんだ、急に呼び出して。俺だって忙しいんだぞ」
「翔真が、さっきそこの木から足を滑らせて、地面に落っこちちゃったんだ」
「何だと?」
二人の父親という男性は、僕に近づくと、太くてごつごつした硬い指で幹から枝にかけてゆっくりと手でこすり始めた。
「こんなに枝や幹が水に濡れていたら、簡単に足を滑らせるのはあたりまえじゃないか。何やってるんだお前ら」
父親が顔をしかめて睨みつけると、倒れていた髪の長い男が腰を押さえながら必死に何かを訴えていた。
「でも、だからと言って放置していいわけないだろう? このままだと、俺たちみたいにこの木で遊んでる奴らはみんなケガしちゃうと思うよ」
あまりにもひどい弁解に僕は苦笑いしてしまった。
僕を相手にこんなひどい遊び方をするのは、お前たち以外には誰もいないよ、と、僕が声を出せるならば、そう叫びたかった。
「まあ、それは一理あるな」
え? こいつらの言うことを信じるの? 父親の口から出た言葉を、僕にはにわかに信じがたかった。
「この公園は市で管理してるはずだよな。市の役人どもは何をやってるんだ? これからここに呼び出して注意してやろうか」
父親は携帯電話を手にすると、だみ声を張り上げながら通話を始めた。
内容は聞き取れなかったが、「お前らが悪いんだ!」という言葉を何度も繰り返しながら怒鳴りつけているように聞こえた。
父親が電話をポケットにしまい込むと、「ほら、何ボケっとしてるんだ。翔真を家に連れ帰るぞ」と言って坊主頭の男の頭を小突いた。
二人に両肩を支えられ、髪の長い男は足を引きずりながら公園を去ろうとした。
その時、僕の真後ろから作業服に身を包んだ二人の若い男性が姿を見せ、男たちの背中に向かって声をかけた。
「あの、市の公園管理課ですが、今電話をくださった
すると、父親が血走った目で市の職員だという若い男性を睨みつけた。
「そうだよ、俺が藤吉だけど」
「この公園の木でケガをされたと伺いまして」
「あのさ、お前ら、ちゃんとマメに公園の木の手入れをやってるのか? 俺の息子、ここの木で足を滑らせて大怪我を負ったんだからな? どう責任をとってくれるんだよ」
「あの、これは先ほど降った雨で滑りやすくなっただけでは?……この状態で木に登る方が危険だと思いますが」
「バーカ。だったらここに立札でもしておくべきだろう? 雨の日は危険だから登るなって。それとな、ケガ防止のために木の枝や幹に滑り止めを施しておくこともできるだろ? 市民の安全を何も考えてないなんて、お前ら本当に俺たち市民の奉仕者かよ、おい?」
父親はがなり声で市の職員たちをどやしつけていた。そしてその後ろから、坊主頭がにやつきながらカメラを回していた。
「皆さん、ご覧ください! うちのラスボスが登場し、馬鹿な公務員どもを成敗しております。今から公務員どもの顔をアップで映します。うわあ、ほんとバカ丸出し、しかも怒られて泣きそうな顔してやんの。ギャハハハハ」
あまりの質の悪さに、僕は言葉を失った。
『こいつら……本当に人間なのかよ?』
ケンが何かをかみ殺すかのような言い方で呟いた。
この親子、一体何様のつもりなのだろう? こんなことをして、一体何が目的なのだろう? 僕には全く理解が及ばなかった。
そして、これからも同じ仕打ちを繰り返すに違いない……そう考えると、急に背筋が寒くなり、全身の震えが止まらなくなった。
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