第118話 必死の救出劇

 今年の夏は、今までになく暑い夏になった。

 朝から強い陽ざしが僕たちに注ぎ込み、うだるというよりはやけどしそうな感じがする危険な暑さだ。雨らしい雨も無く乾ききった土の上に立ち続けて、僕もケビンも、そして苗木達もすっかり気力を失いそうだ。


『ねえルークさん。この天気、どうにかならないの?』


『そう言っても、僕は何もできないよ。僕たちは、黙ってここに立ち続けるしかないんだ』


『ええ?もうこれ以上嫌だよ!これって何の罰ゲームだよ』


『とにかく耐えるんだ!そうすれば恵みの雨が降ってくるはずさ』


 僕は気休めと分かっていながらも、苗木達が少しでも安心し、希望を持ってもらおうと、降るあてのない雨の話をしていた。


『あれ?あの黒い雲、雨雲かなあ?』


 ヤットが大声で叫ぶ声を聞き、僕は真上に広がる空を見た。

 さっきまで雲一つない真っ青な夏空に覆われていたはずなのに、いつのまにかはるか向こうから、黒っぽい雲が徐々にこちらへと広がってきていた。


『あの雲なら、きっと雨を降らせてくれそうだな。すごいよルークさん、単なる気休めで言ってるのかと思ってたけど、本当の話だったんだね』


 ケンは感心しながら、黒い雲をじっと見つめていた。

 いや、僕はあてずっぽうで言っただけなんだけど……。

 黒い雲はまぶしい太陽を完全に閉ざし、やがて粒の大きな雨粒がアスファルトの上に音を立てながら落ちてきた。


『ルークさん。この雨、ちょっとやばくない?私、嫌な予感がするなあ』


 降ってくる雨粒を見て、キキが不安な声を上げた。確かに、いつもの細かい雨粒ではない、その数倍もの大きな雨粒だった。

 やがて雨粒は徐々に数を増し、いつの間にか滝のように公園に一気に降り注いできた。


『何この雨、怖いんだけど』


 滝のような雨に打たれながら、ナナが泣きそうな声で叫んでいた。

 願い叶って降り注いだ待望の雨は、尋常ではない降り方で、恐怖心を駆り立てる激しいものだった。

 その時、まばゆい閃光が光り、一瞬だけ公園の中が明るくなった。その後、花火が空中で炸裂した時のような強烈な爆音が響き渡った。


『こわい!雷だよ!雷、大っ嫌い!』


 ミルクが震えながら絶叫していた。

 しかし、ミルクの気持ちをよそに、雷は空一杯に閃光が広がり、次々と爆音を立てては地上へと落ちて行った。


『怖いよお。早くどっか行けよお』


 苗木達は震え続けていた。

 泣きたい気持ちは僕も同じだ。しかし黒い雲は一向に僕たちの頭上から去らず、激しい雨と雷を容赦なく落としていた。

 雨は次第に強さを増し、目の前のものが何も見えなくなるほどになった。その威力に驚いていた次の瞬間、激しい光が空一杯に広まり、一瞬のうちに一本の閃光が公園の真上に落ちてきた、

