第153話 バレンタインに寄せて

 体の芯まで冷える寒さや激しく吹き付ける北風に耐えながら、僕たちは暖かい季節がやってくるのをひたすら待ち続けていた。もう慣れているとはいえ、冬は僕たちにとって一番厳しい季節であるのは間違いない。

 体がなぎ倒されそうになる位強い北風が吹く中にも関わらず、あいなが両親とともにスーツケースを手に公園の中に姿を見せた。かなり分厚そうなコートの上にマフラーを羽織り、この町ではやりすぎだと言われるくらいの防寒対策を施していた。おそらく剛介のいる北海道に行くのだろう。


「あいな、元気でな」

「うん、行ってくるよ」

「今日はバレンタインだよな。ということは、北海道に着いたら早速剛介君とデートか?」

「フフフ、それはナイショってことで」

「まあ、デートもいいけど、ちゃんと仕事するんだぞ。僕はあくまで仕事を目的として君を北海道に行かせるんだからさ」

「そうね。ごめんなさい。時々忘れちゃうこともあるから、気を付けまーす」

「あ、それから野々花さんに何かされたら、即刻僕に連絡よこすんだぞ。相手はどんな手を使ってでも剛介を取り戻してくるからな」

「うん」


 父親である弁護士の言葉にあいなは大きく頷くと、片手を振りながら遠くへと歩きだしていった。今日のあいなは足取りが軽く、どこか浮かれ気分なように見えた。久々に剛介に会えるのだから嬉しいのだろうけど、剛介の後ろにはまだ野々花がいる。剛介と野々花の問題が解消しない限り、あいなは剛介と結ばれることはない。そして、お金の問題もまだ完全に解決しているわけではない。抱えている物を色々と考えると足取りが重くなるはずだけど、あいながどこか楽しそうなのは、僕の気のせいだろうか。


 出発したあいなと入れ替わるかのように、大きなカバンを手にした樹木医の櫻子がやってきた。

 櫻子はこの公園の樹木医としてすっかり貫禄がついていた。しかし、その顔立ちはここに来た当時とそれほど印象が変わっていない。年齢的にはもう中年位なのに、幼い顔つきと丸い眼鏡は樹木医に成りたての頃と同じように感じた。


「今年の冬は風が強いから、枝が随分落ちてしまったようだね。さすがに折れたりはしないけど、ここまで何度も強い風を真に受けてきたから、何かの拍子に折れてしまうかもしれないわね」


 櫻子は僕たちを一本ずつ念入りに確認し、枝折れの多い木には菰を巻いたり、液体を注入したり、樹皮を取って健康状態を確認したりと、寒い中淡々と仕事を進めていた。華奢で一見体力が無さそうな櫻子だが、僕たちケヤキの世話にかけては細かい所までしっかり時間をかけてやってくれる。


「あとは君だけかな。よく耐えてるよね、今年は風が強い日ばかりなのに」


 櫻子はキングの所に行き、他の木より念入りに手入れをしていた。

 キングは相変わらずしなだれたまま、櫻子のなすがままに菰やロープを巻かれ、終わった時には体のあちこちが固定されてちょっと窮屈そうに見えた。


「さ、これで少しはましになったかな。この冬もみんなと一緒に越せると良いね」


 櫻子の言葉に対し、キングは無言のままその場に立っていた。

 他の苗木達に馬鹿にされても、台風で吹き飛ばされそうになっても、落雷にやられても、この場所に立ち続けている。相変わらず今にも折れそうな身体で元気もないけれど、その内側に込められている生きる力は僕たちの想像以上なんだろう。


「さあ、帰ろうかな。というか、何だか寂しいなあ。今日はバレンタインだって言うのにね」


 櫻子は独り言を言いながら道具をカバンに詰めていた。


「好きな人がいればいいけど、今の恋人は仕事とあなた達ケヤキの木かもしれないね。もうこのままずっと独身なのかな」


 そう言うと櫻子は元気のない様子で僕の真下のベンチに座り、僕の体をじっと見つめた。


『ああ、そうだ! 今日はバレンタインだね。確か人間の世界では、女の人が好きな男の人にチョコレートを渡す日だわ』


 ナナは櫻子の言葉を聞いて、今日が人間界の女性にとって特別な日であることを教えてくれた。チョコレートといえば、以前通りすがりの子どもが僕の足元にアイスクリームを落としていたが、その色が目に毒なほど漆黒で、臭いが妙に甘く独特なものだった。一緒にいた母親がその色を「チョコレート」と表現していたのを、僕は微妙に覚えていた。あんな甘ったるいものを人間の男達は有難がっているのだろうか。この作品の作者も好きなようだが、僕にはなぜ好きなのか全く理解できなかった。

 櫻子は僕の真下のベンチで、しばらく考え事をしているようだった。いつもならば市内あちこちの公園を点検して回るため、僕たちの診察が終わったらすぐ出かけてしまうのに、今日はどうしたのだろう。


「ねえ、ちょっとだけ聞いてくれるかな」


 櫻子は両手を組み、目線を僕に向けながら語り掛けてきた。


「私ね、大学生の時にすごく好きな人がいたんだ。同じ研究室の先輩で、福岡出身の人なんだけどね」


 いきなり何を言い出すかと思えば、昔の恋人の話なのか。そんなことをどうして僕に話してくるのだろうか。同じ職場の同僚とか、友達とか、聞いてくれる人はいくらでもいると思うのに、なぜケヤキの僕に?


