第160話 伝言
真夏の太陽の下、腕を傷つけられた剛介は白衣の人達に担がれながら白い車に乗せられていた。弁護士とあいなが車に同乗し、痛みに苦しむ顔を心配そうに見つめていた。公園には剛介の血痕だけが生々しく残っていた。
『やだ……血の跡がべっとり残ってるじゃない。ちょっと物騒よね』
『ちゃんと掃除していってほしいわよね。案外こういう所は無頓着よね』
苗木達は、掃除されないまま残された血狼をどこか疎ましく見つめていた。しかし僕は、血を流しながらも必死にあいなを守った剛介に、心から拍手を送りたかった。血を流す結果になってしまったのは残念だが、あいなを守ろうと身を挺した剛介の勇気と男気がなければ、あの場面ではもっと凄惨なことが起きてしまったかもしれない。
しばらくすると、今度は揃いの濃紺色の制服を着こんだ男女が公園の中に入ってきた。彼らは血痕のある辺りを写真に収め、公園の中を歩きながら辺りの様子を確認していた。
『今度は怖そうな人達が来たよ、ケビンさん。誰なの、あの人達』
『うーん……さっき剛介が流した血の跡を確かめてるけど、おそらく、人の血を調べる仕事をしているんじゃないかな』
『ええ? そんな悪趣味な仕事があるの? やだなあ、人間って』
一通り調べ終えると、彼らは公園の側に止めてあった白黒の二色で塗られた小型自動車に乗り込み、赤色灯を回転させながら公園から離れて行った。
『あれ? あの赤い光……どっかで見たことがあるな。以前ここで事件が起きたときにも来た記憶があるよ』
『悪いことをした人達をやっつける仕事してるんでしょ、確か』
苗木達は公園から遠ざかっていく赤い光を見つめながら、口々に思いついたことを言い合っていた。彼らの指摘が全て当たっているとは思えないけれど、悪いことをしたら取り締まる人達という指摘は僕にも理解できた。
夕方近くになり、ケガをした剛介に付き添っていたはずのあいなが、弁護士とともにこちらへと近づいてきた。あいなの表情は生気がなく、時折気を失ったかのように体が左右にふらついており、その度に弁護士に肩を抱きかかえられていた。
「おい、大丈夫か、あいな……」
「うん」
「剛介君、無事でよかったじゃないか。もっと通報が遅れてたら大変なことになっていたよ」
「……まあね」
「今日は色々あって気持ちも落ち着かないだろう。家に帰ったらゆっくり休みなさい。仕事はしなくてもいいから」
「で、でも……私、佐藤さんの債権整理の約束が……」
「それは僕がある程度進めておくから。元気になったら、またお願いするよ」
「……」
あいなは気が抜けたような表情で、その目は宙をさまよっているように見えた。
「剛介君は辛うじて一命を取りとめたし、あとの処理は警察に任せたからさ。今日は何も考えずにゆっくり休むといいよ」
「……警察に通報したの!?」
その時あいなの表情が突如一変し、目を大きく見開いて弁護士の方を振り向いた。
「まあな。剛介君を傷つけた野々花の行方を追ってもらうことにしたんだ。正直警察は好きじゃないが、僕としては彼女をどうしても許せなくてね」
表情を変えず淡々と話す弁護士の顔を、あいなは口元に手を押さえながら見つめていた。
「どうして? いくらお父さんが許せないって思っても、ひとこと位私に相談しても良かったんじゃないの?」
「はあ? 僕のしたことに何かまずいことでもあるのかい?」
「だって、剛介君は……これは自分の問題だからって言ってたから」
「それは違う。彼だけの問題じゃない。あいなだって命の危険に晒されただろ?」
「そ、それはそうだけど……でも、これって、剛介君が心から望んでいることなのかなあって」
「彼が望むとか望まないとか、そういう問題じゃない!」
弁護士は語気を荒げて、あいなの言葉を一蹴した。その顔には、一切の言い訳も甘えも許さないような意思の固さを感じ取れた。黙りこくったあいなをみて、弁護士は「まだ分からないのか」とつぶやきながら大きなため息をつくと、髪の毛を搔きむしりながら口を開いた。
「あの子はあいなの大事な結婚相手にあんなに酷い傷を負わせたんだぞ……僕としては許せるわけがないだろう?」
「え……?」
弁護士の言葉を聞いたあいなは、不意打ちを食らったかのようにあんぐりと口を開けていた。
「ねえ、今……『結婚相手』って言わなかった?」
「ああ、言ったよ。だって、身を挺して必死にあいなを守ってくれた剛介君との結婚を、僕が反対する理由なんかないよ」
あいなは何も言わずじっと弁護士の顔を見ていたが、しばらく間を置いた後、目頭を押さえながら声を上げて泣き出した。弁護士は柔らかな笑顔を浮かべながら泣き崩れるあいなの肩を抱きかかえると、ふらつくあいなに釣られるかのように時折体のバランスを崩してよろめきながら、マンションの中に入っていった。
『……お父さん、私たちの結婚を認めてくれたんだね』
『そうだね。私も思わずもらい泣きしそうになっちゃった』
『剛介君の一途な気持ちが、お父さんにも通じたんだね。おめでとう、お二人さん』
苗木達からは、すすり泣く声、歓びの声、訥々とほめたたえる声が入り混じって聞こえてきた。
数日後、朝から厚い雲が空を覆い尽くし、生温かい風が不気味な音を立てて公園の中を吹き抜けていた。やがて大粒の雨が落ち始め、あっという間に視界を遮るほどの雨が目の前に降り注ぎだした。
『わっ、ゴロゴロ鳴り始めたよ。イヤだなあ……雷って僕たちを目掛けて直撃してくるからさ。早くどっかに行ってほしいよ』
遠くで激しい雷鳴が聞こえ、僕たちは戦々恐々としていた。こんな劣悪な状況の中、帽子を深々と被り、マスクを付けた女性が目の前に姿を見せた。
『ねえ、あの人、野々花だよね……?』
『今日は包丁を持ってないよな?』
苗木達の声を聞き、僕は注意深く女性を見つめていたが、帽子とマスクの間からほんのちょっとだけ見える顔は、間違いなく野々花だった。先日と違って怪しげな箱を携帯しておらず、おそらく危害を加える可能性は低そうだが、こんな雨の中、一体何をしにここに来たのだろうか?
