第137話 なれそめ
夏が近づき、徐々に公園内の湿度が上がり始めていた。
今日は朝早くから樹木医の櫻子が公園に来て、僕たちケヤキの状態を一本ずつ確認していた。ここに来たばかりの頃はまだ若く頼りない感じがした櫻子も、年月が経ちすっかりベテランとなり、誰の手を借りなくても僕たちの健康状態に応じた適切な処置ができるようになっていた。これから来る暑い夏を乗り切るためにも、しっかり診察して必要な処置をしてもらわないと、僕たちケヤキはあっという間に病気になってしまう。
「うん、今年はみんな元気がいいね。去年工事して公園の土を入れ替えて、栄養が良くなったからかしら? 」
そう言うと、櫻子は丸い眼鏡に手を当てながら微笑んだ。
櫻子の言う通り、去年の公園改修工事で養分の多い土を入れてもらえたお蔭で、僕たちは元気に暮らせていた。ただ、キングだけは相も変わらずうつむき加減で、今にもしおれてしまいそうな体勢のままであった。
「君、相変わらず下ばかり向いてるわね。ちゃんと栄養とらないと、以前のように病気でしおれそうになってしまうわよ」
櫻子は腰に手を当てながらキングを見てため息をついていたが、やがて何かを見つけたのか、しゃがみ込むと、眼下にある一本の草をそっと抜き取った。
「あとは、心配事と言えば、これかな……」
櫻子が手にしていたのは、毎年この時期になると、園内の植え込みに雑草が増えてくる。これがなかなかやっかいで、あっという間に葉が増えて、種類によっては人間の子どもの背丈ほどまでに成長してしまう。さらに、公園に敷き詰められたコンクリートの間からも小さな草が顔を出し始めてくる。
僕の周囲にはそれほど雑草が生えていないが、苗木達の周囲にある植込みからは背丈のある雑草が、まるで苗木達の幹にもたれかかるように顔を出していた。
雑草が増えると寄生する虫も増えるので、僕たちの生育にとって決して良いものではない。
櫻子が地面を見つめながら一本ずつ草を抜き取っていたその時、麦藁帽子をかぶった怜奈が透明な袋を片手に、僕の目の前を過って公園の植え込みへと踏み込んでいった。
『あれ、怜奈さんだ。今日は芽衣さんと一緒じゃないんだね』
『ホントだ。大丈夫かな、一人だけで。いくら櫻子先生がいるとはいえ……』
苗木達は心配そうに怜奈を見つめていたが、怜奈は鎌を片手に手際よく雑草を刈り取り、植込みから次々と放り出していた。
「あら、怜奈さん。今日はお一人ですか? 」
櫻子は怜奈に気づくと、近くまで行ってしゃがみ込み、作業の様子を後ろから見届けていた。
「櫻子先生、この草を見てごらん。あっという間にこんなに伸びちゃってさ。この時期は頻繁に手入れしないとダメなのよね」
怜奈はタオルで顔を拭いながら、白い歯を見せて櫻子に語り掛けた。
「息子さん夫婦は手伝わないんですか? こないだは一緒にいたじゃないですか? 」
「あの子達を待ってたらいつまでもこのままだよ。このままじゃケヤキの木まで覆われちゃうじゃない。うちの旦那が生前あれほど口を酸っぱくして言ってたのに、誰も言うことを守らないんだから、困っちゃうよね。結局、私がやるしかないんだよ」
怜奈は呆れ顔でそう言いながら、手にした鎌で雑草を次々に刈り取っていた。
「偉いですね、怜奈さん。旦那さんの遺志をしっかり継いでいて。旦那さん、この公園とこの木達を誰よりも愛し、何があっても守り通していたと聞きましたよ」
「そんな所がカッコよくて、惚れたんだけどね」
「わあ、素敵ですね。この公園と木達が、お二人を結び付けたんですね」
櫻子が歓声を上げてそう言うと、怜奈は顔をしわくちゃにしながら大笑いしていたが、次の瞬間、持っていた鎌を地面に落とし、胸の辺りを押さえて顔をしかめ、その場から動けなくなった。
「え? 怜奈さん? どうしたんですか、突然」
「な、何でもない、何でもないから……気にしないで」
怜奈は咳き込みながら、苦しそうな表情で介抱しようとする櫻子の手を振り払った。
「何でも無くないですよ! すぐに救急車を呼ばないと!」
「余計な真似しないでくれる? 病気じゃないんだから……年甲斐もなくちょっと無理しただけだから。少し休んだら、また……ゴホッ、ゴホッ! 」
「でも、このまま放置は出来ないですよ」
「芽衣が……芽衣が家にいるから、薬を持って来させて……」
「芽衣さん? 息子さんの奥さんですよね? 今から呼んできますから! 」
しばらくすると、櫻子は芽衣と一緒に怜奈の元へとやってきた。
「ダメでしょ、お義母さん! 医者からも一人で作業しないように言われてたじゃないの? 」
「だって、いつまでもこんな雑草だらけにしておくわけには……ゴホッ! 」
「そんなに呼吸が苦しい状態じゃ無理よ。ねえ樹木医さん、お義母さんを家まで送るのを手伝ってくれる?」
芽衣に急かされるように、櫻子は怜奈の片方の肩を支えた。
「ちょ、ちょっと! まだ……草刈り……途中なのに」
「後は私がやるわよ。お義母さんは自宅でゆっくり休んでいてくれる? 」
芽衣はそう言うと、もう片方の肩を支えた。怜奈は二人に支えられながら、半ば無理やりに自宅へと連れ去られていった。
『あーあ。怜奈さん、かわいそうに。もっと草刈りをやりたかったのにさ』
『まだまだやれそうに見えるんだけど……やっぱり年齢には勝てないのかな』
苗木達は怜奈に対し好き勝手なことを言っているが、最近怜奈の様子がおかしいのは確かだった。もう高齢というのはあるけれど、仮にそうだとしてもこれほど激しい動悸を起こすだろうか?
