第152話 秘密のデート

 まだ夜が明けぬ頃、真冬の凍てつくような気温にも関わらず、マンションの住民や散歩中の老夫婦たちが厚着をしながら続々と公園に集まってきた。彼らは僕たちケヤキの前に立ち、何かをじっと待っている様子だった。


『何だろう、こんな朝早くからこんなに人が集まって』

『僕たちだって凍え死にそうなくらいなのに、人間達は平気なのかな』

『きっと誰か有名人でも来るんじゃないの』

『まさか、こんな暗闇の中、しかもこんな寒い中、わざわざこの場所に来る物好きがいるのかよ』


 苗木達は相変わらず下世話な噂話をしていた。でも、夜が明けないうちからこれだけ人間が集まるのは不可解である。彼らは誰かを待っているのだろうか、それとも……。

 やがて漆黒の暗闇を切り裂くように、東の方向から、まぶしい光を放ちながら太陽が顔を出した。太陽はじわじわと昇り、やがて公園全体をまばゆい光で包み込んだ。

 すると、公園中に集まった人達が突然両手を合わせ、何か独り言らしきことを言いながら昇り続ける太陽の姿を目で追っていた。


『やだ、どうしたのみんな。突然神妙な顔でブツブツ独り言なんか言っちゃって』

『怖いよね。しかもみんな太陽に向かって独り言つぶやいてるから、傍目から見てすごく不気味だよ』


 苗木達は思ったままのことを色々好き勝手に言っているが、僕には彼らの行動には何かの理由があるように見えた。太陽に向かって何か語り掛けるという行為が、彼らにとって何か利益でもあるのかもしれない。

 その時僕は、公園に並ぶ人達の中に、剛介の母親の姿を見かけた。最近は以前よりも顔のやつれがなくなり、心なしか穏やかなように感じた。あいなの尽力のお蔭で、借金の問題が前進しているからかもしれない。


「あ、黒沢さん、あけましておめでとうございます」


 剛介の母親の目の前に、あいなの両親の姿があった。二人は揃って高級そうなコートを着込み、白い息を吐きながら笑顔で母親に語り掛けていた。


「お一人ですか? 剛介君、今年の正月は帰ってこないんですね」

「そうです。本人から連絡がありましてね、慰謝料のお金を稼ぐために仕事も増やしてるみたいで、年末年始の休みを返上して昨日もギリギリまで仕事してたって言ってました」

「そうですか……大みそかまで仕事とは。気持ちは分かるけど、無理はしないでほしいですよね」

「あいなちゃんはどうしたんですか?」

「あれ? 剛介君から聞いてないですか? あいなは北海道に行ってるんですよ。今日の午後には帰ってくるようですが」

「そ、そうなんですか?」

「今回は仕事の一環で剛介君に会いに行ったんですよ。まあ、仕事は半分で、後の残りは彼に会って、積もり積もった話をしたいからなんでしょうけどね」


 あいなの父親である弁護士はそう言うと、大声で笑い出した。


「けど、剛介が言うには、野々花さんは何かにつけて剛介を監視していると聞きましたけど。そんなに簡単にあいなちゃんに会う時間が取れるのかしら」

「いや、会ってきたみたいですよ。これ、昨日送ってきた写真ですよ」


 弁護士はスマートフォンをポケットから取り出すと、剛介の母親にそっと画面を見せた。


「わあ、本当なんですね。でも、こんなに切羽詰まってる状況なのに、二人並んでピースサインしているなんて、呑気ね」

「そうですね、最初は何て呑気なんだと思いましたけど、写真に写ってるあいなの顔ははち切れんばかりの笑顔でね。剛介君に会えて本当に嬉しかったという気持ちが、こちらにすごく伝わってきましたね」


 僕の所から写真は見えないが、苗木達の所からは見えるらしく、ナナやミルクが「あいなちゃんの笑顔、かわいい!」という声を上げていた。


「じゃあ私はこれで。今日も仕事なんですよ」

「ええ? 今日ぐらいはせめてゆっくりすればいいんじゃないですか?」

「いえいえ、少しでも稼いで早く借金を返したいですから」

「ごめんなさいね。本当は借金そのものを無くせばいいんですが、こればかりは……」

「いいんですよ。安易に借金する道を選んだ私が悪いんですよ。それよりも、あいなちゃんのお蔭で返済額も減ったし、本当に感謝しています。今日帰ってきたら、よろしくお伝えくださいね」


 剛介の母親は軽く頭を下げると、太陽の光を背に受けながらマンションへと帰っていった。


「黒沢さん、大変よね……もう少し何とかできないの?」

「いや、これ以上は無理だ」

「だって、黒沢さんは何も悪くないでしょ? 剛介君の奥さんとその家族が仕組んだことなんでしょ?」

「でも、剛介君は今の奥さんとの結婚を自分で選択した。そして、『別れたい』と言い出したのも剛介君だ。奥さんにそのことを指摘されたら、彼は何も言い返せないだろう」

「……」


 弁護士はポケットに手を突っ込んだまま、奥さんを公園に残して一人でマンションへと歩き去っていった。奥さんはうつむき加減の姿勢で、元気のない顔で弁護士の後を追うように公園の外へと向かって歩きだした。


 日が高くなるにつれ、公園の中を多くの家族や若者のグループが通り過ぎて行った。

 彼らは大きな羽の付いた長い枝や、何やら難しそうな文字が書いてある板を持っていた。中には、しっかりとした色鮮やかな着物を召した若い女性の姿もあった。今朝は大勢の人が昇る太陽に手を合わせたし、きっと今日は人間達にとって神聖でおめでたい日なんだろう。

 太陽が徐々に西に傾き始めた頃、公園の向こう側から大きなキャリーケースを引いたあいなの姿が目に入ってきた。そういえばあいなはクリスマスに合わせて、剛介の居る北海道へと旅立っていった。あちらでは、剛介と顔を合わせたのだろうか。野々花に邪魔されたりしなかったんだろうか……?

