第158話 責任は誰に?
強い陽ざしが差し込み、蝉達がジリジリと声を上げて鳴きだした朝の公園。
僕の真下には、拳を震わせその場に立ち尽くす弁護士、危険を察知してあいなを両腕でかばっていた剛介、そしてその間で、頬を押さえたまま地面に横たわる剛介の母親の姿があった。
「ちょっとあなた、なにしてるのよ! 黒沢さんを殴るなんて……やだ、口から血を流してるじゃないの!」
あいなの母親が、金切り声で叫びながら弁護士の肩を何度も両手で揺すっていた。しかし弁護士は怒りを抑えきれないようで、「黙れ!」と叫んでその手を振り切った。
そして、再びあいなと剛介の元に近づくと、血走った眼で二人を睨みつけた。
「僕たちがどんな思いで、どれだけの人達の手を借りてお前たちのことを探していたと思ってるんだ! 何があっても絶対に許せない!」
弁護士はあいなをかばう剛介の胸倉をつかむと、再び拳を振り上げた。
「まずはお前からだ! 何の連絡もなくあいなを連れまわしやがって!」
拳が振り下ろされたその時、苗木達が悲鳴を上げた。
『逃げて剛介君! 早く!』
苗木達の叫びも空しく、弁護士の拳は振り下ろされ、再び誰かの体に命中した音を立てた。
「母さん!」
そこには、さっきまで地面に横たわっていたはずの剛介の母親がいた。力いっぱい殴られ、口から、そして鼻からも血をだらだらと流し、それでも弁護士の顔をじっと見つめていた。
弁護士は徐々に正気に戻って来たのか、顔中血まみれになった剛介の母親の姿を見て、顔がだんだん青ざめ始めた。
「ぼ、僕は、そんなつもりじゃ……」
弁護士は拳をかばいながら必死に首を振っていた。さっきまでの血走った眼から何かに怯える犬のような眼に変わっていた。
「私が……全部悪いんですよ」
「どうしてですか? あなたは何も悪くない。悪いのはこの二人なんだ。どうしてかばうんですか?」
「いえ……私が悪いんです」
「ど、どういうことですか?」
「私は剛介の親だからです。親として、剛介をちゃんとした一人前の大人に育てなかったからです……」
剛介の母親は上体を起こすと、ポケットからハンカチを取り出し、何度も顔を拭った。薄い青色のハンカチは、あっという間に血で真っ赤に染まっていた。
「あいなちゃんは剛介のことをずっと好きだったのに、いつかは結ばれたいと思っていたのに、剛介はその気持ちを無視して北海道で他の女と結婚までして……しかも、さんざん剛介の自由を束縛した挙句、別れるとなるととんでもない額の慰謝料まで要求してくるようなとんでもない
すがるような目で見つめている剛介の母親を見て弁護士は顔をしかめていたが、やがて大きなため息をつき、その場にしゃがみこんで剛介の母親に手を差し伸べた。
「それを言うなら、僕たちだって責任がありますよ。周りのことを考えずこんな無責任で突拍子もない行動に出たあいなを育てたのは、他ならぬ僕と妻ですから」
弁護士は苦笑いを浮かべていた。
「それは違います!」
剛介の母親は突然目を見開き、張りのある声で弁護士に向けて訴え始めた。
「あいなちゃんは立派ですよ。高額な慰謝料で苦しんでいた私や剛介の債務を減らすために必死に動いてくれたんですから。そして、なかなか離婚協議に応じてくれなかった相手方の気持ちを動かし、ようやくちゃんとした話し合いができるようになりましたし。ここまであいなちゃんが成長したのは、お父さんとお母さんの教育がすばらしかったからですよ」
弁護士は剛介の母親からの言葉を聞き終えると、次第に全身が震えだした。
「僕がですか?……全然すばらしくないですよ。感情に任せて拳をあげるようじゃ、大した人間じゃありませんから」
弁護士はそう言い残すと剛介の母親に一礼し、「さ、あいな、帰るぞ」と言いながら片手を振ってあいなを手招きした。
「あの……あいなちゃんには何もしませんよね? もしお父さんがこれからあいなちゃんに手を出したり、一方的に𠮟りつけるつもりならば、僕たちはここから動く気はありません」
剛介はあいなを抱きしめながら、弁護士に向けて強い口調で訴えた。
「何言ってるんだ? そんなことするわけないだろ。話を聞きたいだけさ。遮ることなく、全て受け入れるつもりだよ」
弁護士は剛介の問いかけに対し、落ち着き払った様子で答えていたが、剛介はなおも不審そうに弁護士を見つめていた。
「本当ですね?」
「ああ、本当だよ」
弁護士の答えに対し、剛介は納得いかない様子で首を左右に捻っていたが、やがてあいなから両腕をほどくと、その背中を弁護士の方向へとそっと押していた。
「ごめんね、お父さん」
「気にすんなよ。さ、家に帰ろう」
弁護士はあいなの肩に手を回すと、二人並んで公園の外へと歩きだしていった。あいなの母親と弁護士の付き添いの男は深々と頭を下げ、二人の後を追うかのように走り出していった。
残された剛介と母親は、僕の真下でしばらく立ち尽くしていたが、あいながマンションの中へと姿を消した後、剛介がようやく口を開いた。
「僕たちも帰ろうよ、母さん。傷の手当てもしなくちゃね」
すると母親は突然眉間にしわを寄せ、何かが破裂するかのような音を出して剛介の頬を平手打ちした。
「何するんだ! いきなり」