しばらくすると、帽子をかぶり、透明な袋を手にした芽衣が、櫻子と共に公園に姿を見せた。
「じゃあ芽衣さん、ごめんなさいね。私は次の現場があるから、これで」
「ごめんね櫻子先生。お義母さんのことで引き留めちゃって」
「良いんですよ。早く回復すると良いですね」
櫻子は手を振りながら、道具一式の入ったケースを引いて公園から去っていった。
残された芽衣は辺りを見渡すと、まだ草刈りが終わっていない植込みの中へと足を踏み入れて行った。
陽光が次第に強さを増し、僕にはまるで全身が火照るような感覚があった。芽衣はタオルで何度も汗を拭いながら、這いつくばるような姿勢でひたすら草を刈り取り続けた。気が付くと、ついさっきまで草に覆われていた植込みが徐々に姿を見せ始めていた。
「ねえお母さん、いつまで草刈りやってるの?」
必死に作業を続ける芽衣の目の前に、娘の樹里が立っていた。ショートパンツのポケットに手を突っ込んだまま、真上から見下ろすかのように芽衣を見つめていた。
「樹里! おばあちゃんが咳き込んでるだから、そばに居てあげないとダメでしょ?おばあちゃんに何かあったらどうするのよ? 」
「あの人のそばに? ふざけたこと言わないでくれる? 」
「お父さんは仕事でいないんだから、おばあちゃんの面倒見ることができるのは樹里しかいないのよ」
「イヤだ。というか、あの人と家の中で二人でいるのが嫌だから、公園に出てきたんだけどさ」
樹里はそう言うと、口笛を吹きながら芽衣の周りをひたすら歩き始めた。
「ねえお母さん。あの人はどうして私たちの家にいるの? 」
「ここにいるのって……そんなの、家族だからに決まってるじゃない」
「家族? ちょっと、笑わせないでくれる? おじいちゃんが死んだ時にこの町を出て行けばよかったのに。どうせ私たち以外、この町に知り合いがいないんでしょ? 」
「樹里! これ以上そんなこと言ったら、承知しないわよ」
草刈りで疲れていた芽衣だったが、樹里のあまりにも怜奈を小馬鹿にした態度に対し、思わず声を荒げた。
しかし樹里は気にする素振りも無く、無表情でしばらく芽衣を見つめていた後、口を開いた。
「ねえ、おじいちゃんはどうしてあの人を好きになったのかなあ? 」
芽衣は、突然の樹里の質問にとまどいつつも、以前怜奈本人が話してくれた隆也と出会った時のエピソードを思い出し、口を押さえて笑いながら語りだした。
「おばあちゃんから聞いた話だと、おじいちゃんとは知り合いの紹介で会ったみたい。おじいちゃんはね、おばあちゃんのミニスカート姿を見てメロメロになって、お付き合いしようと思ったんだって。おかしいでしょ? おじいちゃんらしいエピソードだなって笑っちゃったけど、おばあちゃんもなかなかやるなあって思ったよ」
しかし樹里はクスリとも笑わず、芽衣に冷めた視線を向けていた。
「ひどい。そんなエグいやり方で? 」
「エグい? どこが? 」
「ミニスカートで脚を見せて誘惑して、おじいちゃんのことをたぶらかすなんて、卑怯なやり方じゃん。オンナとして最低だよ」
「……」
芽衣は、義父母の微笑ましいエピソードがまさかそんな風に解釈されるとは……と言わんばかりに、口を開けたままあっけに取られていた。しかし、樹里は反省する様子も無く、「早く帰ってきてね。あの人と二人きりは嫌だから」と吐き捨てるように言うと、口笛を吹きながら自宅へと帰っていった。
『ひどい……樹里ちゃんは怜奈さんの一体何に不満があるのかしら? 』
ナナは悲しそうな目で樹里の背中を見続けていた。
『単なる反抗期だよ。ただ、言っていいことと悪いことがある。だろ? ケビンさん。この公園のリーダーとして、樹里ちゃんにビシっと言ってやってよ! 』
ケンは僕を見ると、けしかけるかのように捲し立ててきた。僕はここで毅然とした態度を見せないと、リーダーとしての沽券にかかわると思い、大きく息を吸うと、公園から去って行こうとする芽衣の背中に聞こえるかのように思い切り声を張り上げた。
『ジュジュッ……樹里ちゃんっ! お母さんやおばあちゃんを悲しませちゃダメだよ、ねっ? 』
すると、公園のあちこちから、苗木達がクスクスと笑う声が聞こえてきた。
『ジュジュッ、樹里ちゃんだってさ。そこでどもっちゃってどうするんだよ? 』
『ダメだよ、ね? って、幼稚園生に言うみたいな言い方ね。そんな弱々しい言い方で、樹里ちゃんに届いてるかしら? 』
『さすがはビビリのケビンさんらしいや、ギャハハハハハ』
苗木達の失笑を買い、僕のリーダーとしての威厳はまたしても地に落ちてしまった。
樹里と怜奈の二人の関係はこれからどうなっていくのか。家族としてこれからも一緒に生活しなくちゃいけないだろうし……ルークさん、こんな時、僕は一体どうすれば良いんだろうか?
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