第132話 支えてくれるもの

『おはよう、ルーク……朝だよ、起きろよ』


 眩しい光が僕の目に入り、耳元で誰かがささやく声がした。


『見てみろよ。海が朝日に照らされてすごくきれいだよ』


 海?僕のいる公園の周りに海なんてないのに。

 僕は目を開けると、はるか向こうに海が見え、朝陽に照らされ黄金色に輝いていた。

 僕の周りには青々とした芝生が広がり、真横には、白く真新しい団地が何棟も建ち、高齢の夫婦が楽しそうに語らいながら散歩を楽しんでいた。

 ここは一体どこなんだろう?……僕はしばらく戸惑っていたけれど、やがて僕の中に記憶が蘇ってきた。


『ここって、まさか……!』


 僕は改めて周りを見渡すと、僕のすぐそばにはケヤキの巨木が青い空に向かって高々とそびえていた。


『ようやく気付いたのかな?』


 巨木は僕にささやいた。その声に僕は覚えがあった。


『おじさん!』


『ひさしぶりだな、ルーク。しばらく見ない間にまた立派になったな』


『おじさんも、以前会った時よりもどっしりとしているよね』


『アハハハ、ここは空気も土も美味しいからな。すっかり太っちゃったんだよね。少しは痩せたいと思うけれど、ここにいる以上は無理だろうな』


 目の前に立っていたのは、まぎれもなくおじさんだった。もう二度と逢えないと思っていたのに、こうしてまた逢えたことに驚き、そして嬉しさがじわじわとこみ上げてきた。以前逢えた時も、芳江の言葉を信じて流れ星に「おじさんに逢いたい」と願いをかけた記憶がある。まさかもう一度夢が叶うとは、芳江には感謝してもしきれない。


『どうだ?公園の様子は昔と変わらないかい?』


『苗木達……いや、僕とケビンの子ども達が生まれて、みんな立派に成長しているよ。以前とは比べ物にならないほど賑やかになったよ』


『そうか。賑やかなのは何よりだね』


『でもね、おじさんには残念なお知らせもしなくちゃいけなくて』


『どうしたの?』


『おじさんがずっと兄弟のように慕っていた隆也が死んじゃったんだ。みんなで無事を祈っていたんだけどね……』


『そうみたいだね』


『え? 知ってるの?』


『僕を育ててくれた造園会社の人がわざわざここに来て、教えてくれたんだ』


『なあんだ。僕から言わなくても良かったね』


 僕はおじさんに逢う機会があれば、隆也の死を伝えなくちゃと意気込んでいたのに、何とも肩透かしを食った感じがした。


『そしてもう一つ、報告しなくちゃいけないことがあってね』


 僕がそう言いかけた時、高校生らしき黒い制服姿の少年が僕の傍を通り過ぎて行った。やがて少年はどことなく思いつめたような顔をして、公園のベンチに腰掛けた。


『航だよ、覚えてるかな?きっとルークが以前見たときはまだ小学生ぐらいだったかもな。もうすぐ高校を卒業するんだってさ。卒業したらよその町に行くみたいだよ』


 そう言えば以前ここに来た時、幼い兄弟が僕やおじさんの周りで白熱した鬼ごっこをしていた記憶があった。あの兄弟もそんなに大きくなったんだね。時代の移ろいは早く、そして子ども達はどんどん成長していく。


「どうしたの? 航。そんな悲しそうな顔でボケっと座って」

「母さん?」


 航のそばには、いつの間にか母親らしき女性が立っていた。


『克之の奥さんの志乃さんだよ。お前も見たことがあるだろ?』


『ああ、そうだね。おぼろげながらだけど、見覚えがあるよ』


 航は志乃からの問いかけにも浮かない顔で、目線を合わそうとしなかった。


「俺、やっぱり漁師になんかなりたくねえよ」

「またそんなこと言ってるの?父ちゃんの気持ちを踏みにじるつもり?」

「護のほうが漁師に向いてるよ。父ちゃんとよく一緒に釣りに行ってたのは護だぞ」

「あの子はあんたより漁師の素質はないよ。出しゃばりの割にいざという時に頼りにならないというか……あんたの方が責任感は強いから、父ちゃんの後継者としては一番だと思う」

「でも、やっぱ怖いよ。父ちゃんが夜中に酒飲みながら『今月の収入はゼロだ』ってわめいてるのを聞いたり、急に海が荒れだして死にかけた話とか聞かされるとさ」

「そんなの父ちゃんに限らず、漁師はみんなそうだよ!」


 志乃が腕組みしながら怪訝そうな顔で航を見下ろすと、航はますます落ち込んだようで、次第に視線が地面へと移っていった。


「甘えるのもいい加減にしなよ。私も父ちゃんも修行先の船主さんには頭を下げてきたんだからね。『うちのバカ息子、迷惑かけるかもしれないけどよろしくお願いします』って」

「でもさ……やっぱり俺……怖いよ。行きたくないよ」


 航はそう言うと、志乃に目線を向けることも無く公園から歩き去ろうとした。


『あ~あ……このまま航君は漁師を諦めるのかな?』


『いや、それはないだろうね』


 おじさんは航の背中を見ながらそう答えた。


『だって、見るからにやる気が全然伝わってこないじゃないか。漁師になってもらいたいのは親とか周りの願望であって、航君の願望じゃないだろ?』


『航は小さい頃からずっと父さんの背中を見続けてきたんだ。友達や町の人達にも、「大きくなったら絶対に漁師になる!」って言い続けていたんだよ。修行先が決まった時だって、すごく喜んでいたよ』


