第138話 父と子と
夜になり、公園のあちこちに立っている電灯がぼんやりとした薄明かりを放ち始めた。夏が近づき夜でも気温が高いせいか、今夜は割と多くの人達が園内を歩いていた。腕を組み仲睦まじく歩くカップル、ゆっくりとした速度で軽やかに音を立てながら走り抜けていく運動着姿の男性、犬を散歩して歩く若い女性。
そして、園内を行き交う人達の間をすりぬけながら、竹刀を片手に僕の方へやってくる少女の姿があった。
『あれ? あの子は樹里ちゃんだよね』
『ホントだ。今日は独りぼっちでここに来たね。シュウは一緒に来ないんだね』
樹里は僕の目の前で足を止めると、夜空に向かって竹刀を振り上げ、そのまま真下へと強く振り下ろした。
竹刀の動きに速さがあるせいか、振り下ろすたびに「ビュン」という強烈な音が発せられ、その音は僕にも鮮明に聞こえてきた。
このまま竹刀が僕の身体に命中したら、全身がしびれる位痛いだろうな……と、僕は戦々恐々としながら樹里の素振りをしばらく見続けていた。
やがて樹里は突然地面にしゃがみ込み、睨みつけるかのように僕を見つめていた。そのまま少し深呼吸すると、立ち上がり、竹刀を振り上げて勢いよく僕の目の前に下ろしてきた。
『わわっ、怖い! やられるっ! 』
僕は思わず身構えたが、竹刀が激しい音を立てて命中したにもかかわらず、それほど痛みを感じなかった。
『あれ? そんなに……痛くないや』
僕はあっけにとられたが、樹里は再びまっすぐ僕を見つめると、再び速度を上げて駆け寄り、僕の幹を目掛けて竹刀を振り下ろした。激しい音はするものの、叩かれた時に少し痛いだけで、あとは何も感じなかった。
樹里は気合十分に何度も竹刀を振り下ろしてきたが、身体の痛みはほとんど無かった。樹里の額には次第に汗がにじみ出てきていた。
「ダメだな、全然命中してねえだろ? 」
「お父さん? 」
樹里の背後から、シュウが姿を現した。
「さっき見に来ないでって言ったじゃん。早く帰ってよ」
「たまたま近くのコンビニに寄った帰りだよ。というか、音がする割には全然命中してねえぞ、樹里」
「してるって。ちゃんと当たってるでしょ? どこがダメだって言うのよ」
樹里は次第に口調が強くなっていった。しかしシュウは気にする様子も無く、ズボンから片手を出すと、樹里の持つ竹刀をあっさりと奪い取った。
「何するのよ! 」
「見本を見せてやる。目を開けてよーく見てろよ」
そう言うとシュウは僕の方を見て、不気味な笑みを浮かべた。無理して見本なんか見せなくたっていいのに。樹里はちゃんと練習してるから、シュウには手を出してほしくないんだけど……。
シュウは僕が恐れおののく間もなく、全速力で走り込み、竹刀を振り上げるや否や、まっすぐ僕の幹の真ん中に振り下ろした。
『ギャアアアアア! 』
衝突音とともに、激しい痛みが僕の全身をかけめぐった。
樹里の時に比べると音は若干鈍いけれど、かけめぐる痛みは桁違いに激しかった。
「どうだ? 見ていて違いが分かるか? 」
「竹刀の音はそれほどでもないけれど。気のせいか、その木から叫び声がしたような……」
まさか、僕の叫び声が聞こえてしまったのだろうか?
「樹里、竹刀は当てるだけじゃダメだ。 強さと当てる場所、そして気合だよ」
「……気合は入れてるけど? 」
「いや、まだまだだね。俺の親父だったら、今の樹里の練習を見たらきっと大目玉だよ」
「ふざけないでよ! おじいちゃんが何だって言うのよ? あの人にたぶらかされるような情けないおじいちゃんに怒られるお父さんもお父さんよ」
「はあ? 何言ってるんだお前」
樹里はシュウに背中を向けると、いきり立った様子で公園の外へと歩きだしていった。
「待てよ、樹里。おじいちゃんがたぶらかされた? 誰に? 」
「決まってるでしょ。おばあちゃんにだよ。おばあちゃん、若い時にミニスカートを穿いておじいちゃんを誘惑して、おじいちゃんをメロメロにさせて結婚したんだって。ひどいことするなあって、本当に腹が立ったの」
樹里の話を聞き、シュウはしばらくあっけにとられていたが、やがて口を押さえながらブブっと音を立てて吹き出した。
「アハハハ、その話か。別にいいじゃん。おふくろの若い頃の写真を見たことあるけど、仮に俺がおじいちゃんだったとしても、同じようにメロメロになったかもしれねえな」
笑い転げるシュウを見ながら、樹里は拳を握りしめ、次第に全身が震えだした。
「ひどい! お父さんもあの人にたぶらかされたの?」
「あの人? 一体誰だよ」
「おばあちゃんだよ。あのわがままで頑固で身勝手な女、絶対に許せない! 」
樹里はヒステリックな声で叫ぶと、その場から走り出した。
シュウは全速力で樹里の元へ走りだすと、あっという間に追いつき、背中を片手で掴んだ。
「待てよ樹里! お前、言ってよいことと悪いことがあるぞ」
シュウは鬼気迫る表情で樹里に迫った。樹里は全身を震わせながらも、目を見開いて毅然とした表情でシュウを睨み返していた。
「お父さんは何もわからないよ。ずっとあの人に甘やかされてきたんだろうから、私の気持ちなんか何もわからないよ」
