第141話 三つの大事なもの

 今日は朝から雨が止むことなく降り続いていた。

 公園のあちこちには水溜りができており、学校に通う子ども達が躊躇することなく水溜りの上を歩き去っていくたびに僕たちの身体に雨水がかかり、全身がずぶ濡れになってしまった。水溜りを避けてくれればいいのに、わざとそういう所を通るから癪にさわる。

 誰か、彼らをやめさせることが出来ないのだろうか。

 辺りを見渡すと、遠くから傘を差した人がコツコツと靴音を響かせながら僕たちの方へ近づいてきていた。一体誰だろうと目を凝らしてみると、若い女性で、首の辺りまでの髪を揺らしながら、睨みつけるかのような鋭い視線でまっすぐ僕の方を見つめていた。片手には大きなキャリーケースを抱えていた。

 子ども達は女性の視線に気づいたようで、突如足を止めて、次第に女性が近づいてくると慌てて公園の両脇へと逃げて行った。


「おい……あのお姉さん、目が怖くねえか」

「シッ、聞こえたらヤバいだろ」


 子ども達のささやき声が聞こえてきた。すると、女性は声のする方向を向き、鬼のような形相で睨みつけた。


「こ、怖いっ! マジで殺されるかもしれないぞ」

「逃げようぜ! やばいよマジで」


 子ども達は雨の中を一目散に走り去っていった。

 女性はフンと鼻息を鳴らすと、靴音を鳴らしながら僕の目の前にやってきた。

 ベンチの前に立ち、辺りをぐるりと見まわし、キングの方を向いた時に突然頭の動きが止まった。

 そこには、傘をさしながら一人立ち尽くす剛介の姿があった。


「こんにちは。わざわざここまで来てくれてありがとう、野々花」

「こっちに帰ってきてたのね。どうして最初からちゃんと言ってくれなかったのよ」

「ごめんよ。そのことについてはちゃんと謝るよ」

「謝らなくていいわよ。まあ、慣れない新婚生活ですごく疲れてたのかもね。それよりも、ちゃんと会って話したいことがあるっていうから、わざわざこっちに来たんだけど、一体何のこと? 」


 野々花は腰に手を当て、顔をしかめながら剛介に語り掛けた。


「僕は君と結婚したにも関わらず、いざ子作りをする時になると何もできず終わってしまうのはどうしてなんだろうって、色々自分なりに考えたんだ。そして僕は、その理由をやっと分かったんだ」


 剛介はそう言うと、白い歯を見せて小さく微笑んだ。


「その理由は、この町にあったんだよ。この町には、僕にとってかけがえのない大事な物が三つあるんだ」


 剛介は傘を差しながら、辺りをぐるりと見渡した。


「一つ目はこの公園。いじめられっ子に嫌がらせされたり、剣道の練習をしたり、そしてキングと出会ったのもこの公園さ」


 剛介は次第に視線を下げると、元気なくうなだれているキングの方に目を向けた。


「二つ目はキングだよ。周りに立つケヤキ達と違って小さくて頼りなくて元気が無くて、僕自身を見てるみたいだった。いじめられた時にはここで思い切り泣いたり、何か良いことがあった時は真っ先に報告してね。一人っ子の僕にとってはかけがえの無い友達だし、兄弟だった」


 そう言うと、剛介の視線は次第に公園から離れ、真上にそびえるマンションへと向かっていった。


「最後の一つは……」

「あ、ちょっと待ってくれる?」


 野々花は片手を出して剛介を制した後、傘を閉じ、キャリーケースをベンチに立てかけた。やがて野々花は傘を手にしてキングの前に立つと、鬼のような形相で睨みつけ、そのままキングの身体に思い切り叩きつけた。


「な、何をするんだ! キングは何も悪くないじゃないか」

「単に邪魔者を消し去りたいだけよ。私と剛介の邪魔をする者をね」

「どうして邪魔者なんだよ」

「この木のせいで、あんたの気持ちが私に向かないというならば、消し去ってやりたいんだ。あんたの気持ちが再び私に戻ってくるようにね」

「バ、バカなことをいうんじゃない!」


『い、痛い……痛いよう』


 キングの悲痛な声が聞こえてきた。しかし野々花は容赦せず傘で何度もキングを叩き、さらに先の尖った靴で根元を何度も蹴りだした。


『何だよあの女、頭おかしいんじゃねえか。キングをあんなに袋叩きにして』

『それよりも、どうして剛介は野々花を止めないのかしら? あのままだとキングの体はボロボロになっちゃうよ! 』

『ちくしょう……俺たちケヤキじゃ何もできないのかよ。ねえケビンさん、僕たちのリーダーだろ? 何とかしてキングを助けてよ!』


 いつものことながら、苗木達は突然僕に重要な役割を振ってきた。

 今までの僕は苗木達の期待に何も応えられず、そのたびにがっかりさせ、呆れられていた。でも、何もできず歯がゆい思いをするのはもうこりごりだ。僕は自分に出来る精一杯のことをしようと、全身に力を込めると、吐き出すかのように思い切り叫び散らした。この公園全体にくまなく響き渡る位の声で。


『剛介! 僕の声が聞こえるか? 今すぐキングを助けてあげてよ! 』


 苗木達は僕を振り返った。いつもは出さないような大きな声に一様に驚き、目をきょとんとさせていた。


『ケビンさん……俺たちの声なんて人間に届くわけがねえよ。こないだだって全然届いてなかっただろ。ちょっとは学習しろよ』


 ケンは呆れた様子で僕に忠告してきた。

 僕はため息をついて、肩を落とした。ケンの言うことは最もだけど、これが今の僕にできる精一杯の方法だった。あとは僕の声が、剛介に届いていればいいけれど……野々花は剛介の言葉に応じず、ヒステリックな声をあげながら何度もキングの身体を蹴りつけていた。これ以上やられたら、か弱いキングの身体はへし折られてしまう。