激しい雨、轟く雷鳴……しかし野々花は傘を持ったまま微動だにせず、時折公園の側を通り過ぎていく人や車を見つけては、首を伸ばして様子を伺っていた。
やがて、花柄の傘を差したあいながマンションから姿を見せた。大きな鞄を手にしているにもかかわらず、水しぶきを上げながら早足で公園の側を通り過ぎようとしていた。
「ちょっと待ってよ、弁護士さん」
野々花はここでようやく声を上げた。その声を聞き振り返ったあいなは、驚きのあまり口に手を当て、「何でここに……?」と呟きながら全身を小刻みに震わせていた。
「アハハ、大丈夫よ。今日は何もしないから」
野々花は帽子とマスクを取り、不敵な笑みを浮かべていた。
「今日はあんたに一言、どうしても言いたいことがあってね」
「な、何よ……また私たちを脅すつもりなの?」
「バカ、全然違うよ」
野々花は顔をくしゃくしゃにしながら声を上げて笑っていた。激しさを増している雨の中、野々花は傘を手に持ったまま、徐々にあいなの元へと近づいていった。
「剛介を、幸せにしてあげてほしい」
「え?」
「正直
野々花はあいなに顔を近づけて笑いかけると、くるりと背を向けて、雨の降りしきる公園の中へと歩きだした。そのまま過ぎ去ってしまうと思いきや、突如歩みを止めて、再びあいなの方を振り向いた。
「あ、そうだ。剛介に会ったら言ってくれるかな? 剛介の言う通り、私は自分のことばかり考えていたって。でもね、私は剛介を好きだった、剛介と一緒にいられてすごく幸せだった……それだけは忘れないでほしいって」
野々花の話している最中、激しい雷鳴が鳴り響いて所々聞き取りにくかったが、「剛介を好きだった」という言葉は辛うじて聞きとることができた。
「じゃあね。そこで車を待たせてるから、早くいかなくちゃ」
野々花はそう言うと、背中を向け、僕たちの元から歩き去ろうとした。その時、空が黄色く光ると同時に、「ドカンッ!」と激しく衝突するかのような爆音を立てて雷が落ちた。
『やだ、怖いよぉ』
『この近くに落ちたな。みんな無事か?』
『うん、今のところみんな大丈夫……かな』
僕も苗木達も、とりあえずは無事のようだ。
気を取り直した僕はようやく前を向くと、そこにはもうあいなと野々花の姿はなかった。ついさっきまで僕の目の前にいたはずなのに。
『あいなちゃんはマンションに戻って、玄関からこっちを見てるよ。今の雷でビックリして逃げちゃったのかな?』
『野々花は?』
『……見つからない。さっきから探してるんだけど』
その時僕は、はるか前方に、赤いランプを回転させながら公園に横付けしている一台の車を見つけた。目を凝らしてよく見ると、こないだから公園の周囲を何度も旋回していたやつと同じ車体だった。やがて車から紺色の制服を着た男女が降り立ち、ちょうど目の前に立っていた何者かの手を取ると、そのまま車の中へと連れ去っていった。
雨はようやく小康状態となり、朝から空を覆っていた暗い雲は次第に遠くへと過ぎ去っていった。
あいなはようやくマンションから公園に顔を出した。そして、赤色灯を回しながら止まっている車を見つけるや否や、鞄を地面に落とし、両手で口を覆っていた。
「野々花さん!」
あいなは靴音を響かせ、地面のあちこちに出来た水溜まりの中を全速力で駆け出していった。しかし、車は無情にもあいながたどり着く前にエンジン音を上げ、そのまま遠くへと走り去っていった。
あいなは頭を抱えてその場にしゃがみこんでいたが、しばらくすると向きを変え、僕たちの目の前までゆっくりとした足取りで戻ってきた。やがて大きく背伸びをすると、その後、地面に置きっぱなしだった鞄を拾い上げた。
「野々花さんのためにも、幸せにしなくちゃね、剛介君のことを。うん、責任重大だな、これは。包丁では刺されなかったけど、彼女の言葉は私の心にしっかり突き刺さったかもね、アハハハ」
あいなは片手を握りしめて拳を前に突き出すと、「さ、仕事だ仕事! 今日もがんばるぞっ」と大声で叫ぶと、靴音を響かせながら公園の中を歩きだしていった。
いつのまにか、真上には澄み渡るような真っ青な空が広がっていた。ここまで憎しみ合い、疑心暗鬼になり、傷つけ合ったけれど、あいなと野々花の心境は、今はこの空と同じなのかな? と僕は勝手に想像を巡らせていた。
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