第146話 我が子のために出来ること

 日中は暑いものの、朝晩になると気持ち良いひんやりとした空気に包まれるようになってきた。長い休みの時期が終わったようで、学校へ向かう子ども達の集団が僕たちの前を元気に通り過ぎて行った。

 子ども達がいない日中の公園は、人通りもまばらで恐ろしいほど静かになる。


『ようやく静かな季節になったよね。子ども達に蹴られたりボールぶつけられたりすることもなくなって、ホッとしたよ』

『蝉もいなくなったし、しばらくは落ち着けるよね。ふぁ~……これで落ち着いて昼寝できるよ』


 苗木達は口々に、静かな季節の到来を喜んでいた。

 空を舞うトンボの群れがちょっと目に障るけれど、蝉に比べたら大したことが無い。

 今日は昼間からゆっくり眠ろうかな……。


『あれ? あの人、剛介のお母さんかな。こんな時間から何でうろついてるんだろう』


 ヤットの声を聞き、僕は目を凝らした。そこには首を左右に振って周りに誰かいるのか確認しながら歩く剛介の母親の姿があった。

 大きな封筒を抱えながら、これからマンションへ帰るようだ。

 剛介の母親は僕の目の前で立ち止まると、額を拭いながら安堵した様子を見せていた。


「銀行はことごとくダメだったけど、消費者金融で何とか借りられて良かった。利子が高いから満額はムリだったけど……これだけお金があれば、剛介の幸せに少しだけ近づけるかな」


 そう言うと、剛介の母親は改めて左右に首を振り、誰も周りにいないことを念入りに確認してからマンションの玄関へ向かって走っていった。


『変だな。そもそもあの封筒……何が入ってるんだろ』

『余計な詮索はするなよ。これから剛介への手紙でも書くんだろ』

『手紙? それだけであんなでっかい封筒使うのかなあ』


封筒には一体何が入っているのか? 下世話ではあるが、気になって仕方がなかった。


それから、剛介の母親の様子が一変した。

朝早くから仕事に出かけ、次の日また疲れた様子で仕事に出かけていくのを何度も目撃した。


『そういえばさ。最近あの人、真夜中に帰ってくるんだよね。以前ならば昼間だけ仕事して日が暮れる前には帰ってきたのにね』


 ナナは得意げに口を開いた。

 ナナはマンションの入口に比較的近い場所に立っているので、誰が出入りしているのか他のケヤキ達よりも把握していた。


『それとね、たまーにだけど、仕事帰りに化粧が濃かった時があるのよね。剛介君のお母さんって、化粧っ気があまりない人なのに』

『それって、どういうこと?』

『おそらく……考えたくはないけど、新しいダンナさんを探しているのかな。それか、男の人を相手にしたお仕事でもしてるのかなあって』

『本当に? あの人、そんなにふしだらにはみえないけれど』


 それから一ヶ月が過ぎた日。日中誰もいない公園の目の前に、突然、黒塗りの大きな車が猛スピードでやってきた。見たこともないいかつい車体のその車はそのままマンションの入口付近で止まると、中からは身体の大きな男達が出てきた。

 彼らは髪を金色に染めたり、髭をたくわえたり、車体と同じような真っ黒のスーツをまとっていたり……と、僕の目から見ても分かる位ただならぬ雰囲気を漂わせていた。


「このマンションに住んでるみたいだね。こんないい所に住んでるならば、俺たちへの支払いが滞るわけないと思うんだけどなあ」

「そうですよね。さっそく滞納するなんて、いい度胸してますよね、ババアの癖に」


 そう言うと彼らは大声で笑いながら、ドアの向こうへと消えていった。


『怖い! 誰なの?あの人達』

『今まで見たこともない人たちだ。どこに行くつもりなんだろう』


 苗木達は声を震わせながら、ひそひそと噂話をしていた。

 しばらくすると、男達が再び玄関に姿を見せた。


「しけてるよな。これじゃ一ヶ月分の半分しか充当できないよ」

「本当に完済できるんですかね、あの黒沢っていうババアは。こんなはした金しか返せない癖に俺たちの所から金を借りるなんて、いい度胸してますよね。舐められないように、心を鬼にしないとだめかもしれませんね」

「ああ、場合によっちゃそうするかな。とにかく払ってもらわないことには、ね」


 男達はそういうと腹を抱えて大笑いし、そのまま黒塗りの車に乗りこむと、猛スピードで走り去っていった。


『黒沢って、剛介の苗字だろ? ということは、あのお母さんが? 』

『ウソ? あんな怖い人たちからお金を? 』


 しばらくすると、生気の抜けた顔をしながら、剛介の母親がマンションから出てきた。これから仕事に行くようだが、足取りが重く、やつれた顔をしているのが僕の目からも見て取れた。

 その時僕は、彼女が僕に見せてくれた手紙のことを思い出した。そう、「0」がたくさん並んでいるあの謎めいた手紙である。

 おそらくあの手紙には、剛介が野々花と離婚するために必要なお金が書いてあったのだろう。そのお金を支払うために、彼女はあの怖い人たちからお金を借りたのだろう。こないだ誰にも見られないように抱えていたあの封筒は、きっとお金を借りるための書類だったのかもしれない。


