第155話 巣立ちまでの我慢

 夏の強い陽ざしが差し始めた頃、僕の頭の部分がやけにうるさくなった。朝になるとひな鳥がこの世の終わりかと思えるほどの声で鳴きだし、その度に親鳥と思われる体の大きな鳥が旋回しながらやってきてはひな鳥に餌を与え、またどこかに飛び去って行った。どうやら頭のてっぺん近くに、鳥の巣ができたようだ。

 問題は鳴き声だけではない。ひな鳥たちは、餌を食べるだけ食べると、次々と糞を落としていった。全て地面に落ちてくれたらいいけれど、時には幹や枝にかかり、跡が白くくっきりと残ってしまうのだ。正直言うとここから逃げたい位だが、逃げることもできず、ひたすら耐えるしかないのが本当に辛い。

 しかし、今日になってようやく希望が見えそうな予感がした。今朝早くから大きなカバンを手にした樹木医の櫻子が公園に姿を見せていた。彼女ならば、この巣が僕たちケヤキの成育に支障をきたしていると思って、取り払ってくれるかもしれない……僕は一縷の望みを、櫻子に託した。


「あら、この木、鳥の糞だらけだね」


 櫻子はカバンからブラシと洗浄道具のようなものを取り出すと、汚れていた幹を綺麗に洗い流してくれた。綺麗にしてくれたことはもちろん嬉しいけど、もっと大事なものが僕の頭の辺りにある。櫻子先生、早く気付いてほしいんだけど。


「さっきから、結構鳥の鳴き声がするけど……どこかに巣があるのかな」


 櫻子は公園沿いに停めた車に戻ると、大きな梯子を取り出し、体のバランスを崩しながらゆっくりと運び出して僕の足元に置いた。櫻子は梯子に足をかけながら木の上を眺めると、一段ずつ踏みしめながら昇り、生い茂った葉を両手で掻き分けた。


「あった! これはムクドリかな……あらら、小さくてコロコロして、かわいいなあ」


 櫻子はひな鳥を見つけるや否や、声をあげてはしゃいでいた。おいおい、かわいいのは分かるけど、そいつらが悪さを働いて僕に迷惑がかかっているんだよ。早く何とかしてほしいんだけど。


「でも、結構大きくなってきてるから、もう少ししたらここから出て行くのかな? 今あなたたちのお家を取り外すのはできないもんね」


 え? それじゃ、この巣をここに残すって言うこと? 


「ある程度糞が落ちるのは仕方ないよね……この子達も生理現象は我慢できないもんね。ごめんね、キミも突然巣を作られてすごく迷惑だろうけど、もう少しの間だけ我慢してね」


 櫻子は梯子から降りると、手際よく梯子を折りたたみ、車の中に積み戻した。そして「さ、あなたたちの健康状態もちゃんとチェックしなくちゃね」と言いながら、僕には脇目もふらずそそくさと苗木達の方へと行ってしまった。

 僕は相も変わらず落ちてくる糞にまみれながら、櫻子の背中を茫然と眺めていた。


『お、おかしいだろ。僕がこんなに糞まみれになってるのに、そして鳥たちの煩い声に悩んでいるのに。樹木医なのに、どうして木の気持ちがわからないんだ?』


 僕は声を震わせながら、櫻子にぶつけるかのように怒りの声を上げた。


『まあまあ、落ち着けよケビンさん。きっと何か理由があるんだと思うよ。樹木医さんなのに手を出せないちゃんとした理由がね』


 見兼ねたヤットが、冷静になれと言わんばかりに声をかけてきた。


『理由? 単に鳥たちがかわいそうとかそんな所だろうよ。樹木医なのに木の気持ちに立たなくてどうするんだ』

『そう? そんな単純なものなの? いくらなんでも違うと思うけどなあ……』


 しかし、櫻子がひな鳥たちを「可愛い」といって目で動きを追っていたのは事実である。そんな彼らを自分の手で無理やり除去するなんて、鬼畜の仕業だと思っているに違いない。

 やがて公園の全ての樹木の点検を終えた櫻子は、僕の頭に乗った巣を見届けながら「早く大きくなるんだよ」と手を振り、公園を去っていった。

 結局除去されなかった鳥の巣からは、相も変わらず激しい声を上げてひな鳥たちが鳴いていた。最後の頼みの綱だった櫻子にも見放された僕は、最早我慢の限界に達した。


『ええい、こうしてやるっ。早くどっかに行っちゃえ!』


 僕はありったけの力を振り絞り、全身を思い切り揺すった。やがてカサカサと音を立てながら枝や葉が地面にぽつぽつと落ち始めた。


『ちょっとケビンさん、いくらなんでもそんなことしちゃダメだろ?』

『ひな鳥たちがかわいそう……「誰か助けて!」って言って鳴いてるよ』


 苗木達は必死に僕を阻止しようとしていたが、僕はもうこんな不快な思いはしたくない一心で体を揺すり続けた。ひな鳥たちの声は助けを求めるかのように悲痛であったが、それ以上に僕はこの不快な状態を一刻も早く脱したかった。


『なっさけねえなあ。それでもあんた、俺たちのリーダーかよ』


 その時、ケンの唸るような声が公園の中にこだました。


『うるさいなあ、こんな不快な思い、経験したこともない癖に偉そうなことを言うな!』

『経験してもしなくても、リーダーだったらもっと冷静沈着に振舞うべきじゃねえのかよ。見て見ろよ、他の苗木達を、みんなケビンさんのこと見て、怖がってるぞ。そして、ひな鳥がもし巣ごと地面に落ちたらどうする? ひな鳥には何の罪もないんだぞ。その辺り、一体どう考えてるんだよ?』