母親は腰に手を当て、仁王立ちで剛介を睨みつけていた。
「あんたを殴る役割は、あいなちゃんの御両親じゃない。この私がすべきことだから」
剛介は頬を押さえながら、そのまま抵抗もせずに母親の顔をじっと見つめていた。
母親は大きなため息をつくと、「私のことは気にしないでいいからね」と言い、口元をハンカチで押さえながらマンションへと帰っていった。
剛介は頬を押さえたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「母さん……」
強い南風が僕たちの枝葉を揺らす音だけが、公園の中に響き渡っていた。剛介は肩を落としながらとぼとぼと歩き、キングの目の前で立ち止まった。
「なあキング……僕は一体どうしたらいいんだろう?」
キングは相も変わらず身体をだらりと下げ、剛介の問いかけにも無口のままだった。
「僕とあいなちゃんはあちこちさまよい歩いて、これからのこととか、色々話し合ったんだ。そして、この場所で一緒に生きていきたい、という結論になった。でも、今のままじゃ誰も僕たちを信じてくれない。過去の失敗があまりにも大きすぎて簡単に取り返せないし、かと言ってここから上手くやっていける自信もないし……」
キングは時折吹きつける風に煽られ、幹が左右にぐらぐらと不安定に揺れ続けていた。
『大丈夫……信じてごらん。剛介はきっと……あいなを……しあわせにできるから……』
キングのかすかな声が僕の耳に入ってきた。いつものように聞き取りにくい声だったが、そこには幼い頃から苦楽を共にした剛介へのゆるぎない信頼があるように感じた。
「ありがとう。どうしたらいいのか全く分からないけれど、あいなちゃんを幸せにしたいというのは、紛れもなく僕の本心だ。まずは自分から体を張って、目の前の困難を一つずつ乗り越えていくしかないのかな……」
剛介が今のキングの言葉を本当に理解できたのかどうかは不明だが、その場で大きく頷くと、立ち上がってマンションへと戻っていった。
『剛介、大丈夫かな……まだどこか頼りなさそうに感じるけど』
『でも、キングに何か言われた途端、目つきがちょっと変わったと思わない?』
『そうかな? 気のせいじゃないの』
苗木達は剛介の様子を色々と噂していた。確かに頼りないけれど、彼なりにこれまでの過ちをどうつぐなっていけばいいのか、頭を抱えて悩んでいるのは確かだ。
僕たちは彼の変貌をこの場で祈り、見守っていくしかない。
翌日、僕たちの目の前に、父親である弁護士とともにあいなが姿を見せた。あいなは大きな鞄を手にし、暑い日にも関わらず生地のしっかりしたスーツを着込んでいるので、おそらく仕事の関係でどこかに行くのだろう。あの後、父親である弁護士とは何も無かったのだろうかと心配していたが、二人を見た感じでは不安を抱えている様子はなかった。
「僕はこれから裁判の被告人に会う約束がある。あいな、佐藤さんの会社の債務整理、一人で本当に大丈夫か?」
「大丈夫よ。まだ私を疑ってるの?」
「バ、バカいうな。信じてるよ」
「じゃ、行ってくるね」
まだどこか不安そうな顔をしている弁護士と別れ、あいなは一人で颯爽と仕事へ向かっていた。
その時、公園の奥に立っているケンが突然唸るような声を上げた。
『あそこにヘンな奴がいるよ……』
ケンが見ていたのは、駅の方向からこちらに向かってくる若い女性だった。深々と帽子をかぶりマスクをしていたが、垣間見える顔に、僕はどことなく見覚えがあった。
『野々花? 何しにここに来たんだろ。何だか嫌な予感がするな……』
野々花は僕たちの立つ公園に来ると、腕組みをして左右を見回した。
「しばらく札幌に来ないと思ってたら、やっぱりここにいたのか……私が離婚に応じたからといって、そう簡単に逃がすつもりはないからね」
野々花はそう言うと、不気味な笑みを見せた。
「おはようございます、弁護士さん」
野々花の声に振り向いたあいなは、口に手を当て思わず仰天した。野々花は、ヘラヘラ笑いながら、ゆっくりとあいなの元へ歩み寄ってきた。
「弁護士さん、このたびは慰謝料の件でお世話になり、ありがとうございました。今日はちゃんとお礼を言いたくて、わざわざこっちまで来たんですよ」
野々花は深く頭を下げると、肩に掛けたバッグから白い小包を取り出した。
「ところで弁護士さん。あなた、今度剛介と結婚するんですよね?」
「ま、まあ……まだ正式には決まっていませんけど」
「私、あなたと剛介にお祝いを渡したくて」
「お祝い?」
「そうですよ」
野々花は不気味な笑みを浮かべ、小包の包装をゆっくりとこじ開けた。
「私の人生をぐちゃぐちゃにしたあなた達のために用意した、私なりの心を込めたプレゼント、遠慮なくもらってちょうだい!」
「!?」
野々花が小包の包装を取り払うと、大きな出刃包丁が姿を見せ始めた。野々花は包丁を手にすると、不気味に唸るような声を上げて笑い、一歩ずつあいなに近づいていった。
やはり彼女は簡単には諦めていなかったのか……僕の嫌な予感が当たってしまった。
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