第129話 最初で最後のスケッチ
徐々に暖かい南風が吹き込み始めた頃、公園の改修工事は急ピッチで進み始めた。
公園のあちこちに大きな穴が作られ、僕を除くケヤキ達はこの場所に今後順番に植え替えられていく予定だ。
僕はというと、造園会社の人達が毎日のようにやってきては僕の身体の大きさや根の張り方などを確認し、移植に向けて着々と準備を進めているようだった。
「時間がねえから、急いで準備するんだぞ」
という声が聞こえてくるたび、僕がこの場所にいられる時間はもうそれほど残されていないんだな、と実感した。
作業員たちが資材を手にひっきりなしに行き交う中、女子高生らしき若い女の子達が、それぞれカラフルな手提げ袋を手に談笑しながら公園の中に入ってきた。
「あの絵、すごかったよね?え、このエッフェル塔、写真!?って思っちゃった」
「私も!キャンバスにでんと描かれたモンサンミッシェルが、本当に目の前にあるみたいな感じがしたもん」
どうやら絵の展覧会が近くで開かれているようだ。女子高生の後ろを追うように歩いていた中高年位の女性たちも、女子高生と同じ手提げ袋を持って、絵の感想を興奮気味に話していた。
「すごい絵ばかりだったね。実物を見てるみたいだったわよ。この町にあんなに才能のある画家がいたんだね」
「私の妹の同級生なのよ、燐花ちゃんは。小さい頃から絵が上手いって、すごく評判だったんだって」
「ええ?そうなの?妹さん、羨ましいなあ。子どもの頃から燐花ちゃんの絵を見てきたんでしょ?」
燐花?幼い頃におじさんの絵をここで描いていた燐花のことだろうか。その時、女性グループのうち一人が手提げ袋から展覧会の告知ポスターを取り出し、お互いに見せ合っていた。
「『RINKA・パリからちょっとだけ里帰り展』……何だか涙が出そうになるタイトルよね」
「あんなに売れっ子になっても、この町のことを忘れずにいてくれてるんだもんね」
「近々サイン会もあるんだって、ひょっとしたら帰ってきてるのかなあ?会いに行きたいわよね」
「その時は妹と行こうかな。久し振りの再会に泣いて喜ぶかもね」
あの燐花が、この町に帰ってくるんだ……。
それも、僕が移植される直前に帰ってくるだなんて、何とタイミングが良いんだろうか?
翌日、公園の改修工事は休みのようで、僕たちは久し振りに朝から心落ち着けて過ごすことができると思っていた。しかし、今日はいつもよりも公園の中を歩く人の数はずっと多かった。彼らは、昨日ここを通りかかった女性たちが提げていたものと同じ紙袋を提げていた。おそらく皆、燐花の展覧会に行った人達だろう。
以前この町で展覧会があった時も燐花の人気はすさまじかった記憶があるが、時が経っても全く人気が衰えていないのが凄いと思った。
西の空が次第に赤くなり始めると、公園を通る人の数も減り始めた。辺りにようやく静けさが戻ってきたその時、背がひょろりと高い男性が突如姿を見せた。茶褐色の髪を少し長く伸ばし、あごに髭をたくわえた野性的な雰囲気の男性は、見た感じ外国人のようだ。男性は、広い背中を覆い尽くす位の幅広なリュックを背負いながら、髪の長い女性の乗った車椅子を引いていた。
『あれ?あの人、確か……』
僕は目を凝らした。車椅子の女性は緑色のベレー帽をかぶり、背中まである長く金色の髪の毛の間から辛うじて覗く横顔は、どこかやつれていた感じがした。しかし、僕はその顔に覚えがあった。
『燐花……!!』
車椅子の女性は、まぎれもなくあの燐花だった。
最後に会った時からもう何年経ったのだろう?あの時の燐花はまだ若く、髪の毛も派手な色に染め、周囲を圧倒するかのような独特な雰囲気があった。
今、僕の目の前にいる燐花は相変わらず派手な装いではあるが、以前のようなとがった雰囲気は無く、柔和な優しい表情を見せていた。
「ねえ、ここで止めてくれる?」
「え?ここでいいの?明日のサイン会はダイジョウブ?」
「いいのよ。今頃イネスが先に行って準備してるはずだから」
「ここって……以前話してくれた、思い出の場所?」
「そうよ。ここで木の絵を描いたのが、私の画家生活の始まるきっかけだったの」
長身の男性は、おそらく燐花の結婚相手なのだろう。確か、燐花の教え子であるイネスという女性がここに来た時、「燐花は外国人の陶芸家と結婚している」と言っていた記憶があった。
「トーマス、リュックを下ろしてキャンバスを出してくれる?」
「今日、ここで絵を描くの?」
「もちろんよ。そのつもりで来たんだもん」
男性はトーマスという名前のようだ。トーマスはリュックを下ろすと、そこから大きく白い板と絵筆、そして色とりどりの絵の具を取り出した。
「トーマス、絵の具の前に鉛筆を出して、え・ん・ぴ・つ」
「えんぴつ……」
「Pencilよ、バッグの中に入ってなかったかしら?」
「ああ、Pencilね。ごめんなさい」
トーマスは日本語は話せるものの、聞き取るのはまだ十分困難な様子だった。
やがてトーマスは鉛筆を見つけ、得意げな表情で燐花に手渡した。
「ありがと。また一つ日本語覚えたね」
燐花はトーマスの頬に口づけすると、鉛筆を手に、公園の中をぐるりと見渡した。おそらく描く対象を探していると思うのだが、おじさんに雰囲気が似ているというケビンが選ばれるのだろう。