 ケンは臆することなく捲し立ててきた。僕はケンの言う通り、辺りを見渡してみると、苗木達は僕を見て何かに怯えた様子を見せていた。僕は彼らを脅かすつもりはなかったのに、どうしてこうなってしまったのだろう。単にひな鳥たちが憎いだけだったのに。


『さっきから聞いてりゃ何なんだ。僕の気持ちをこれっぽっちも分かりもしないで。リーダーがどうこうという話じゃないだろ?』

『話が分からないようだな。分かった。それならば俺たちは、ケビンさんのリーダー解任を要求するから』

『いい加減にしろ! 僕にリーダーを託したルークさんの気持ちを裏切るつもりか!』


 僕とケンの激しい罵り合いが続き、公園のケヤキ達が、にわかにざわめきはじめた。『やめてよ、二人とも!』という悲鳴があちこちから湧き上がった。

 その時、玄関の戸が開く音とともに、怜奈と芽衣が箒とビニール袋を手に公園に姿を見せた。


「ねえ、風もないのに公園のケヤキが揺れまくってるけど、一体何なの?」

「そうですね。なんだかすごく不気味ですよね」

「それより、鳥の鳴き声が聞こえてこない?」

「この木の上に巣があるのかな。やだ、地面とかベンチが糞だらけですよ」

「わわわっ。これは掃除しないと」


 怜奈は慌ててポケットからハンカチを取り出し、必死に手を動かしてベンチを拭き取ろうとした。


「あら、また糞が落ちてきましたよ」

「え? 折角綺麗にしたのに?」

「この上の巣を取り除かないことには、糞が落ちてくるんじゃないですか?」

「そうか……」


 怜奈は木の上をじっと見つめると、大きく頷き、芽衣を手招きした。


「よし、芽衣ちゃん、やるよ。梯子を持ってきてくれる?」

「取るんですか? 巣を」

「じゃないと、これからも汚れ続けるだろうから」

「それって、お義母かあさんがやるんですか?」

「私は足腰が悪いから、ここからは芽衣ちゃんの出番だよ」

「えー? 私が?」

「公園を使う人達のことを考えたら仕方がないわよ、さ、早く」


 怜奈に急かされるままに、芽衣はしぶしぶと自宅へ戻っていった。

 話が分かる人だな……怜奈さん。これでやっと苦悩から解放されることになりそうだ。

 しばらくすると、芽衣は大きな梯子を手に僕の目の前までやってきた。


「こ、これくらいでどうでしょうか? いつもシュウが日曜大工で使ってるやつだけど」 

「うん、これだけ高さがあれば十分だね。さ、あとは芽衣ちゃんの腕にかかってるからね。そーっと巣を取り外すのよ」


 芽衣は梯子を一段ずつ踏みしめ、一番上に来るとどこか心もとない様子で辺りを見回した。


「ありました! 巣の中に小さなひな鳥が三羽いますけど、無事に取れるかなあ……」

「大丈夫よ。まずは深呼吸して、そーっと手を巣に端っこに掛けて、ゆっくりと降ろしてごらん」

「は、はい」


 芽衣は怜奈の言うとおりに深呼吸すると、ゆっくりと巣に手を伸ばし始めた。芽衣の手はついに鳥の巣のすぐ傍までやってきた。これで全ての悩みから解放される……僕は嬉しさと緊張感からか、不思議に気分が高揚していた。


「ちょっと、何やってるんですか?」


 その時、僕の真下から誰かの声がした。僕は驚いて振り向くと、そこには、弁護士とあいなの姿があった。


「どうしてダメなんですか? 見て下さいよ、この糞だらけのベンチを。あそこにある鳥の巣が原因なんですよ」


 怜奈が二人に噛みつくように理由を聞きだしたが、あいなは怜奈の隣に立つと、


「法律上、ひな鳥がいる間は鳥の巣を勝手に除去できないんですよ」

「そ、そうなの? じゃあ、どうすればいいの。このまま放置しとけってこと?」

「そうですね」

「そ、そうですねって……」


 焦る怜奈を横目に、弁護士は鳥の巣を見ながら話し出した。


「ひな鳥はね、大体一、二か月で外へ飛べるようになります。ひとりでに大人になっていきますから……心配しないで温かく見守ってあげてください。ベンチへの糞については私から行政に伝えますから」


 二人を安心させるかのように優しく話しかける弁護士に対し、あいなは首をかしげていた。


「お父さん、急にどうしたのよ。何だか寂しそうに話してるけど」

「べ、別に何でもないよ」


 弁護士はそう言うと、あいなを残して一人早足で歩きだした。そして、僕の前を通りすがる際に「もうすぐ我が家も、その時が近づいてるからな……」と、ため息をつきながらあいなに聞こえない程度の小声でつぶやいていた。


「ごめんね、芽衣ちゃん。私もちゃんと法律を勉強しないとね。梯子片付けて家に帰ろうか」

「はい」


 怜奈と芽衣も公園を去り、ひな鳥たちの激しい鳴き声に悩まされ、次々と落ちてくる糞にまみれた僕だけが取り残された。

 ああ、世の中は何て非情なんだろう。


『大丈夫だよケビンさん。一ヶ月耐えればきっとあのひな鳥たちも飛び立っていくんだよ。その時までの我慢だって』

『そうさ。それに耐えてこそ、俺たちのリーダーだぞ』


 苗木達に声をかけられて、ちょっとだけ嬉しかったけど、この悩みに耐えることとリーダーの資質がどう関係するのかは、いまいちしっくりこなかった。

 まあ、あと一か月間、耐えるとするか……早く大きくなっておくれよ。

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