第144話 おかえりなさい

 太陽がギラギラと輝く季節がやってきた。

 朝から蝉たちが僕たちの幹に止まり、鼓膜が破れそうな声で鳴き続けていた。毎年のことではあるけれど、あまりにも激しい声で鳴くので全身が痺れるような感覚になる。ましてや僕たちは最近本気で剣道の練習を始めた樹里の練習台で全身が痣だらけであり、蝉の鳴き声を聞くと余計に身体が疼くような感じがした。


 僕たちケヤキは自分で蝉を追い払えないので、彼らが自ら飛び去って行くのを黙って待つしかなかった。


『いつまでここにいるんだ。早くどっかに行っておくれよ』

『ケビンさん、何か方法ないかしら。もうこれ以上我慢できないわよ』


 苗木達はまたしても僕に難行を押し付けようとしてきた。僕にそれが出来るのであれば、今頃こんなに辛い思いをしていないのだが。


 今日は公園にいつもよりも多くの子ども達の姿があった。みんな髪の毛が濡れているので、どこかで水遊びでもして帰ってきたところなのだろう。人間達は、暑くなったら水浴びが出来る場所に行けるから羨ましい。


「ねえねえ、あそこの木にいっぱい蝉がいるよ」

「こっちの木にもいるぞ。こーんなにでっかい奴」


 子ども達は、けたたましく鳴き続ける蝉を見つけ、興味深そうにじっと見つめていた。


「俺、これから家に帰って網を持ってくるよ。早速つかまえようぜ」

「じゃあ、僕は家から虫かごでも持ってこようかな」


 何人かの男の子達が駆け足でマンションへと向かっていった。どうやら彼らは蝉達を捕まえるつもりなのだろう。これは僕たちにとっては願っても無いことである。蝉達がいなくなることで、やっとあの煩い鳴き声から解放されるのだから。


「持って来たぜ。さっそく捕まえようよ」


 一人の男の子が、勇ましそうに大きな網を振り上げると、僕の真下で息をひそめてじっと立ち続けていた。蝉は男の子に気づかないようで、相も変わらず僕の全身が震えるほどの激しい声をあげて鳴いていた。


「今だっ!」


 男の子が網を僕の幹に覆いかぶせた。すると蝉は、羽をばたつかせてジイジイジイと

 もがくような声をあげて暴れ始めた。


「よし、そのままそーっと網を下げるんだぞ」


 もう一人の男の子が、虫かごの蓋を開けて蝉がやってくるのを今か今かと待ち続けていた。

 男の子は網を虫かごに近づけると、手で蝉を掴み、そっと虫かごの中に入れた。すると、男の子達は叫び声をあげて歓喜していた。


「上手いなあ、匠吾しょうご。お前やっぱり虫捕りの名人だよ」


 蝉はジージーと声をあげて羽をバタつかせ、暴れていた。しかし男の子達は、蝉の入ったかごを仲間同士で次から次へと回していた。そのうち一人が、いつまでも虫かごを手放さず、名残惜しそうな顔でじっと見つめていた。


「ねえ匠吾……この虫かご、僕が持ってきたんだよね。蝉が入ったまま、僕が持って帰っていいかな」

「ダメだよ。俺が頑張って捕ったんだから、俺のだって」

「いいだろ? 今度お前が好きなハリボーをあげるからさ。な? いいだろ?」

「ダメだって」

「じゃあ、力ずくでもらっていくからな!」


 いつの間にか、男の子同士で虫かごの奪い合いが始まっていた。周りに男の子達が集結し、二人を仲裁しようとする子がいると思えば、「やっちまえ!」と声を上げて争いをヒートアップさせようとしている子もいた。


「いいだろ一匹くらい。匠吾は捕るのが上手いんだから、違う奴を捕まえて来ればいいだろ」

「ダメだよ誠也せいや、俺だって必死の思いで捕ったんだから、お前になんか……あっ!」


 二人の手から虫かごが滑り落ち、地面に落ちたその衝撃で、かごの蓋が開いてしまった。

 蝉はジジジジと声を上げて、真っ青な夏空へと旅立っていった。


「ああああ……どうしてくれるんだ、誠也。俺が、俺が、必死に捕った蝉を!」

「知るかよ。最初から僕にくれたら、こんなことにならなかったんだよ」

「ふざけんじゃねえぞ!」


 匠吾は、誠也を両手で突き飛ばした。地面に倒された誠也は、服に付いた砂を払うと、立ち上がり、匠吾の胸倉をつかんだ。


「やったな、この野郎! 」


 二人は掴み合いのけんかを始めてしまった。僕たちはやっと蝉の声から解放されたけど、今度は蝉をめぐって子ども達の醜い争いが始まってしまった。


「やめなさい、ケンカするのは」


 甲高い女性の声が、僕の真後ろから聞こえてきた。


『わあ、あいなちゃんだ! 』


 ミルクが声の主の姿を見て、歓声を上げた。僕はそっと目を後ろに向けると、そこには紺色のワンピース姿の、大きなキャリアケースを手にしたあいなが立っていた。しばらくぶりにその姿を見たが、髪にゆるくパーマをかけ、花柄のふんわりしたスカートを着込み、かかとの高い靴を履いているあいなは、大人びた凛とした雰囲気が漂っていた。


