第154話 親として

 今年の冬も長く厳しかった。僕もそして苗木達も、枝を落としたり樹皮が剥がれたりと、満身創痍でこの冬を乗り切った。ここ数日はようやく暖かな日差しが公園を包み込み、白い蝶が目の前を舞い始めていた。足元には小さな花が咲き、時折風に乗って桜の花びらが舞い降りてきた。

 今日も朝早くから小学生たちが元気な声を上げながら僕たちの目の前を通りすぎていった。その中には、真新しいかばんを背負った新入生と思しき子もいた。小学生たちの登校の列が行き過ぎる中、玄関からは中学校の制服を着た樹里が現れた。樹里はこの春小学校を卒業し、近くの中学校に通い始めた。

 樹里はどことなく眠そうな顔をしていた。すると、樹里の真後ろから、母親の芽衣がいそいそと見送りに出てきた。


「ほら樹里、遅れるから早く行きなさい」


 芽衣は心配そうに樹里を見つめながら背中を押したが、樹里は目をこすりながら、大きなあくびをしていた。


「眠いの? さてはまた遅くまでネットしてたんでしょ?」

「そうだよ、友達とLINEしてたんだけど、それが?」

「ちょっと、開き直らないでよ。まったく、あんたの入学祝にスマホなんて買わなきゃよかったわ。ところで勉強は大丈夫? さっそく来月中間テストがあるんだよ? 眠くてもちゃんと授業に集中しなさいよ」

「はいはい」


 樹里はだるそうにそう言うと、芽衣に背中を向けて歩きだした。


「もう……本当に大丈夫なのかしら?」


 芽衣はため息をつきながら、重い足取りで自宅へと戻っていった。


『樹里ちゃん、大丈夫かなあ。中学生ってやることがいっぱいあるから、疲れてるのかな』

『いや、そうじゃないみたいだよ。さっき芽衣さんも言ってたじゃない。スマートフォンとかいうを買ってあげたら、そればかりやってるって』

『ふーん。その、そんなに面白いのかしらね』


 苗木達は相も変わらず下らない噂話をしていた。

 樹里が去った後、制服姿の中学生位の男子がパンを食べながら片手で携帯電話を持ち、ふらふらと歩きながら公園の中に現れた。男子はパンを食べきると、袋を僕の足元へ片手でひょいと投げ捨てた。男子は拾う様子も気にする様子も無く、携帯電話に視線を集中させたまま、どこかへ歩き去っていった。僕は、この公園を通り過ぎていく中学生のマナーがあまり良くないという印象があった。さっきの男子みたいに食べた後のゴミを平気で捨て去って行ったり、学校の行き帰りに飲みかけのジュースをわざと僕たちの足元に置いたり、公園の植込みでこっそりたばこを吸っていたりするのをこれまで何度も目撃していた。


 数日後、いつものように小学生たちが賑やかに声を上げながら僕の目の前を通り過ぎ、学校へと向かっていた。小学生たちに交じり、制服をまとった中学生の姿が目に入った。そろそろ樹里も玄関から出てくる時間だが、樹里は一向に姿を見せなかった。玄関の向こうから、誰かが声を荒げているのがかすかに聞こえてきたが、しばらくすると突然ぴたりと止んでしまった。


『おや? 樹里ちゃん、今日は学校行かないんだね。風邪でもひいたのかな』

『そうね。朝晩はけっこう冷えるもんね。風邪だよきっと』


 苗木達は樹里を病気だと決めてかかっているが、果たしてそうなのだろうか。先日僕が見た樹里はどこか元気が無かった。それは体調不良以外の、別な理由がありそうな気がした。

 次の日も、その次の日も樹里は登校時間に姿を見せなかった。これまで毎晩日課のようにこなしていた剣道の練習にも、全く姿を見せなかった。

 そして気が付くと、樹里が姿を見せないまま一週間が過ぎていた。

 子ども達が学校に行った後の静寂に包まれた公園で、芽衣が姿を見せた。片手には透明な袋を持っているので、これからゴミ拾いや草取りでもするのだろうか。

 芽衣の顔は、どこかやつれているように感じた。頬は痩せこけ、髪もきちんととかさないまま無造作に束ねているだけで、見るだけでも無気力さが伝わってきた。

 芽衣は植込みの中から次々と空き缶や弁当箱などを取り出し、透明な袋の中に入れこんでいった。そして作業してまだ時間が経たないうちに、袋は半分以上ゴミで埋め尽くされていた。


「何よこれ……ゴミだらけで頭に来ちゃう」


 芽衣は満杯間近のポリ袋を地面に叩きつけ、怒りを露わにしていた。


「どうしたの、芽衣ちゃん」


 玄関がゆっくりと開き、怜奈が顔を出して芽衣に声をかけた。


「お義母かあさん……見てくださいよ、これ。作業を初めてまだ時間が経っていないのに、袋がゴミでいっぱいなんです」

「そういえば、こないだここを散歩してたら、中学生位の子がコンビニで買ったお菓子の袋を捨てていったのを見かけたの。その場で注意したけど、『うるせえ、ババア』って反抗的な態度取られてね。子ども達はそのままどこかに逃げて行っちゃったのよ」

「そうなんですね……。今の子達って、どう言えば分かってくれるのかなあ。樹里が先週から学校に行かなくなって、理由を問い詰めても視線を合わせず知らんぷりしてるし、お義母さんには相変わらず反抗的だし、シュウが樹里の態度にキレて横っ面を引っぱいたら、そのまま部屋に閉じこもっちゃったし……」

