第159話 つぐない
「ほらほらほらほら、せっかくの私のプレゼント、どうして受け取らないの?」
野々花は不気味な声を立てながら、ゆっくりとあいなに近づいてきた。その手には、太陽の光を浴びて光沢を放つ出刃包丁をしっかりと握りしめていた。
あいなは後ずさりし、やがて僕の目の前の所で立ち止まった。
「さあ、もう逃げられないわよ。私からの心を込めたプレゼント、しっかり受け止めてちょうだい!」
野々花は真上から出刃包丁を一気に振り下ろした。
「キャアアアア!」
あいなは悲鳴を上げながら体を地面に伏せると、そのまま這いつくばって僕の真後ろへと逃げ込んだ。包丁が空を切った後、野々花は再び体勢を整えてあいなの方へ包丁を差し向けた。
「逃げられると思ってる? 私のプレゼントを受け取るまでは、帰るつもりはないからね、ギャハハハハハハ」
野々花はマスクを剥ぎ取ると、白い歯を剥き出しにして笑い出した。その顔は、この世の物とは思えないほど凶暴で醜悪であり、長い間直視したいとは思わなかった。
怯えるあいなは、ポケットから携帯電話を取り出そうとした。しかし野々花はお構いなしに包丁を手にあいなに近づいてきた。
「ひょっとして今から剛介に命乞いでもするの? いいじゃん、呼びなよ。通話が終わるまでここで待ってるからさ。ただ、逃げたらただじゃおかないからね」
野々花は包丁を持ったまま腕組みし、あいなが通話しているのをじっと見ていた。
「もしもし、剛介君……」
あいなは野々花の言う通り、剛介に電話をしているようだ。電話機を持つその手は、何度も小刻みに震えていた。
「野々花さんが来てるんだけど、様子がおかしいから、しばらく部屋の中から絶対出ちゃだめよ。そして、警察を呼んでほしいの……マンション前の公園に今すぐ来てって……え? 何がおかしいのかって? と、とにかく、私の言う通りにして。お願いだから!」
あいなは何度も言葉が途切れながらも、野々花に聞こえないように小さな声で必死に伝言していた。しかし、その言葉は野々花の耳にも入ったようで、野々花は次第に苦虫を潰したかのように渋い顔に変わっていった。
「ちょっと弁護士さん、さっきから何言ってるの。ここに剛介を呼ぶんじゃないのかよ? それに今、一瞬『警察』って聞こえたんだけど……」
するとあいなは「聞き違いじゃない?」と言って、電話機をポケットの中に仕舞い込んだ。
「聞き違いなわけないじゃん。私、昔から人に自慢できる位の地獄耳なんでね。今の会話、ちゃーんと聞こえてるから、どんなにがんばってもごまかせないわよ」
野々花は包丁をあいなの目の前に差し出した。
「あんた、どこまでこの私をコケにすれば気に済むんだ? いい加減にしなよ。さ、今から私のプレゼントを受け取ってよ。あなたの全身、血まみれにしてあげるから」
あいなは地面に手を付けたまま、頭上に振りかざされた光る包丁を見つめていた。やがて包丁は、ヒュンと空を切る音を立てながら、あいなの真上に振り下ろされた。
「死ね! 地獄に堕ちろ!」という叫び声と共に。
ドンッ!
にぶい音とともに、僕の全身に痛みがほとばしった。
目を凝らすと、幹の真ん中に、包丁が垂直に突き刺さっていた。
『ケビンさん! 大丈夫か!』
『やだ、ケビンさんが……どうしよう』
苗木達の悲鳴が僕の耳に入ってきた。野々花が包丁を僕の幹から抜き取ると、刺さった所から樹液が流れ出し、大きな傷が出来ていた。ひりひりするような強い痛みはあるけど、致命的なものではなかったようだ。
「くそっ……外したか。あれ? 弁護士の姉さんはどこに逃げたんだろ」
野々花は辺りを見回したが、あいなはいつの間にか姿を消していた。
そして、あいなと入れ替わるかのように、公園の中にはジャージ姿の剛介の姿があった。
「剛介、やっぱりこの町に帰ってきてたんだね……」
「やあ、ひさしぶりだね、野々花」
剛介は靴音を立てながら野々花の元へと近づいてきた。
「ここに来ちゃダメだよ! 警察呼んで、剛介君は部屋から出ちゃダメだってあれほど言ったでしょ?」
「警察? 呼んでないけど」
「え……どうして? 相手は凶器を持ってるんだよ?」
「これは僕の問題だ。僕に任せておくれよ」
「ちょっと、剛介君!」
茂みの中から、あいならしき声が聞こえた。どうやらあいなは僕に包丁が刺さったのを見計らって、植込みの中に逃げ込んだようだ。剛介のことは心配しても、僕のことはこれっぽっちも心配していないんだろうか?