「何だと!? 勝手なことばかり言うんじゃない!」
「ずっと甘やかされたから、時間にはルーズだし、約束は守らないもんね。いくら剣道が上手くても、全然尊敬できない。だから私、一人で練習したいんだよ」
樹里は息を荒げながらシュウに言葉を返したが、次の瞬間、シュウは激しい音を立てて樹里の頬を叩いた。
「……お父さんもあの人と同類ね」
「ああ、同類でも何でもいいよ。俺と、俺のおふくろを馬鹿にするやつは誰であっても許せねえ! 」
「最低……! 」
樹里は片手で頬を押さえながらシュウを睨みつけると、そのまま公園の外へと駆け出していった。シュウは樹里を叩いた手を握り締めたまま、激しく息をしながらその場に立ち尽くしていた。
「勝手にしろ! 今度の試合も、せいぜい負けてベソかいて帰ってこいや」
シュウはそう言うと、地面に転がったままの竹刀を拾った。そして、僕の前に置かれたベンチに座り、髪の毛をかきむしりながら時折唸り声のようなものを上げた。
『シュウさん、かわいそう。樹里ちゃんのことを気遣ってアドバイスしただけなのに』
『でも、手を出す必要はあったのかな? 樹里ちゃん、痛そうに顔を押さえていたけど……大丈夫かしら』
しばらくうつむいたままだったシュウは、頭を掻きながら「時間にルーズで、約束を守らない、か……。まあ、そうなのかもな」と言って、軽く苦笑いを見せた。
しばらく感傷に浸っていたシュウだったが、次の瞬間、静寂を打ち破るかのように
シュウのポケットから音楽が鳴り響いた。
シュウは焦りながらポケットを探ると、携帯電話を取り出し、耳に押し当てた。
「もしもし……。え? 剛介? どうした、こんな時間に」
どうやら剛介がシュウに電話をしてきたようだ。こんな遅い時間に一体何の用があるのだろうか。
「こっちに帰ってくる? 奥さんと一緒かい。え、一人で? 」
会話が続くうちに、剛介の表情が次第に曇り始めた。
「奥さんと何かあったわけじゃないだろ? どうして一人で帰ってくるんだい? 」
シュウは必死に問いかけていたが、その後数秒間、シュウは耳に携帯電話を当てたまま微動だにしなかった。
「おい、何か言えよ。俺には言えないことなのか?」
シュウは再度問いかけたが、その後再び静寂が続いた。
「……いいよ、言いたくないならばそれでもいい。こっちに着いたら連絡よこせ。じゃあな」
そう言うとシュウは携帯電話をポケットに仕舞い込み、「全く、どいつもこいつも」と言いながら大きくため息を付いた。
シュウの話を聞いた限りだと、剛介はこっちに帰ってくるようだ。それも、話したくないような理由で。奥さんの野々花との間に一体何があったのだろうか。直接剛介の口から聞くしかないのだろうが、気になる所だ。
シュウがベンチから立ち上がろうとした時、暗闇の中から息を切らしながら芽衣がシュウの元へ駆け寄ってきた。
「何だよ、これから帰ろうとしていたのに」
「シュウ……あんた、樹里のこと殴ったの? 」
「そうだけど、どうして? あいつが悪いんだから、当然じゃないか」
「話は聞いたわよ。確かに樹里の言い方も良くないと思う。でも、殴ることはないじゃない? 」
「あのな芽衣。お前もあの場にいたら樹里を殴りたくなるって。俺や俺のおふくろを侮辱するようなことばかり言いやがって。反抗期なのはわかるけど、程度ってものがあるんだよ」
「最低……何で、もっと樹里の懐に入って話を聞いてあげないのよ」
芽衣は全身を震わせながらシュウを見つめていた。
「あーわかったよ。俺が悪うござんした。もう何を言われても樹里に手を出さず、何も言い返さず話を聞いてりゃいいんでしょ? はいはい。さ、夜も遅いし帰ろうか」
シュウは投げやりな態度でそう言うと、芽衣の肩を軽く叩き、サンダルの音を立てながら歩きだした。
「バカッ。私、シュウのそういう所が嫌いなの。もっと樹里に寄り添ってあげてよ! 」
芽衣はシュウの背中に向かって悲痛な声で叫んでいた。しかしシュウは「はいはい」と苛つきながら返事し、そそくさと自宅の玄関へと入っていった。
『シュウの気持ちもわかるなあ。芽衣さんもお母さんとして、樹里の気持ちに寄り添ってあげたいんだろうけど、難しいよね』
『でも、あんな投げやりな態度とられたら、私も腹が立つなあ。男ってホント勝手だよね』
苗木達の間でも、シュウ一家の顛末について反応が二分化していた。
『ねえ、リーダーのケビンさんはどう思う?』
『ぼ、僕が?』
『そう、リーダーだろ? 意見が真っ二つに分かれてるんだから、ちゃんとまとめないと』
僕はケンに名指しされ、どうしていいかドギマギしてしまった。
『と、とにかくこれからも様子を見るしかない。僕らにはそれしかできないよ』
『ふーん……相変わらず優柔不断だね、ケビンさんは』
ケンは冷めた様子で言葉を返してきた。
急に結論をまとめろと言われても、僕には何も思い浮かばないし、どうすることもできない。ルークさん。僕はまだまだ力不足なんだろうか……。
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