『ええ? じゃあ、どうしてあんなに……』


『生まれ育ったこの地を離れ、見知らぬ町の見知らぬ人達の所に行くのは、誰だって不安じゃないか? これから行く所はひょっとしたら地獄みたいな所かもしれない、一歩間違えば、命を落としかねないかもしれない。わざわざ自分で辛い道を選ぶよりも、弟の護みたいに気楽に生きる方が人生楽しく過ごせるかもしれない……』


 おじさんは目を閉じながら、まるで航の気持ちを代弁するかのように次々と言葉を並べていた。

 やがて辺りは闇に包まれ、公園の電灯がほの明るい光を帯びて辺りを照らし始めた。


『おや、克之だ。今日は早く帰って来たね。さては不漁だったのかな』


 おじさんの声を聞いて僕は辺りを見回すと、ジャンパーに手を突っ込んだまま不機嫌そうな顔で公園の中を通り過ぎる克之の姿があった。

 克之はポケットから小さな瓶を取り出すと、片手で蓋を開け、そのまま口に付けて瓶の中の液体を流し込み始めた。


「ぷっは~!今日はあまり獲れなかったな。不漁続きで嫌になっちまうよ」


 克之は瓶を片手に叫び散らすと、再び瓶に口を付けた。克之の顔は次第に真っ赤に染まっていった。


「去年の今頃は、こーんなに大漁だったのによ。このままじゃ、家族に飯を食べさせられねえよ」


 克之は瓶を地面にたたきつけると、そのまま両手で頭を抱えてうつむいてしまった。


「親父、何やってるんだよ?」


 うつむいたままの克之の目の前に航が立っていた。志乃に小言を言われて落ち込み、どこかに姿をくらませてしまったはずなのに。


「なんだ航か。お前こそどうしたんだ、こんな時間に」

「しばらく海に行ってたんだ」

「海? 釣りでもしてきたんか?」

「違うよ。しばらく何も考えず、ボーっと海を見ていたんだ」

「バカか? そんな暇があるなら、引っ越しの準備でもしていろよ。修行先の柳造さんに迷惑かけねえようにな」

「いや、俺、行かないよ。漁師になるの、やめるんだ」

「はあ?」


 克之は航の言葉を聞いたとたん、真っ赤な顔が突然青ざめた。


「今なんて言った? 良く聞こえなかったぞ。もう一度言ってみろ」

「だから、やめるんだよ。漁師になるのを」


 克之は立ち上がると、突如弾けるような音を立てて航の頬を平手打ちした。航は頬を抑えながら、上目遣いで克之を睨んでいた。


「何だその目つきは? なめてんのかよ、てめえ」

「違うよ。俺は漁師になる意味が見いだせなくて……」

「いまさら何言ってるんだ? 家に帰って顔洗ってこい! やる前から何弱音言ってるんだ!」


 克之は航以上に鋭い目つきで睨みつけてきた。少し離れた所にいる僕でさえ、その目つきにただならぬ怖さを感じた。


「だって親父、漁が上手くいかない時は酒ばかり飲んで無口になってるし、海で命を落としそうになった話を聞かされたし。俺……そこまで辛い思いしながら金を稼ごうとは思えなくて」


 航の言葉を聞いた克之は、全身が震えていた。再び航は殴られるのだろうか……? 僕に手があれば、両目を押さえたいと思った。


「アハハハハ、俺が余計なことを言わなけりゃよかったのか?」

「え?」

「確かにブツブツ独り言を言ったり、怖い話をしたかもしれねえな。でもな航、俺はどんなに辛いことがあってもこの仕事をやめようとは思わねえんだよ」

「そうなの?」

「この大ケヤキ様がいつもここから俺のことを見守ってくれてるからね」


 克之はおじさんを指さすと、白い歯を見せて笑い出した。


「この木は俺たち漁師の心の支えだ。この木がここから俺たちを見守ってくれるから、何があっても怖くねえんだよ。航のことも、小さい時からケガしないようにずっとここで見守っていたんだぞ」


 克之の言葉を聞きながら、航はじっとおじさんを見つめていた。


「航、お前が漁師の仕事を知るうちに『怖い』って思う気持ちが募ってきたのは、俺も良く分かるよ。でもな、お前は小さい頃からずっと漁師になるのを夢見て、ここまでやってきたじゃねえか。俺はそのために、自分のできることは全てしてきたつもりだ。あとはこの大ケヤキ様が、海を照らす灯台のようにお前をここからずっと見守ってくれるよ。たとえここから遠く離れた町に住んでいてもな。だから何があっても心配するな。胸を張って行ってこい!」


 航はしばらくおじさんを見つめていたが、やがて大きくうなずき、克之の方を振り向いた。克之は笑いながら片手で航の背中を叩くと、航は照れくさそうな顔を見せた。やがて二人は、さっきまでの険悪な雰囲気が嘘のように、肩を並べて団地の方向へと歩き去っていった。


『大ケヤキ様……か。おじさんはこの町の人達の心の支えになっているんだね』


『まあな。それはルークも同じだよ。あの公園を通り過ぎる人達の心の支えになっていたはずだ』


『そ、そうなのかな?アハハハ』


 僕は苦笑いをしていたが、思い返せばつい先日まで僕の根元には地面が見えなくなるほどのプレゼントが置かれていた。こんな僕でお、あの公園を通り過ぎる人達の心の支えになっていたのだろう。


『ところでお前、僕にもう一つ報告したいことがあるって言わなかったか?』


僕は航のことばかり気になって、自分の言った言葉をすっかり忘れていたが、おじさんは僕の言葉をしっかり覚えていた。


『実は僕……あの公園を去ることになったんだ』


『!?』


おじさんは突如怪訝そうな顔で僕を睨んだ。僕はおじさんの反応を見て、思わず体が硬直してしまった。

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