「今日はね、あんた達の結婚祝いに来たんだよ。末永く幸せになってほしいと思ってね……」
野々花は不敵な笑みを浮かべると、包丁を剛介の目の前に差し出した。
「あいなちゃんはどうした? まさか、この包丁で……」
「さあね、どこかに逃げたよ。ま、見つけ次第ズタズタにしてやるけどね」
「ズタズタ? そんなこと、この僕が絶対に許さない」
「ふん。じゃあ、まずはあんたから殺ってやるよ」
野々花は包丁を真横に振りかざすと、剛介の首を目掛けて勢いよく振り下ろした。
剛介は包丁を辛うじて避けると、野々花は包丁を持ったまま剛介に突進してきた。
「あぶないっ!」
あいなは茂みから飛び出した。その次の瞬間、野々花は誰かの腕をかすめるように包丁を振り下ろした。
『やばい! 誰か刺されたみたいだぞ!』
ケンが声を上げるのを聞き、僕は慌てて辺りを見渡すと、地面のあちこちに血痕が出来ていた。
「剛介君!」
あいなの悲痛な叫びが、公園に響き渡った。
「何で……出てきたのよ。危ないって言ったじゃない」
あいなの心配をよそに、剛介は歯をくいしばって痛みに耐えながら、一歩ずつ野々花の元へと近づいていった。
「ごめんよ、野々花。ここまで僕が君にしたことは、謝っても謝りきれないことだ。そんな僕がこんなことを言う資格はないかもしれないけど……それでも言わせてほしい」
野々花は顔をしかめながら「どうぞ」と言って包丁を引っ込めたが、片足でとめどなく地面を鳴らしており、内心ではかなりいらついているのが僕にも伝わってきた。
しかし剛介はたじろぐこともなく、腕を押さえながらおだやかな表情で語り続けた。
「僕は君のことを心から好きだった。これは紛れもない本当のことだ。君も僕のことを愛してくれた。たわいのない話も、一緒に笑ってくれたし、デートもすごく楽しくて、時間が経つのを忘れてしまうくらいだった」
「へえ……それじゃ、離婚する理由なんかないじゃん」
野々花は胸に刺さるような棘のある言い方で剛介に問いかけた。
「でも、いつの間にか君は、僕を恋人じゃなく自分を満足させるための道具みたいに扱っていた。普段は何もしないのに、友達や家族の前に来ると、わざと腰に手を回してべったりくっついたり、キスをみせびらかして。僕は全然嬉しくなかったし、ハッキリ言って疲れるだけだった」
野々花は小声で「ふーん、それで?」と言うと、剛介を横目で睨みつけた。
「それでも僕は、君のことがまだ好きだった。君が結婚したいとって言ってくれた時、僕も迷うことなく結婚することを決めた。けど、結婚していざ子作りとなった時、全然気持ちが進まなくなってしまった。まあ、体の相性の悪さもあったけど、野々花はあの頃、自分のやりたいように子育てしたいという話をずっとしていただろ? 僕は黙って言われたことだけすればいいって。僕は、自分のことばかり考えている野々花とこれからも一緒に生きていくことに、正直不安しか感じていなかったんだ。そんな時、ふとあいなちゃんのことを思い出してさ。あいなちゃんが恋愛も結婚もせずに、ずっとこの僕を待ち続けてくれていたことは、親とか周りの人達に聞かされていたからね……。あいなちゃんなら、きっとありのままの僕を受け入れてくれる。許されるならばもう一度あいなちゃんとやり直したいって思ったんだ」
剛介は視線を落としながらも、必死に自分の胸の内を語り続けていた。あいなが涙ぐみながら野々花と対峙する剛介を見つめている一方で、野々花の表情は徐々に強張り始めていた。
「でも、僕はこれで完全に君を見捨てたわけじゃない。ここからの君の人生、僕が応援できることがあれば、していくつもりだ。ただ、あいなちゃんには絶対手を出さないでほしい。それだけはここで約束してほしい。離婚は僕が選んだことだ。その代償は、僕が償うべきなんだ」
剛介は地面に座り込むと、深々と頭を下げた。その隣にはちょうどしなだれた身体のキングが立っており、傍目から見ると、一緒に頭を下げているように見えた。
「……くそったれ。私の人生、返してよね」
野々花は頭を下げ続ける剛介を見下ろしながらそう言うと、包丁をかばんの中に仕舞い込んだ。そして、それ以上何を言うこともなく、二人に背を向けてはるか遠くへと歩き去っていった。
剛介は、野々花が遠くへ去っていった後も、ずっと頭を下げ続けていた。
「剛介君……野々花さん、帰ったよ」
ずっと地面に這いつくばっていたあいなは、上体を起こし、頭を下げ続ける剛介の肩に寄り添った。
「大丈夫? 剛介君……腕の辺り、真っ赤だけど」
剛介のジャージの上着の裾から、血液がしたたり落ちていた。そして、剛介の立っている辺りの地面は、鮮血で赤く染まっていた。
「どうしてずっと我慢してるのよ? こんなに血が出ているのに」
あいなはポケットからハンカチを取り出すと、剛介の上着の裾をまくり、流れ来る血を念入りに拭き取っていた。
その時、二人の背後から、あいなの父親である弁護士が靴音を立てながら駆け足でこちらに近づいてきていた。どうやら自分の仕事を終えて、自宅へ戻ってきたようだ。
「おい、あいな。まだ先方の所に行って無かったのか?」
「お父さん……救急車呼んでくれる?」
「ど、どうしたんだ?」
「見てよ……剛介君の腕」
「!?」
弁護士は青ざめた顔で剛介の腕を手に取った。
「一体、何があったんだ?」
「詳しくは後で説明するから、とにかく早く呼んでよ!」
あいなは鬼の形相で叫んでいた。弁護士はその様子に圧倒され、言われるがままに携帯電話のボタンを押し始めた。
剛介に寄り添いながら出来る限りの手当てをしているあいな。血が大量に流れ、段々顔が青ざめ始めた剛介。
僕も野々花に包丁で傷跡を付けられて、まだ痛みが引いていないけれど、僕以上に剛介の容体が心配だった。何とか無事であってほしい……あいなのためにも、そして二人を見守り続けた家族のためにも。
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