 その後も剛介の母親は、来る日も来る日も朝から晩まで仕事に出ていた。ある時は濃い化粧を施し、ある時は作業衣のまま疲れ切った様子で帰ってきていた。

 可愛い息子のためとはいえ、本当にこれでいいのだろうか。

 大体、剛介は一体何をしているのだろうか。今、自分の母親がこんな大変な思いをしながらお金を借り、その返済のため必死に稼いでいることを、何も知らないのだろうか。


 翌月、黒塗りの車が再びマンションの前に横付けされた。

 こないだと同じく、いかつい雰囲気の三人の男達が車外に降り立ち、ヘラヘラと薄笑いを浮かべながら続々とマンションに入り込んでいった。


『また来たよ、あいつら。剛介のお母さん、かわいそうだよ。誰も何とかしてあげられないのかよ……』

『ケビンさん、あいつらが来たら、「帰れ、これ以上いじめるのは止めろ」って叫んでくれる?』

『僕が? あいつらに? そんな怖いこと出来るかよ』

『それをやってこそ僕たちのリーダーだろ。期待してるよ、リーダー』


 毎度のことながら、苗木達は僕に無茶振りを仕掛けてくる。今回の相手はいつもより手強いのに……。けれど、今までのことを思い返すと、僕の声を聴きとれる人間は、みんな心にやましさが無い人間ばかりだった。あんな奴らに、僕の声なんか聞こえるわけがない……! そう思うと、心がフッと軽くなった。

 しばらくすると、三人の男達が再び姿を見せた。


『こ、これ以上、いじめるのは、やめたまえ! お母さんは息子さんのために、必死にがんばってるんだぞ! わかってるのか! この極道どもが! 』


 僕は息を切らしながら、男達に向かって必死に叫んだ。どうせ聞こえないんだ、何を言っても大丈夫だろうと思って、言いたいことを言ってしまおうと思った。

 すると三人のうち髭をたくわえた男が突然僕の方を見遣り、大股で歩きながら近づいてきた。


『え、ま、まさか!』

『今の叫びが聞こえたんだ? すごいやケビンさん。さすがは僕たちのリーダーだ! 』


 男は突如ズボンを下ろし、僕に向かって放尿を始めた。


『うわああああ! 』


 男が気持ちよさそうな顔で放尿する中、僕の根元から、次第に尿の臭いが立ちこめ始めた。


「はあ、気持ち良かったわ。あのババア、コーヒーばっかり飲ませやがって、おかげで尿が近くなっちまっただろうが。くそったれが」


 そう言うと、男は足を振り上げ、僕の幹に思い切りぶち当てた。


『グホッ』


 僕は強烈な蹴りを食らい、全身に痛みがほとばしった。


『あーあ……どうせ聞こえないと思って余計なこと言わなきゃ良かったのに、ドジだなあ、ケビンさん』


 僕の声が本当に奴らの耳に聞こえていたのかは知らないけれど、聞こえていたのであれば、仕返しを食らっても何も文句は言えなかった。


「おい、何やってんだ。次のお客さんの所にいこうぜ」

「そうだな。ところで黒沢のババアはどうする? このままズルズル滞納増やすのを放置していいのかよ」

「今、知り合いの弁護士に調べてもらってるんだ。これ以上滞納するようだったら、マンション代の債権を差し押さえようかと思ってね」

「で、ババアはマンション代払えず追放されて、野垂れ死にするってストーリーですか?」

「それだと俺たちは回収できなくなっちまうだろ? 『生かさず、殺さず』で行かないとな」

「なるほど、さすがですね。キャハハハハ」


 男達は再び黒い車に乗り込むと、猛スピードであっという間に遠くへと去って行ってしまった。


『怖い……あいつらの話を聞くうちに気分が悪くなりそう』

『何でよりによってあんな連中からお金を借りたんだ? ほかに方法は無かったのかよ』


 しばらくすると、剛介の母親がマンションから出てきた。かばんを抱えているので、おそらくこれから仕事なんだろう。しかし彼女はいつもと違い、公園の中へとふらつきながら入り込んで来た。僕の目の前に立つ剛介の母親は、髪が真っ白になり、顔中に深い皺ができていた。つい数か月前に会った時には、こんなに老け込んでいただろうか? あまりのやつれぶりに、僕は言葉を失った。

 剛介の母親は、そのままベンチに座りこんだ。

 強い北風に乗って、僕たちが付けていた葉が次々と舞い落ちる中、かばんを抱えたまま無言でベンチに座り続けていた。


「ねえ、ちょっとだけ聞いてくれるかしら」


 剛介の母親は突如僕の方を振り向き、切実そうな表情でじっと見つめていた。


「剛介の奥さんへの慰謝料……全額じゃないけれど、消費者金融に借金して払ったの。今、返済のために昼も夜も一生懸命働いてるんだけど……なかなか現実は厳しくてね。おまけに延滞金まで付けられてさ。ねえ、私、これから一体、どうしたら……」


剛介の母親の言葉はそこで途絶えた。次の瞬間、その身体がまるで振り子のように左右に揺れ、そのままベンチに覆いかぶさるように倒れてしまった。

その後、ずっとベンチに体を伏せたまま、再び起き上がることが無かった。


『え? ひょっとして、倒れちゃった?』

『ピクリとも動かないし……これって、やばいんじゃないか?』


苗木達がにわかにざわつきはじめた。

倒れた身体からは、声も、呼吸の音も聞こえてこない。

平日の昼間、人通りは少なく、僕たち以外に剛介の母親の姿に気づいている人はいないようだ。

このまま放置していては、剛介の母親の命が危ない。僕たちは一体、どうすればいいんだ……!?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る