燐花の視線は予想通り、ケビンの所で止まった。
「ただいま。元気だった?私は元気だよ。お互い歳をとったよね」
燐花はケビンにそう話しかけていたが、その後再び視線をケビンから逸らし始め、やがて僕と真正面に向き合った所で、動きを止めた。そして自分の手で車椅子を動かし始め、いつの間にか僕のすぐ目の前までやってきていた。
『え?ぼ、僕なの?』
燐花は、僕の周りに張り巡らされた黄色いロープに手を当てた。そして、目の前に張られている看板を髪の毛をかき分けながらじっくりと読んでいた。
「そっか……ここから撤去されちゃうんだ。残念よね。あなたは確か、私が子どもの頃からずっとここにいたよね?」
燐花は寂しそうにそう言うと、名残惜しそうに僕の全身を上から下まで視線で追っていた。
「あなたのことを一度も絵に描いたことがなかったよね。以前ここにいたケヤキの木がどうしても忘れられなくて、ずっとあなたのことを描けずじまいだった。でも、今日はあなたのことを描こうかな。この場所でたくさんの人達を温かく見守ってくれてありがとうって気持ちを込めて」
僕は驚いた。燐花のことだからきっとおじさん似のケビンを選ぶと踏んでいたのに、今まで見向きすらしなかった僕を描く対象に選んだのだ。
燐花は口元をほころばせると、トーマスが渡した白く大きな板の上に鉛筆を走らせ始めた。時々僕を観察するその瞳は、さっきまでの柔和さが消えて鬼気迫るものがあった。まるで僕の全てを読み取るかのようにじっくりと見定めた後、再び鉛筆を走らせ始めた。
しばらくすると、燐花は隣に立つトーマスから絵筆を受け取り、鉛筆で描いた絵の上に、一つ一つの色を慎重に選びながら絵筆を走らせた。
太陽が西の山の端に沈み、辺りが暗くなり始めたが、燐花は集中力を切らさずひたすら筆を走らせていた。しばらく沈黙が続いた後、燐花は顔を上げ、手で額を拭うと、突然満面の笑顔を見せた。
「出来た!速攻で描いたから、ちょっと雑かもしれないけれど……これでどうかしら?」
燐花ははにかみながら白い板を両手に持ち、描いたばかりの作品を僕に見せてくれた。苗木達が両脇に立ち並び、その真ん中にひときわ大きく立つ僕の姿があった。枝は真上を向き、幹はしっかり太く描かれ、公園の中にしっかりと根を下ろしていた。
『すごい!ルークさんがそのまま絵の中で生きているみたい』
ナナが思わず驚嘆の声を上げていた。
そのまま生きているみたい?ということは、これが僕の姿なのか?
こんなに図体が大きく、幹がどっしり太いのだろうか?もっとスリムで背もそこそこ高い位に思っていたのだが……。
「あなたはこの公園の他のケヤキに比べると見た目に気品があって形も美しいよね。でも、今までこの場所で幸せに暮らしてきたからかもしれないけど、ちょっと太りぎみかもね?」
若い頃からスタイルに自信があった僕にとっては、耳の痛い言葉だった。もっと食事量を抑えてダイエットに励むべきだったかもしれない。
「この絵は、せっかくだから今私の展覧会をやってるこの町の美術館にプレゼントしようかしら?どう思う?トーマス」
燐花はそう言うと、白い板をトーマスに手渡し、片付けを始めた。
「プレゼント?どうして?せっかく描いたのに……」
「この木はね、もうすぐここからいなくなるのよ。そしていつか、この木は町の人達の記憶からも消えていくと思うの。だから私は、この木がこの場所に立っていたことを、いつまでもこの町のみんなに覚えていてほしいのよ」
「Oh,it’s good idea. すごく良いと思う。この木もきっとうれしいよ」
トーマスは微笑みながら親指を上げると、道具を一つずつ丁寧にリュックの中に詰め込み始めた。
『すげえ!ルークさんの絵が会場に展示されるんだ!』
苗木達が燐花の言葉を聞いて一斉にどよめき始めた。
この公園を去る僕の姿が、絵を通していつまでも町の人達の記憶に残ること……僕にとってはこれ以上無い、最高のプレゼントだった。けれど、不恰好な自分の姿をこの町の人達に晒すのはちょっと恥ずかしかった。
トーマスはリュックを背負うと、燐花の乗った車椅子を少しずつ動かし始めた。
「またここに来れるかな?……でも、これが最後になるのかなあ。今回はドクターを押し切ってきたけど、今度はさすがにダメって言われそう」
燐花は不安そうな表情で振り向き、トーマスを見つめた。
「きっと来れるよ。ぼくはそう信じてる。だからリンカも病気、ちゃんと治してね」
トーマスは髭に覆われた口元から白い歯を見せて微笑んだ。
「そうね。ありがとう、トーマス」
二人は沈みゆく太陽に顔を真っ赤に照らされながら、公園の向こうへとゆっくりと歩き去っていった。
燐花は自分の病気についてあまり触れなかったけど、ひょっとしたらかなり進行しているのかもしれない。次はいつこの町に帰ってくるかは分からないけれど、僕がこの公園を去る前にこうして巡り会えたこと、そして、最初で最後の自画像を描いてもらえたことは、僕にとっては何よりも最高のはなむけになった。
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