「シュウ、樹里にそんなことしたの? まったくシュウは本当に単純というか、気が短いというか、何も考えていないというか……。」

「でも、樹里も樹里ですよ。シュウが必死に説得しているのに逆切れなんかするから」

「芽衣ちゃんまでそんなことを言うの? もう、シュウも芽衣ちゃんもしょうがないわね。とりあえず疲れてるでしょ? そこでちょっと休もうよ」


 怜奈は芽衣の肩にそっと後ろから手を回すと、芽衣はゆっくりと立ち上がった。芽衣がふらつきながら僕の真下にあるベンチに座ると、その隣に怜奈が座った。


「芽衣ちゃん。あなたが樹里ぐらいの歳の時、親に反抗とかしていたかしら?」

「うーん、親からたまに気に入らないことを言われた時に口答えとかはしたけど、それで終わりだったような。親とは仲良しで友達みたいな感じだったし。私、はっきりとした反抗期って無かったんですよね……」

「へえ、無かったんだ。私はあったよ。もう五十年以上前の、年号がまだ『昭和』だった頃のことだけどね。自分で言うのもなんだけど、本当にどうしようもないくらいひどかった」

「お義母さん……本当に?」

「うちは共働きで帰りも遅かったから、親がいないのを良いことに、友達と連れ立って夜遅くまで町の中を用もないのにフラフラと遊び歩いたんだ。年上の女に見えるように思い切り化粧して、大人っぽい服を着てね。渋谷や吉祥寺でゲームセンターに入ったり、ビリヤードやったり、年齢偽ってディスコに入ったり。そうそう、ファミレスに入ってタバコ吸ったりお酒頼んだこともあったかも」

「……すごすぎる」

「でもね、不思議なことに、悪いことはいつかはバレるんだよね。夜になると私が出歩いてるって妹が親に話しちゃったみたいで、ある日親にこっそり後を付けられて、吉祥寺の駅で『身柄確保』されてさ、その場でビンタされたんだ」

「怖い……昭和の頃って、そういうのは普通だったんですか?」

「さすがに駅で殴る人はいなかったけど、子どもを諭す時に殴る親は普通にいたと思う。その時も家に帰ってから、親から殴られたり立ち直れない位こっぴどく怒られたりしたからね。化粧品とか派手な洋服は全部没収されてすぐゴミ箱行き。一緒に町を歩いた友達の親の所にも謝りに行ったなあ」

「そう言えば亡くなったお義父とうさんも、中学時代にタバコ吸ってたら御両親にひっぱたかれて没収されたって言ってましたね。ただ、お義母さんの経験に比べたらかわいいですよね」

「どういう意味よ? 親に隠れて悪いことしていたのは同じでしょ?」

「ま、まあ、そうですけど……」


 同じと言えば同じだけど、気合の入り方が全然違うと言いたかったが、世話になっている義母の手前上、芽衣は口まで出かかった言葉を飲み込んだ。


「でもね、その時以来私は親に反抗しなくなったし、夜の町に行くこともしなくなった。なぜなら、うちの親は私を夜の町から引き戻し、飾り立てたものを全て剥ぎ取った後、私を優しく包み込んでくれたから。やり方はすごく乱暴だし正直腹が立ったけど、『今まで守ってあげられなくてごめんね』って言って、それ以来私を必死に守ってくれるようになった」


 怜奈はそこまで語るとベンチから立ち上がり、芽衣の肩に手を置いて目をまっすぐ見つめた。


「芽衣ちゃん、心配なのは親として当然のことだよ。でもね、同時に親として、子どもの味方になってあげてほしいんだ」

「でも、お義母さんは私よりさんざん小言を言ってるじゃないですか?」

「だって私は親じゃないよ、おばあちゃんだもの。シュウや芽衣ちゃんが言えないけど、私には言えることがある。それを言ってるだけだよ」

「お義母さん……」

「昔シュウが反抗期だった頃、隆也は感情に任せて時々手を出したこともあるけど、私は何もせず、シュウの言葉にひたすら耳を傾けていた。自分が子どもだった時親にしてもらったように、シュウを受け入れ、守ろうと思った。だからシュウは我が家で孤立することはなかった」

「で、でも。樹里はひきこもってるんですよ? あの子を見守ってたらいつまでも登校できないし、その分授業についていけなくなるし……」

「芽衣ちゃん。たとえ樹里がふてくされていても、いつまでも引きこもっても、樹里の言葉に耳を傾けてあげてほしい。みんなで寄ってたかって樹里を責めたら、樹里はますます閉じこもるだけだと思うから」


 怜奈はそう言うと、呆然としている芽衣の肩からそっと手を離した。


「とりあえず、しばらくの間は嫌われ者の私の出番が多くなるかな、アハハハ」


 笑いながら玄関へ戻る怜奈の後ろ姿は、年老いていてもたくましさと強さを感じた。芽衣は「これで本当にいいのかな?」と頭をひねりつつも、ゴミの入った袋を持って怜奈の後を追うようにそそくさと自宅へ帰っていった。


『怜奈さん、すごい。あんなに樹里ちゃんに嫌がられてるのに、全然めげてないよね』

『でも、嫌われていたことにはちゃんと理由があったんだね……うちのリーダーにも見習ってほしいよ、ね、ケビンさん』


 苗木達の視線を浴びながら、僕はいたたまれない気持ちになった。

 いくら苗木達の親であり、リーダーであるとしても、これだけわがまま気ままな苗木達を見守るのは、実に至難の業である。人間の親も辛いけど、ケヤキも同じなんですよ、怜奈さん。

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