『かわいい、というか、カッコイイ! あいなちゃん、立派になったね』

『子どもの頃はとてもかわいらしかったけど、大人のあいなちゃんも素敵だよね』


 ナナとミルクはあいなを見ながら興奮気味に話していた。

 あいなは靴音を響かせながら子ども達に近づくと、膝を両手で抱えてしゃがみこみ、子ども達と目を合わせながら話し出した。


「どうしたの。私で良かったら話してくれるかしら」

「こいつが俺の捕った蝉をよこせっていうから」

「違うよ、いつまでも僕によこさないからいけないんだろ」


 匠吾と誠也はあいなの目の前で睨み合っていた。あいなはため息を付くと、片手を振って男の子達を周りに集めた。


「みんな見てたんでしょ? だれが悪いかだけじゃなく、どうしたら良くなるか。みんなで話し合って解決しようよ」

「話し合い? 違いますよ。こいつが悪いんですよ」

「違うよ、お前だろ」

「ほらほら、もういがみ合うのはやめて、みんなと肩を並べてちゃんとお話しましょ。私も一緒に入るからね」


 あいなは二人の肩に手を回すと、他の男の子達が待つ場所へと引き連れて行った。やがて男の子達は円を描くかのように並び、あいなもその中に交じって一緒に話をしていた。

 最初は相変わらず匠吾と誠也が言い争っていたが、あいなは二人の意見を聞き取ると、顎に手を載せながら口を開いた。


「そうなんだ……誠也君はどうしても蝉が欲しかったんだね。その気持ちはすごくわかるよ。でも、蝉が欲しいのは他のみんなだって一緒でしょ? 」

「僕だって欲しかったよ。でも、そんなことしたら匠吾に悪いし」

「誠也君がいなかったら、僕が匠吾君に蝉をよこせっていったかもしれません」


 やがて他の子達も意見を言い始め、言い争いから話し合いの場へと徐々に雰囲気が変わっていくのが見て取れた。


「みんなの意見、ありがとう。こういう時はちゃんと話し合って、どうしたらいいか決めるんだよ。欲しいっていう気持ちはみんな一緒なんだからさ。もし蝉をゆずってもらいたいならば、自分の気持ちだけじゃなく、がんばって蝉を捕まえた匠吾君の気持ちをちゃんとわかってあげないと、匠吾君が怒るのも当然だよ」


 あいなは子ども達の顔を見回しながらゆっくりとした口調で話すと、子どもたちはうなだれながらその場を離れた。


「ごめんな、匠吾」

「いいよ。別に」


 申し訳なさそうに話す誠也に対し、匠吾は苦笑いしながら虫捕り用の網を手にマンションへと帰っていった。

 やがて子ども達は散り散りになって公園から去っていったが、誠也は一人公園に残っていた。そして、キャリアケースを手にしたあいなの所に来ると、弱々しい声で「ごめんなさい」と言って、深々と頭を下げた。


「いいのよ、気にしないで。これからもみんなと仲良く遊んでね」


 あいなは微笑みながら誠也の頭を優しく撫でていた。誠也は照れくさそうな表情を見せると、仲間たちを追ってマンションの方向へと走り去っていった。


『あいなちゃん、さすがだね……』

『あいなちゃんでなかったら、あそこまで出来なかったよね。シュウさんとか樹里ちゃんだったら、余計火に油を注いだだろうな』


 苗木達が羨望の眼差しであいなを見ていたが、あいなは飄々とした様子でキャリアケースを引いて、自宅のあるマンションへと歩いていった。

 マンションの前には、あいなの父親である弁護士と、母親らしき女性が立っていた。


「おかえりなさい、あいな」

「ただいま。お父さん、お母さん」


 あいなは額に片手を付けて、明るく弾むような声で両親に到着を告げた。


「ごめんなさい。自分のワガママのために、中学校からずーっとお家を離れていたから、二人には寂しい思いをさせたよね 」

「バカなことを言うな。今日という日のためには、仕方のないことだったんだ。そう思えば、待つことなんて辛くも寂しくもなかったよ」

「そうよ。この町で、この場所で弁護士の事務所を持つのがあいなの夢だったんだもん。その夢が叶ったから、私たちも嬉しいわよ」

「ありがとう」


 あいなは笑顔を見せながらも、片手で目の辺りを拭っていた。


「何泣いてるんだ。夢が叶ったんだぞ。こんなに嬉しいことは無いだろ」

「そうよ。さ、部屋に戻ったらみんなでお祝いしましょ。美味しい料理とお酒を用意したからね」


 両親に肩を抱きかかえられると、あいなは感極まって泣き出してしまった。


『あいなちゃん、良かったね、夢が叶って』

『そうかな?』


 ケンは、いまいち納得のいかない様子であいなの背中を見つめていた。


『どういうことなの、ケン』

『いや、これで本当にあいなちゃんの夢が全て叶ったのかなって』


 確かに、あいなにはもう一つの夢があった。ただ、それはおそらく彼女が目指していた弁護士の資格よりも、とてつもなく高いハードルかもしれないが……。


「ところであいな、剛介君のことは、もういいのか? 」


弁護士はあいなに問いかけたが、あいなは無言のままだった。


「彼は一人で北海道に行ったけれど、大丈夫かどうか心配でね。満足のいく結果が得られるかどうかは、まだわからないんだ。相手も相当手強いからな」

「いいのよ。どんな結果であっても」


 あいなは片手で涙を拭き取ると、顔を上げて白い歯を見せた。


「私、剛介君がこっちに帰ってきた時には、『お帰りなさい』って声を掛けてあげようと思う。お父さんやお母さんが私に掛けてくれたようにね」

「あいな……」

「さ、美味しい料理とお酒があるんでしょ? お腹すいちゃったから、早く食べようよ」


 あいなは両親を手招きし、キャリアケースを引きながらマンションの中へ入っていった。


『あいなちゃん、健気だなあ』

『でも、本心では全ての夢が叶って欲しいと思ってるかもな。あいなちゃん、一途な性格だから、あきらめてはいないと思うけどね』


 あいなの顔は喜びに満ちあふれていたが、その横顔はまだどこか寂しそうに感じた。

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