「やめろっ!」


 剛介は、野々花の身体を後ろから両手で縛り付けていた。

 野々花の握っていた傘は音を立てて地面に落ちた。

 僕の全身全霊をこめた叫びは、剛介の耳にしっかり届いていたのかもしれない。


「離してよ! この木が憎たらしくて仕方が無いのよ」

「ダメだ! お前がこの木に手を出し続ける以上は、絶対に離さない! 」

「さっきも言ったでしょ? 私の邪魔をする奴らは全て消し去ってやりたいのよ! 」

「ならば、この木ではなく僕のことを消し去ってくれよ。悪いのはこの木じゃなく、僕だろう!?」


 野々花は後ろを振り返り、剛介の顔を見つめた。剛介の目は真剣だった。

やがて野々花は、必死にばたつかせていた手足の動きを止め、うなだれたままその場に立ち尽くした。

 剛介は野々花を押さえつけていた両手を離すと、雨と汗にまみれた額の汗を拭った。


 その後、キングの元に駆け寄り、幹や枝をそっと優しく撫でた。


「ああ、こんなに傷が付いちゃったね。裂け目も少しついてるから、早く手当てしないとね」


 野々花が傘で叩いたり、蹴り飛ばした部分には、白い裂け目が出来ていた。見た目があまりにも痛々しく、僕は思わず目を逸らしたくなった。剛介はしばらく撫でた後、ハンカチをポケットから取り出すと、キングの裂け目の部分に丁寧に巻き付けた。キングを懸命にいたわろうとする剛介の姿を、野々花は真上から腕組みしながら覗いていた。自分に目を向けてくれないことに次第に苛ついて来たのか、体を揺すりながら先の尖った靴で何度も地面を叩いていた。


「バカみたい……というか、バカだろ、あんたは」


 野々花の言葉には、聞くに堪えないほど棘があった。そしてその声には、さっき一緒に帰ろうと誘っていた時とは比べ物にならないほどの苛つきを感じた。

 しかし剛介はしゃがみこんだまま真上にいる野々花に顔を向けると、毅然とした様子でその目をじっと見つめていた。


「まあね。バカだよ、僕は。でもね、この木を守るためなら、僕はいくらでもバカだと言われても構わないよ」

「な、なんですって……⁉ 」


 野々花は剛介の言葉に動揺していたが、大きく咳ばらいをすると、人差し指を剛介に向けながら激しい口調で言い返した。


「おかしいよ、絶対! どうして守りたいのかなあ? こんな今にもしおれそうなこの木を。私には全然理解できない! 札幌のポプラ並木の方が、この木よりずっとカッコいいし守りたいって思うのに」


 すると剛介は立ち上がり、大きなため息をつくと、野々花とすれ違いざまに口を開いた。


「そうか……それは残念だ。でも、あいなちゃんだったら、僕の行動を理解してくれるよ。そして、僕の気持ちもね」

「あいなって……あんたの元彼女のこと?」

「そうだよ」


剛介がそう言うと、おだやかな表情で野々花に微笑みかけた。


「僕は今日、自分の気持ちを全て隠すことなく打ち明けたつもりだ。出来ることなら、僕の気持ちを理解して、受け入れてほしかった。そしたら僕は、もう一度君とやり直そうって考え直したかもしれない。でも、結果はその逆だった。残念だけど……僕たち、もうこれ以上は分かり合えないようだね」


 野々花は全身を震わせ、ベンチに立てかけたキャリーバッグを手にすると、剛介の背中に向かって叫んだ。


「勝手にしたらいいじゃん!」


 剛介は何も言わず、野々花に背を向けながら軽くうなずいていた。


「ただし、あんたが私と別れるつもりなら、こっちにも考えがある。自分の気持ちばっかり優先して、私の気持ちは無視なの? 私はあんたとの子どもが欲しくて仕方がなかった。あんたと一緒に、温かくて楽しい家庭を築きたかった。その気持ちをあっさりと握りつぶされて、悔しくて、やりきれなくて……。この気持ちをあんたに分かってもらえるまで、あらゆる手段にでるつもりだから、覚悟してちょうだい! 」


 それだけ言うと、野々花は剛介に背を向け、キャリーバッグを手に、靴音を立てながら雨の中を駆け出していった

 剛介は野々花の背中を見届けると、顔に手を当てながらため息をついていた。


「おつかれさま。どうだった? 」


野々花と入れ替わるかのように、剛介の背後から、あいなの父親である弁護士が現れた。すると剛介は、弁護士の前で照れ臭そうに頭を下げた。


「ここまで少しお膳立てしたつもりだけど、自分の気持ちはちゃんと伝えられたかい?」

「僕の気持ちは伝えました。でも……三つ目に大事なものを、うっかりして伝え忘れちゃいました」

「へえ。それって何なの? 」

「あいなちゃん……です」


剛介の言葉に弁護士は最初ちょっぴり驚いていたが、やがて頬を緩め、嬉しそうな顔で剛介の背中を何度もさすっていた。

剛介は胸の奥に支えていた思いに向き合い、妻の野々花に言葉として伝えることはできたけど、野々花はまだまだ剛介への思いを諦めていないようだ。一難去って、また一難という感じである。僕としては、家族が欲しいという野々花の気持ちもそれなりに理解できるが……。

まだまだ安心できない日々は続きそうだ。





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