第157話 駆け落ち

 夜も更け、人通りもなく虫たちの声だけが高らかに響く公園の中で、僕たちはマンションに灯る部屋の灯りをじっと凝視していた。

 あいなと剛介が意を決して、二人揃って親達に挨拶に向かってからはや数時間。一体どんな結果になったのだろうか。僕たちは公園のケヤキである以上、おしかけてその結果を聞きに行くことはできない。いつの日か二人の口から果報を聞かされる時を待つしかなかった。


『もう今日はここには来ないんじゃない? さすがにもうこんな真っ暗だし、マンションの部屋の灯りの数もさっきよりぐっと減ってるし』

『ひょっとしたら話が付いて、今頃安心して寝ちゃったのかもよ?』


 苗木達はマンションを見ながら、興奮気味に言葉を交わしていたが、彼らが思っているほど話がうまく行ったのだろうか? 楽観視している苗木達とは違い、僕は今回の直談判ついて、そんなに上手くはいかないのではないかと考えていた。先週、あいなの父親である弁護士がいまいち浮かない様子を見せていたのをよく覚えていたからだ。


 やがて漆黒の闇の中から、二つの靴の音が徐々にこちらに近づいてくるのが耳に入ってきた。

 こんな夜も更けた時間に、一体誰が……?

 僕は目を見開いて辺りを見渡すと、そこには手を繋ぎながら所在なさげに立ち尽くす若い男女の姿があった。


『あいなちゃん……それに、剛介?』


 ようやく親達への話が終わり、僕たちに報告に来たのだろうか? それにしてはどこか寂しそうな雰囲気がするのは何故だろうか。二人は無言のままずっと立ち続けていたが、やがてあいなが時折咳をしながらむせび泣いている声が聞こえてきた。


「ごめんな、あいなちゃん。悪いのは僕だ。僕が脇目を振らず、ずっと君だけを守り続けていれば……」

「剛介君は何も悪くない。私の両親が色々難癖つけて、私たちの気持ちを分かってくれないのが悪いのよ。特に最近のお父さん、すごく変なの。事あるごとに『俺はお前のことを考えて色々忠告してるんだ』とか言ってくるんだよ。何でそんなに信じられないのかって言いたいよ」

「でも……お父さんの言うことも分かるよ。野々花がまた何か僕たちに妨害を加えるかもしれないからね。たとえ離婚が成立したとしても、僕のことをまだどこか諦めていない所があるからね」

「だから何よ」

「え?」

「お父さんも野々花さんも関係ない。私は剛介君と一緒にいたい。剛介君と結婚したい。ただそれだけだよ。それがどうしていけないことなの?」

「そういうことじゃないよ。僕だって君と一緒になりたいよ……」


 剛介は、泣きじゃくるあいなをそっと抱きしめた。あいなは剛介の胸の中で声を上げて泣き続けた。


「ねえ、剛介君……もう親の同意なんて得ないで、私達二人で暮らさない?」

「はあ?」

「このまま駆け落ちして、どこか見知らぬ町で暮らしたい」

「そんなことしたら、余計に親達を怒らせることになるぞ。二度と結婚を認めてもらえなくなるかもしれないぞ」

「でも、これで泣き寝入りするのは絶対に嫌だよ。私は弁護士として、剛介君のパートナーとして、どんな困難にも負けないつもりだから」

「……わかったよ」

「ありがとう、剛介君」


 剛介は小刻みに震えるあいなの手を取ると、あいなはその手を強く握り返した。

 そして二人はそのまま闇の中に姿を消してしまった。

 いったい、どこに行くつもりなんだろう。

 二人の足音は僕たちからどんどん遠ざかっていった。


 翌朝、燃えるような夏の太陽が朝から照り付ける中、いつものように学校や仕事に行く達が僕のそばを賑やかに通り過ぎていった。行き交う子ども達に交じり、スーツ姿の男性と花柄のシャツを着た凛とした雰囲気の女性、そして白髪交じりのどこか疲れた顔の女性が公園内をくまなく歩いていた。

 

『あの人達ってあいなちゃんの両親と、剛介君のお母さんかしら?』

『きっとあいなと剛介を探しに来たんだよ。彼らはあのまま家に帰っていなかったんだな』


 苗木達の声を聞いて僕も目を凝らしてみたが、三人はやはり、あいなの両親と剛介の母親だった。


「あいな! どこにいるんだ。剛介君も一緒なんだろ? 何も言わないから出てきなさい!」


 弁護士の甲高い声が公園内に響き渡っていた。あいなの母親は、「あいな!剛介くん! どこなの?」と二人の名前を連呼しながら、植込みの中や僕の真下にあるベンチの下を覗き込んでいた。

 一方で剛介の母親は、あいなの両親のように声を張り上げることも無く、時折首を左右に振っては公園の周囲の様子を確かめていた。


「ちくしょう……どこに行ったんだ」

「ねえお父さん、警察に協力してもらいましょ。私達だけじゃ無理よ」

「警察? あんな奴らに頼るなんて、弁護士の僕としてはプライドが許せないよ」

「気持ちは凄く分かるわよ。でも、あんなに頑とした態度を取らなくても良かったんじゃないかしら。昨日、あの二人の話を片っ端から論破していたじゃない。あいなは『話を聞いてくれない』ってヒートアップするし、剛介君は何も言えなくなっちゃったし……私、傍で見ていて耐えられなかったわよ」