 まるで爆弾が落ちたかのような物凄い音が響き、僕の心臓は一瞬止まりそうになった。やがて正気になった僕の視線の先には、炎に包まれた一本の木があった。


『キング!キングが……』


『大変だ!キングが燃えてる!』


 公園に降り注がれた一本の閃光は、キングの真上に落ちたようだ。キングの幹の上部は引き裂かれたような跡が残り、枝葉はあっという間に真っ赤な炎に覆われていた。


『ルークさん!ケビンさん!キングを助けてあげてよ』


『む、無理だよ。ここから動けるわけないだろ。これは人間の手を借りるしかないよ』


『バカ言うなよ。こんなひどい雨と雷じゃ人間が公園に出てくるわけないだろ?このままキングを見殺しにしろっていうのかよ!』


 苗木達は口々にののしり合っていた。その傍らで、キングに付いた炎は徐々に勢いを増し始めた。このままでは本当にキングは全焼し命を落としてしまう。

 僕に足があれば、すぐにでも助けに行きたい。だけど、出来ない。そう、ケヤキの木だから、ここで立って彼が燃え続けるのを見ていることしかできない。

 僕は僕という存在を、心からふがいなく思った。


 その時、近くの家の引き戸がガラガラと音を立てて開いた。花柄の傘をさして公園に足を踏み入れてきたのは、怜奈だった。


「さっき、近くに雷が落ちたと思ったけど、どの辺りかな……」


 怜奈はしばらく辺りを見回していたが、やがて雨の中まばゆい炎を上げて燃え続けるキングの姿に気づいた。


「大変だ!早く消さないと!」


 怜奈は慌てて家に戻ると、大声で家の中にいる芽衣を呼び出した。


「芽衣ちゃーん!急いでバケツにいっぱい水を汲んでくれる?あと、消火器も!」


 しばらくすると、芽衣が急ぎ足で両手でバケツと消火器を持って現れた。


「私はバケツの水をかけるから、芽衣ちゃんは消火器を発射して!早くしないとあの木が燃え尽きてしまうわよ!」

「は、はい……というか、私、消火器使ったことないかも」

「もう!頼りにならないなあ。じゃあ、私が消火器やるから、芽衣ちゃんは水をかけて」


 怜奈は白髪交じりの長い髪を振り乱しながら、消火器の長い管をキングの目の前に向けると、思い切り白い煙を噴射した。


『何なの?あの煙……ゴホッ。私たちまでひっかけないでよ!』


 ナナが咳をしながら、風に乗って舞い散る白い煙を浴びていた。

 白い煙は、キングの身体に付いた火の勢いを徐々に弱めていった。そこに芽衣がバケツをひっくり返すかのような危なっかしい姿勢で、水を思い切りキングに浴びせかけた。


「何やってんのよ!バケツの水は横から思い切りぶちまけるのよ。そんなカッコじゃ全部の水が木にかからないわよ」

「そ、そんなこと言ったって……キャアアア!」


 まばゆい閃光と爆音を発しながら、再び雷がこの公園の近くに落ちた。


「お義母さん、私、雷が苦手なの……一人でやってくれる?」

「情けないこと言わないでよ、この木の命が奪われようとしているんだよ?シュウは仕事中だし、助けられるのは私たちだけなんだから。さ、もう一回バケツに水を汲んできて!」

「はい……怖いけど、やるしかないのね、私たちで」


 怜奈は雨に打たれてずぶぬれになった髪をかき上げ、額の汗を拭いながら、白い煙を噴射して必死に消火していた。

 必死の消火活動の甲斐があったのか、やがてキングの身体に付いていた炎は徐々に消え失せていった。しかし、時折くすぶるような音を立てながら、炎が再び勢いを増して燃えさかっている部分もあった。


「はあ……ダメだ、もうすぐ消火器が空になりそう」


 怜奈は消火器を左右に振りながら、中身が無くなってきていることに危惧感を抱いていた。


「これが最後のひと吹きになるかしら。ごめんね、守ってあげられなくて……天国にいるお父さんに怒られちゃうよね、私」


 怜奈が消火器の管をキングに向け、思い切り吹きかけると、炎は再び勢いを失った。しかし、努力も空しく、消し去った所と違う箇所から再び炎が上がり、徐々に燃え広がり始めていた。怜奈は水溜りの出来たアスファルトの地面にへたりこみ、両手で顔を押さえて嗚咽していた。


