第156話 旅立ちの時
今日は朝から刺すような太陽の光が降り注いでいた。いつもならうるさいほどのひな鳥たちの声が響いていたが、今日は全く聞こえてこなかった。こんな天気では、僕の頭に出来た巣の中にいるひな鳥たちも鳴く気力も起きないのだろう。こんなに落ち着いた静かな朝を迎えたのは、本当に久しぶりのことだ。
『ケビンさん、今日はひな鳥の鳴き声が全然しないんだけど、どうしたの?』
『まさか、この暑さで死んじゃった?」
苗木達からは、心配する声が相次いだ。僕はもう何年もこの程度の暑さに耐えてきたから今更何とも思わないけれど、まだ体が小さいひな鳥たちにとってはきっと体に堪えているに違いない。ひょっとしたら、暑さにやられてそのまま干からびてしまった可能性も十分考えられる。僕は意を決し、そっと頭の上に目を向けようとした。
『いない……鳥たちがいない』
僕は何度も巣の中やその周りを見渡したけれど、ひな鳥たちの姿はどこにも見当たらなかった。ひょっとして落下してしまったのだろうかと思い、僕は地面に目線を落としたが、やはり何も見つけられなかった。
『一体、どこに行ったんだ』
僕は急に姿を消したひな鳥たちを心配したが、やがて「ピッ、ピピッ」と声を上げて公園の真上の空を駆け巡る鳥たちの姿に気づいた。
『見ろよ。あの鳥たち、昨日までケビンさんの頭上にいたひな鳥だよ』
『本当だ。まだ体が小さいけれど、必死に羽を動かして空を飛んでるよね』
『あの子達、巣から旅立っていくんだね……うるさくなくなるけど、何だか寂しいよね』
苗木達は、空を飛び交う鳥たちの姿を見てしみじみと別れを惜しんでいた。
『俺はホッとしたよ。これでケビンさんがいちいち鳴き声にキレるのを見ることもなくなるもんな』
ケンだけが、僕にかこつけて寂しくないようなそぶりを見せていた。別に僕だって好きでキレているわけではない。あまりにも不快で耐えられないから、声を上げずにいられないだけなのだ。
しばらく公園の周囲を旋回していた鳥たちは、次第に公園から離れた遠くの空へと飛び始めた。そして、あっという間に僕の視界の中から消え去っていた。
僕はやっとあの激しい鳴き声から解放されることにはなったけれど、心の中にぽっかり穴が開いたようにも感じていた。どんなにうるさくても、糞をどれだけ撒き散らされても、どこか憎めなかった。
『どうしたのケビンさん。これであの悩ましい日々から解放されたのに、どこか寂しそうな顔しちゃって』
『ば、バカ言うなよ。これで良かったに決まってるだろ?』
僕は寂しさを隠そうとしていたが、うまく隠せず表に出てしまっているんだろうか。
思い返すと、僕がこの公園に連れて来られた時、育ててくれた造園会社のおじさんがちょっぴり寂しそうな顔をしていたのをかすかに覚えていた。身の回りの大事な誰かが旅立っていく時の悲しさは、相手が何であろうが変わらないのだろう。
鳥たちが遠くに行き過ぎ、行き交う人の姿もない公園の中は、昨日までの煩さが嘘のように静まり返っていた。そんな中、キャリーケースを手にしたあいなが姿を見せた。あいなは去年の冬以来、頻繁に荷物を片手に出かけていた。行先については、大体想像はついているが……。
あいなから少し遅れて、両親である弁護士夫妻が駆け足でマンションの中から出てきた。
「おい、あいな。どうしても行くのか?」
「そうだよ。だって、剛介君とそのお母さんのことをしっかり救済しなくちゃいけないでしょ。野々花さんの御両親にも何度も面談して、完全に合意するまでは私の仕事は終わらないの」
「野々花さんはお前が想像するよりも手強いぞ。そんなに簡単に合意してくれるわけないじゃないか。あっちの出した条件を飲みながら、時間をかけて徐々に離婚の話をまとめていくしかないんだ」
「どうしてそんなこと言えるの? 剛介君、すごく苦しんでるんだよ? 高額な慰謝料出されて、日常生活を拘束されて、それをずっと放置しておけっていうの?」
「急いで結論を出すなと言ってるんだ。慌てるとあいな自身が身を亡ぼすことになるぞ」
「でも、私……剛介君を見殺しにできない! 剛介君のことが、大好きだから」
「あいな……」
あいなはキャリーケースに手を置きながら、髪の毛をだらりと下げてうなだれてしまった。
「ねえお父さん、お母さん……私、剛介君と結婚したい」
「な、なんだって!?」
あいなの口から、ついに「結婚」という言葉が出された。
幼い頃からずっと心に秘めていた想いを、あいなは両親の前で確信に満ちた言葉で伝えていた。
「これ、見てくれるかな」
あいなは左手の薬指を両親に見せた。そこには、太陽の光を受けてきらりと光る指輪があった。
「剛介君が私に買ってくれたの。すっごい安いけど、彼が少ないお金で私のためにって買ってくれた。私……嬉しくて嬉しくて、仕方が無かった」
僕たちは今まであいなの手に指輪を付けているのを見たことがなかった。その指輪がどういう意味があるのかいまいち理解できないけれど、好きな人からもらうプレゼントの中でも特別な意味合いがあるものに違いないと思った。
弁護士は何も言わずに指輪のある薬指を手に取り、見定めるかのようにじっくりと見つめていたが、妻は感極まった様子で、ハンカチを手に泣きじゃくっていた。