「あいつらは僕の言ってることが全然分かっていないんだよ。『野々花さんの件をちゃんと解決してから結婚しなさい』って、それだけの話なのに」


 弁護士は、野々花の件が未だに解決していないと思っているようだ。あいなは必死に解決に向けて奮闘してきたと言っているが、弁護士はまだ信用はしていないのだろう。


「とりあえず、僕の知り合いの元刑事や探偵に声をかける。マスコミの力も借りる。警察は使わず、あらゆるつてを使って見つけ出してやるぞ」

「そこまでしなくても……あいなは立派な大人ですよ」

「何言ってるんだ、あいなに何かあってからじゃ遅いんだぞ!」


 弁護士は妻の制止を振り切り、携帯電話を取り出すと次々と知り合いと思しき人達に電話していた。一方で剛介の母親はそれほど熱心に探し出そうとはせず、ある程度時間が過ぎた頃、弁護士夫妻に頭を下げると、そそくさとどこかへ行ってしまった。歩いて行く方向からすると、どうやら仕事に出かけるようだ。


『どうしよう……あいなちゃんのお父さん、鬼みたいな顔して騒いでるよ』

『きっと結婚は絶対に許してくれないよ。あーあ、全くあの二人は何を考えてるんだ』


 苗木達はにわかにざわめき始めた。このままでは、あいなと剛介はもう二度と結婚できない。それどころか、会わせてさえもらえなくなるかもしれない……。

 二人は何て軽はずみなことをしたんだと、僕は思わず歯ぎしりしてしまった。


『だいじょうぶ……剛介、戻ってくる……きっと……』


 ボソッとささやくような声が僕の真後ろから聞こえてきた。その声を聞いて僕がふりむくと、だらりと枝を下げてうつむくキングがずっと何かをつぶやいていた。


『キング、お前は信じてるのか? あの二人のことを』


 僕が声を上げると、キングは驚き、そのまま口を閉ざしてしまった。相変わらず情けない容貌の彼であるが、彼は僕たちよりもしっかり物事を正面から見ているような気がする。そして、予言めいたことをつぶやき、それが的中することもある。



 それから数日……いや、一週間以上は過ぎただろうか。

 夜が明けて、次第に太陽の光が漆黒の闇に包まれた公園の中を照らし始めた。いつもと変わらぬ朝の風景であるが、僕が目を覚ますや否や、苗木達がざわめき始めているのが気になった。


『どうした? 一体何があったんだい?』

『何がって……ケビンさん、自分の真下を見てみろよ』


 ヤットの声を聞き僕は視線を下げ、ベンチに目を向けると、そこには互いに体を寄せ合って眠るあいなと剛介の姿があった。


『え? い、いつの間に……』


 僕は慌てふためいていたが、二人はそんなこともお構いなく、手を握り、安らかに眠り続けていた。二人とも十分に食事を摂れていないのか、若干顔がやつれ、髪はボサボサであった。


「おはよう、あいなちゃん……朝だよ」

「あ、そうだね……」


 あいなはまぶしい光を避けようと、何度も目頭に手を当てていた。

 今日は時折南風が吹き、僕たちの葉がカサカサと音を立てて揺れていた。


「ねえ、聞こえた? 木の葉の揺らぐ音」

「ああ」

「あっちこっち廻ってきたけど、やっぱりここが一番落ち着くね。子どもの頃から見続けてきたケヤキの木々があってさ」

「確かに……この木達のそばに居たいって思うんだよね。不思議だけど」

「悔しいけれど、ここが私達の生きていく場所なのかもしれないね」

「そうだね。僕も同じ結論だよ」

「でもさ、何だか家には帰りづらいよね。こんなに心配かけちゃったし」


 そう言いながらあいなはスカートのポケットから携帯電話を取り出し、剛介に見せつけた。


「うわあ、すごい数の着信とメッセージの数……」

「すごいでしょ? どこに行ったか気づかれたくないから全然読んでないけれど、こんなに心配かけてたんだから、相当怒ってるに違いないよ。下手したら、結婚そのものも認めてもらえないかもしれない……いや、今すぐ別れろって言われるかもね」

「そ、そんなことまで言うかな?」

「言うと思う。お父さん、自分のプライドを傷つけられるのが一番嫌いだから」

「……僕の所には母さんから全く連絡が来てないや。あ、一つだけメッセージが来てたな。『どこにいるのか知らないけれど、ちゃんと食べなくちゃダメよ』って」

「それだけなの?」

「うん。それだけ」


 二人は朝陽を浴びながら、これからどうしようか途方に暮れた顔をしていた。

 その時、マンションの方向から、靴音を立てながら何者かが二人の足元へ近づいてきていた。


「そこにいたか」


 二人の前には、弁護士とその妻、そして恰幅のよい見知らぬ男性が数人ほど一緒に立っていた。その中には、いつも一緒にいるはずの剛介の母親の姿はなかった。


「お父さん……!」

「どこに行ってたんだ、おい」

「それは……その……」


 弁護士の表情にはいつもの平静さはなく、怒りに満ちているのがありありと伝わってきた。妻がその様子を見て不穏な雰囲気を感じ取ったのか、弁護士の側に立って心を鎮めようとしていた。


「ねえお父さん、あいなが無事帰ってきたんだから良かったじゃない? だから……」

「良かねえよ」


 弁護士は震える拳をギュッと強く握りしめると、あいなと剛介の目の前に歩み出て、その拳を思い切り振り下ろした。


 バシッツ!


 弁護士の拳が激しい音を立ててさく裂した。

 しかし、拳が当たったその相手は、あいなでも剛介でもなかった。

 いつの間にか三人の間に立っていた、剛介の母親だった。


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