『ああ、これでお終いだ……ごめんよキング、俺たち何もできなくてさ』


『みんな、あなたのことが好きだったよ。ここまで色んなことがあったけど、一生懸命耐え抜いてここまで大きくなったんだもんね。偉いよ、キングは』


 苗木達は、力のない声でキングへの惜別の言葉をかけていた。

 キングは相変わらず言葉を発さず、熱い炎にじっと耐え続けているように見えた。

 僕はその姿を見るうちに、身体中から樹液が染みだしていた。

 そして、「悔しい」という言葉を何度も何度もつぶやいた。


「お義母さん!どうしたんですか?」


 ようやく芽衣が外に出てきた。さっき手にしていたバケツの数倍もの大きさがある、蓋の付いた巨大な青いバケツを両手で抱えていた。


「……それ、生ゴミを入れるポリバケツでしょ?」

「そうです。普通のバケツだけじゃとても足りないなって思ったから……」


 そういうと、芽衣はふらふらと足元をふらつかせながら、ポリバケツを両手で抱えてキングの足元までやってきた。


「さ、今すぐ楽にしてあげるからね。行くわよ!」


 芽衣はポリバケツの蓋を開け、斜めに構えると、キングの横っ面に思い切り水をぶちまけた。すると炎は勢いを失い、くすぶる音を立てながらも次第に小さくなっていった。炎はやがて、白い煙を上げて完全にその姿を消した。


「やった!芽衣ちゃん、ファインプレーだね!」


 怜奈は起き上がると、ポリバケツを手にぼうぜんと立ち尽くす芽衣を後ろから抱きしめた。

 その時再び近くで雷が落ちたらしく、耳をつんざくような爆音が鳴り響いた。


「キャアアア!」

「ちょ、ちょっと、芽衣ちゃん!」


 芽衣はポリバケツをその場に投げ捨てると、そのまま自宅へと全速力で逃げ込んでいった。怜奈もその後を追うように自宅へと戻っていった。

 ポリバケツが風にあおられ公園の中をコロコロと転がる中、黒焦げになったキングは気を失い、ぐったりとしていた。


『キング!大丈夫?生きてるの?』


 苗木達はざわめいていたが、僕は冷静にキングの全身の状況を見て、苗木達に対しなだめるかのように言葉をかけた。


『大丈夫じゃないか?焼け焦げたり幹が引き裂かれたのは上半身だけで、根元はしっかりしているからね』


 幸いにして、炎が回ったのは枝葉が付いていた幹の上半分だけのようであった。

 それでも、全く放置して良いわけではなく、早急に手当ては必要であると感じた。

 気が付くと、黒い雲はようやくはるか遠くに去り、雲間から姿を見せた西の空が怖い位に真っ赤に染まっていた。



 翌日、樹木医の櫻子と造園業者が公園に姿を見せ、キングの状況を確かめた。

 すぐそばには、昨日キングの命を救った怜奈と芽衣、そして今日は仕事が休みと思しきシュウの姿もあった。


「なんとか命拾いしたようね。残念だけど上半分は切断しかないわね」


 櫻子の言葉は冷酷だった。かといって、黒焦げのままいつまでも放置することはできない。キングには辛いだろうけど、樹勢を回復するまでひと踏ん張りしてほしいものだ。


「あれ?この木って、剛介が兄弟みたいに慕っていた木だよな?」


 シュウはキングの身体に手を添え、剛介のことを思い出したようだ。


「そうそう、剛介君がこっちに帰ってくるたびに、この木に語り掛けていたのを見たことがあるわ」

「やっぱりそうか……」

「剛介君に連絡する?」

「いや、連絡はしないよ。あいつはきっと野々花のことしか考えてねえだろうし」

「そんなこと言わないで!剛介君にちゃんと教えてあげて!」


 怜奈に説得され、剛介は渋々と携帯電話を取り出し、シュウと連絡を取っていた。

 しばらくすると、シュウは驚きの表情を見せた。


「ど、どうしたの?」

「剛介、帰ってくるってさ。すぐにでもキングに会いたいって」

「本当に!?」


 シュウの言葉に、居合わせた人達は一堂に驚きを見せていた。

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