「剛介君も、もう心を固めてる。野々花さんとの一件が解決したら、私たちはちゃんと籍を入れたいと思ってるんだ」
そう言い残すと、あいなはキャリーケースを引いて両親を取り残すかのようにどんどん先へと進んでいった。弁護士は泣きじゃくる妻の背中をそっと支えながら、あいなの背中をずっと見届けていた。
「勝手にしろ!」
弁護士は吐き捨てるように言うと、妻の手を引いてマンションの方向へと歩きだした。すると妻は驚いた様子で弁護士に問いかけた。
「どうしてそんなに怒ってるの? 私はあいなが剛介君とやっと結ばれるんだなって思うと、嬉しくてつい涙が出ちゃって……」
「何言ってるんだよ。あいなは危険を冒して剛介君と結婚しようとしてるんだぞ。あいなが立派な弁護士になれるように、幸せな人生をおくれるように、僕たちができることは必死にやってきたつもりなのに……そのことを忘れて、僕たちの意見に背いて勝手なことばかりしやがって」
弁護士は早口でまくしたてるように話すと、震える手を握りしめながらマンションへと駆け出していった。
「ちょっと、待ってよ! あいなの気持ちも少しは考えてあげてよっ!」
妻は金切り声で叫んでいたが、聞こえないふりをしているかのように、弁護士は真っ先にマンションの中に入ってしまった。
せっかくあいなが結婚を決意したというのに、どうして素直になれないのだろう。確かに剛介はまだ野々花と籍を入れたままになっており、彼女の性格を考えると簡単に離婚してくれそうには思えないが……。
それから一、二週間近くが経っただろうか。
燦々と夏の太陽の光が降り注ぐ中、あいなが帰ってきた。大きなキャリーケースを引き、汗を拭いながらゆっくりとした足取りでこちらに近づいてきた。そしてその後ろから、どこかで見覚えのある若い男性があいなの背中を追うように歩いていた。
見た目どこか頼りない感じがするその男性は、紛れもなく剛介だった。
黒い縁の眼鏡をかけ、いかにもサラリーマンという感じのする剛介。その左手の指には、あいなとお揃いと思われる指輪があった。剛介は公園の中に入ると、あいなを追い越して一目散にキングの所へ向かった。
「アハハハ、やっぱりキングのこと、気になるんだね」
「当たり前だろ! 僕にとってはかけがいのない友達だ。な? キング」
キングはいつものように枝をしならせたまま、無言で剛介を出迎えた。
「元気だったか? 相変わらず元気ないな、お前は」
剛介は呆れた顔でキングの枝や幹に手を触れていた。
「ま、この僕もお前のことどうこう言える立場じゃないんだけどね」
そう言うと剛介は立ち上がり、あいなの元へと戻っていった。
「いい? キングへの挨拶は済んだの?」
「うん」
「じゃ、後はいよいよ私の両親とのご対面ね」
「……緊張するな。今まで自分がしたことで、君のお父さんには本当に迷惑をかけていたからね。いくら僕のことをよく知っているとはいえ、きっと簡単には許してくれないだろうな。それに、まだ解決してないことがあるだろうって言われそうで」
「野々花さんのこと?」
「まあな。まだ野々花とは正式に離婚してないし……」
「相手とはもう大筋で合意してるんだから、あとは慰謝料を完済し、離婚関係の書類を揃えるだけよ。少し時間はかかるけど、慰謝料はもうちょっとで完済するし」
あいなは剛介の手を強く握り、剛介の体をそっと自分の方へと引き寄せた。
「私、剛介君が大好き。この気持ちにもう迷いはないから。もう何が起きても、誰に妨害されても、私は立ち向かうから。あなたのことを貶めようとするならば、私が体を張って守るから。私、もう何が起きても逃げも隠れもしない、剛介君とずっと一緒に生きていきたい」
剛介はあいなの言葉に驚きつつも、どこか不安そうにあいなを見つめていた。するとあいなは大きく目を開き、不安そうに見つめる剛介に対し「大丈夫だよ」と言わんばかりにうなずいていた。あいなの表情には、どんな困難も立ち向かっていこうとする意志の強さが垣間見られた。
「さ、いこうよ」
「うん」
二人はキャリーケースを引きながら、マンションの中へと入っていった。いつもと違い、緊張感の漂う里帰りである。紆余曲折を経て、いよいよ二人が結ばれる時が来たようだ。あいなの両親は、そして剛介の母親は二人の結婚を認めてくれるんだろうか。
『私たちも緊張しちゃうよね……上手く話がまとまるといいな。それにしても剛介君、男なんだからもっとシャキッとしないと』
『そうだよな、あいなちゃんに引っ張られてるようじゃダメだよ』
苗木達は二人の背中を見ながら、相も変わらず無責任なことを言ってざわついていた。剛介には、あいなが好きだという気持ちは間違いなく持っているだろうけど、ここまで彼がしてきた行動のせいで、あいなやその家族に色々と迷惑をかけてしまったことが、どうしても後ろめたいのだろう。その気持ちは分からなくはないが……。
色々と紆余曲折はあったが、子どもの頃からずっと見守ってきたあいなと剛介にも、いよいよ旅立ちの時が近づいているのかと思うと、感慨深いものがあった。こないだの鳥たちのように幼い頃から見ていた二人の旅立ちを見送るのは、嬉しいような、寂しいような。
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