 やがて公園にあいなの父親である弁護士が姿を見せた。あいなは弁護士の姿を見ると、はちきれんばかりの笑顔で両方の手を振っていた。


「おかえり、あいな」

「ごめん、ちょっと予定より遅くなっちゃった。せめて正月までにはこっちに戻ろうと思ったけど、何だかんだで年越しちゃったよ」

「いいんだよ。それよりも、剛介君はどうだった?」

「剛介君、色々大変だったよ。特にお金のことで悩んでたみたいで、仕事の収入じゃ足りずに、あっちこっちから工面しようとしていたみたい」

「借金とか?」

「そうね。だからまずは債務を整理しようと思って、貸主とも交渉してきたの。少しは債務が軽くなったかな」

「すごいな、わざわざ貸主に会って交渉してきたんだね」

「あ、そうそう、野々花さんにも会ってきたよ。慰謝料の件、もう少し何とかならないかって直接話した方がいいかな、と思って」

「どうだった? 一筋縄の相手じゃないだろ?」

「うん。すごかったよ」


 そういうと、あいなは苦笑いを浮かべた。


「野々花さんの両親も同席してね。あっちも後ろに弁護士がいて、いざとなったら訴える気満々みたいね。剛介君も私の隣にいたんだけど、彼、背中を丸めてうつむいたままだった。ちょっと頼りない感じだったかな」

「アハハハ、まあ、剛介君の気持ちも分かるけどね」

「野々花さん、剛介君がおとなしいのをいいことに、言いたいことをズケズケと言ってきたんだ。私の話もちゃんと聞かずに『あんたは人間じゃない』とか、『剛介君を裏でずっとたぶらかしてたんだろ』とか『ふしだら女』とか……」

「あいながふしだら? ふざけるのも大概にしろってんだ」

「話は結局平行線で終わっちゃってね、帰る時、私、身体中からフッと力が抜けて泣いちゃった。そしたらね、剛介君、家から私のこと追いかけてきてくれたの」


 あいなはそう言うと、鼻の辺りを何度も指でこすりながら、ちょっとだけ顔を赤らめた。


「彼、私のことをすごく心配してくれてね。泣いてる私を抱きしめてくれたんだ」

「野々花さんは追いかけてこなかったのかい?」

「追いかけてきても、僕が追い払ってやる、私のことを何がなんでも守りたいって言ってくれた。そして、次の日もう一度会合を段取るからって言ってくれたの」

「でも、結論は変わらなかったんだろ?」

「まあね。もうこれ以上話合ってもきりがないと思ったし、私、諦めてこの町へ帰ろうと思った。そしたら……」


 あいなは両手を空に向かって大きく伸ばして深呼吸ながら、靴音を立てて弁護士の周りをゆっくりと歩いていた。


「剛介君が、あと一日だけ待ってくれって。私に話があるって言ってくれた」

「……それって、これ以上あがいてもムダだから、別れようってことか?」

「違う、その逆だよ」


 弁護士は口をへの字に曲げて、あっけにとられた様子であいなを見つめていた。


「剛介君ね。昨日、野々花さんに仕事だってウソついて、私に会う時間を作ってくれたの」

「やるなあ、剛介君。というか、よく野々花さんを欺いたなあ」

「楽しかったなあ。デートしたの、いつ以来だったかな? 一緒に雪印パーラーのアイスクリーム食べたり、藻岩山の展望台に登ったり、美味しいスープカレーの店に連れてってくれたり。そして、最後に……」

「……最後に、何があった?」

「最後に彼、私をホテルまで送ってくれたの。部屋でしばらく一緒に過ごしてるうちにいい雰囲気になってね。そのままキスして、愛し合ったんだ」


 弁護士は「何だと!」と声をあげて驚き、慌てふためきながらあいなに駆け寄った。


「ほ、本当か? だって剛介君、野々花さんとは全く出来なかったって……」

「そうなの? 私とはちゃんと出来たよ。すごく気持ち良かったなあ……。彼、ベッドで私のことを好きだってはっきり言ってくれたんだ。私も、剛介君のことをますます好きになっちゃった」


 あいなはキャリーケースを手に取ると、髪をかき上げてまっすぐ弁護士の顔を見つめた。


「色々あって疲れたけど、すごく楽しかった。また剛介君に会いに行ってもいい?」

「い、いいけど……野々花さんに何されるか心配だからなあ」

「今の私は何も怖くないから、大丈夫よ。さ、お家に帰ろ。お母さん、お雑煮作って待ってるって言ってたし」

「あ、ああ……」


 弁護士は焦燥しきった様子で、あいなの後を追うように歩きだした。

 僕にはあいなの言葉の意味が十分理解できないでいたが、ずっと疎遠だったあいなと剛介の仲が、一歩ずつ前進しているのだけは何となく伝わってきた。まだ前途多難ではあるが、あいなの子どもの頃からの夢が、いよいよ前へ動き出そうとしているようだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る