柳田やなぎたさんって人でね、研究室では明るくてムードメーカーで、みんなからはギータ先輩って呼ばれてたの。「俺はいつでもフルスイング」が口癖ですごく情熱的な性格だったけど、ちょっと下ネタも多くて、女子からの人気はいまいちだったんだよね。そんなギータ先輩に、私は心から惚れ込んだの」


 空に徐々に白い曇が広がり、時折強い北風が吹きつけてきた。白い粉雪が、ひらひらと風に乗って公園の中で舞い始めた。櫻子の髪にも白い雪がたくさん付着し始めたが、櫻子は気にすることなく話を続けた。


「……あの頃、校舎から校門に続くプロムナードに、あなたのような幹が太くてひときわ大きなケヤキの木が植えてあったの。秋も深まり、ケヤキの木からは風に乗って次々と落ち葉が舞い始めていてね。夕暮れ時、私は研究室での作業を終えて一人でプロムナードを通って帰る所だったんだけど、突然切ないフルートの音色が耳に入ってきたんだ」


 櫻子は口元に自分の手を押し当てながら、口笛を吹き始めた。


「そのフルートを吹いていたのが、ギータ先輩だった。その姿は、いつもギャグばっかり言ってるお調子者のギータ先輩ではなかった。夕暮れ時、落ち葉が舞う中の演奏だったから、ひときわカッコよくて……ここで言うのも恥ずかしいけど、一目ぼれしちゃったの」


 雪は容赦なく櫻子の身体めがけて吹き付けてきたが、櫻子はなおも話を続けた。


「私、ギータ先輩に声を掛けたら、照れくさそうな声で『まずい所見られちゃったな』って言って、その時の顔がまた可愛くてね。ギータ先輩、中学生の時から吹奏楽部でフルートやっていて、大学入っても趣味でたまに一人で吹いていたんだって。でも、研究室のみんなに見られるのはすごく照れ臭かったから、夜中にこっそり吹いていたんだって」


 苗木達は櫻子の話に前のめりになって聞き入っていた。特にキキ、ナナやミルクは話の内容に興味深々の様子だった。


『櫻子先生の好きな人、カッコよさそう。会ってみたいかも』

『話聞く限りだと、すごく良い男に違いないよね』


「私、それ以来わざと遅い時間に研究室を出ては、ギータ先輩のフルートを聞いてから家に帰っていたの。先輩の演奏する姿、本当に絵になるし、演奏もすごく泣けるし、カッコいいし……私、日に日に先輩のことを好きになっていった。その時ちょうどバレンタインが目前に迫っていてね。よし、これは千載一遇のチャンスだ。手作りのチョコレートを持って、自分の気持ちを先輩に伝えよう! って心に決めたんだ」


『ふむふむ』


苗木達は一斉に声を上げた。彼らはすっかり櫻子の話に興味深々の様子だった。


「バレンタイン当日、ギータ先輩がいつものようにケヤキの下でフルートの演奏をしていたの。私はドギマギしながらも自分の気持ちを伝えようとした。私はギータ先輩にチョコレートを手渡そうとした。そしたら……」


『そしたら?』


 苗木達が再び一斉に声を上げた。


「彼は首を横に振ったの。理由を聞いたけど、何も答えてくれなかった。『とにかく俺はこれ以上、櫻子とは付き合えないから』ってだけ言われて……」


『ええ、どうして? お互いに好きなんじゃなかったの?』


 ミルクが大声を上げて驚き、ナナはショックのあまり泣き出してしまった。


「あとで友達に聞いて分かったんだけど、ギータ先輩、福岡に彼女がいたんだって。その時ずっと音信不通で、このまま別れようって思っていた矢先にちょうど私に出逢い、付き合ってみようと思ったみたい。先輩はその後、福岡にUターンして、地元の造園会社に樹木医として就職したんだ。私には『ホークスと肉うどんが恋しいから』って言ってたけど、そんなの絶対ウソだと思った。私、卒業後大学院に入ったんだけど、『ギータが結婚したんだって』って先生から式の招待状を見せられてさ。ああ、やっぱりな……って思った。あの時はしばらくショックのあまり眠れなかったわよ」


 櫻子はそう言うとハンカチで目元を拭った。しかし、すぐに気を取り直したようで、「やだ。私、どうして泣いてるんだろ」と言うと、慌てて地面に置いていた道具の入ったカバンを手にした。


「もうこれ以上話すのやめるわね。あの時のことを思い出すと、また眠れなくなるから。ごめんね、私の下らない昔話につきあってくれてありがとう」


 櫻子は僕の方を見て片手を振ると、「あなたの所に、フルートの上手くてトークの面白いイケメンが来ないかな。もしそういう人が来たら、私に教えてね」と言って、駆け足で僕の元を去っていった。


『櫻子先生にもそんな乙女な経験があったんだ。勉強一筋の人だと思ってた』

『先生、好みの条件が厳しいわね。あれではいつまでも彼氏も結婚もできないわよ。もっと現実を見ないと』

『でもさ、会ってみたいよね。ギータ先輩に。きっとすっごくカッコいいんだろうな』


 苗木達からは様々な感想が出ていたが、僕も櫻子の意外な一面を見ることができて、櫻子への印象がちょっと変わった気がした。

 僕の真下に、ギータ先輩のような男性が現れる日はやってくるのだろうか。

 いつになるかは分からないけれど、その時が来たら、真っ先に櫻子に教えてあげたい。

 『先生! ついに運命の人がやってきましたよ!』って、櫻子に聞こえるように、ありったけの声を上げて。

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