第117話 覚悟はあるのか?

 年が明け、強い北風が吹き抜ける冬を越え、僕たちはやっと心が落ち着く日々を迎えられた。南からそよ吹く風に身を委ねると、葉が全て落ちてしまった枝に再び新しい芽を生む力が宿ったように感じた。

 人間達の世界では、この時期になるとやたらと引っ越しが多くなる。

 今日もマンションの入口には次々とトラックが到着し、荷物を運び出していった。

 どうしてこの時期に集中させるのだろうか。時間に追われるかのように、重い荷物を早足で運び出す作業員の人達が可哀想に感じるのは僕だけだろうか?


『ねえルークさん、剛介がいるよ!あのトラックの前で、作業の人達と一緒に荷物を運び出してるよ』


 僕が目を凝らすと、そこには剛介の姿があった。

 今は北海道で暮らしているはずだが、荷物を運びだすということは、この町を完全に引き払うということなんだろうか。

 やがて剛介は荷物を積み終えたようで、深々と頭を下げてトラックを見送っていた。

 その隣には、剛介の母親の姿があった。


「おふくろ、これでこの町からお別れすることになると思う。今まで本当にありがとう」

「寂しいこと言わないでよ。またここに戻ってきていいんだよ」

「いや、僕はもう、心に決めたんだ」

「どうしても、あの子と一緒に暮らすのかい?」

「そうだね。この前の正月も野々花と一緒にここに来て、その話をしただろ?」


 剛介は清々しい表情で答えた。


「野々花は、僕と絶対離れるつもりはないって。あいつ、ひとり親に育てられたから、独りぼっちになることが何よりも寂しくて仕方が無いんだよ。あいつとこれから生涯一緒になることで、あいつは幸せになれる。そしておふくろだって嬉しいだろ?結婚して孫の顔が見れるかもしれないんだぞ?」

「ば、バカ言わないでよ!」

「どうして?以前も言ってたじゃないか?生きてるうちに孫の顔を見たいよねって」

「そ、それは、その……」

「だろ?僕はこれから就職してしっかり稼ぐ。そしてきちんと生計を立てられるようになったら、あいつと結婚する。まずは早い時期にしっかり稼げるようになりたいね」


 剛介は自信満々に語り、母親の肩に手を置いた。


「心配するなよ。今までのように、盆と正月はここに帰ってくるから。シュウさんと一緒に剣道の稽古もしたいし、何よりこの木達に会いたいからね」


 剛介は顔を上げて、僕たちの姿をじっと凝視していた。


「ねえ剛介、今からでも考えは変わらないのかい?」


 母親は、僕たちを眺めている剛介の背中に向かって、かすれた声で問いかけた。


「な、何言ってんだよ。もう僕の気持ちは決まってるんだ。今更何を言うんだよ?」

「あいなちゃん……どうするのよ?」

「あいなちゃん?」

「あの子、あんたのこと、ずっと待ってるわよ」


 剛介はしばらく無言のまま、母親の方を振り向きもせず僕たちの姿を眺め続けていた。


「あいなちゃん、元気なの?」

「そうね。去年だったかな?本人がこのマンションに帰ってきていてね。去年弁護士の試験を受けて、落ちちゃったんだって。でも、また受けるって言ってたよ。自分の夢を叶えたいからって」

「そうか……」


 その瞬間、自信満々だった剛介の様子が、少しだけ変化したように感じた。

 剛介は、あいなのことを全く忘れ去ってしまったわけではないのだろう。


「今度会ったら、僕は北海道で就職して、元気で過ごしてるって伝えてよ。あいなちゃんも、結果にめげずこれからも勉強頑張ってねって」


 そう言うと、剛介は白い歯を見せて片手を振り、一足先にマンションの中へと歩き出していった。


「ちょっと!剛介!あいなちゃんはね、あんたのこと……」


 母親は急ぎ足で剛介の背中を追いかけていった。しかし、僕が見た限りでは、今の剛介には母親の願いが届いていないようだ。数年前、剛介はあいな本人から、彼女の夢について聞かされているはずだ。しかし今の剛介の頭の中は、北海道に就職し、野々花との結婚を見据えた生活を始めることで一杯なんだろう。そこにあいなが入り込む余地はほとんどなさそうだ。


『あいなちゃんがかわいそう……剛介は最低な奴だよ。どれだけ彼女を苦しめるつもりなんだ?』


『このままじゃ、あいなちゃんはいつか剛介と一緒になりたいという夢が叶わなくなっちゃう』


 苗木達からは、怒りの声が起こっていた。僕たちはあいなの健気さがわかるからこそ、剛介のそれを踏みにじるかのような行動は正直許せるものではなかった。

 でも僕は、自分の考えで生き方を選ぶところに剛介の成長を感じていた。昔の彼ならば、周りに翻弄されて、自分の考えだけで決断できなかったのではないだろうか?その点だけは、僕は不思議と感心していた。


 日が暮れ、辺り一面が暗闇に覆われる頃になると、公園の中を歩く人の姿を全く見かけなくなった。かつてはこの時間になると、シュウと剛介が剣道の練習のため姿を見せていたが、剛介が家を出てからは、誰も姿を見せなくなった。地元に住んでいるシュウでさえ、練習する姿を見せることはほとんど無かった。

 しかし、今日は久しぶりにシュウが竹刀を手に公園に姿を見せた。


「久しぶりに練習に来たよ。正直ちょっと腕がなまってるかもしれないけど、思い切りやるんで、よろしくな!」


 シュウはケビンの前で頭を下げると、真正面に竹刀を構え、そのまま前後左右に動きながら、竹刀を何度も振った。


「さあ、次は胴打ちの練習だ。久しぶりに、痛い思いさせるかもしれないけど、ちょっとだけ我慢しろよ」


 シュウは不敵な笑みを浮かべると、ケビンは『や、やめろよ』と声を震わせながら叫んでいた。しかし、シュウは全速力でケビンの目の前に駆け出すと、竹刀を斜め横から振り下ろしてきた。


『ギャアアアア……あれ?』


 ケビンはあっけにとられた顔をしていた。シュウの竹刀はケビンに当たる直前で止まり、その後シュウはケビンに背中を見せ、そのまま僕の立つ方向へと歩き出した。


『ま、まさか、僕を相手に……?』


 僕は一瞬心臓が高鳴ったが、シュウは僕の手前で止まると、突然笑顔で手を振った。


「よお、剛介、元気だったか?」


 僕は後ろを見ると、そこには竹刀を持ったシュウの姿があった。


「ごぶさたしてます。今日はどうしてもシュウさんと一緒に練習したくて」

「LINE、もっと早く送ってくれよな。しばらく練習してなかったから、俺も感覚が鈍っちゃってさ」


 シュウと剛介は一列に並ぶと、「さ、行くぞ!まずは素振り五十回、はじめ!」

 とシュウが号令を出し、二人は同じ動きで体を前後に動かしながら竹刀を上下に動かした。


「動きが鈍いな、剛介。あっちでちゃんと練習してるのか?」

「や、やってますよ……」

「ふーん、本当か?就職活動と野々花のことで、忙しいんだろ?」

「ま、まあ、その……」

「彼女とは、これからもずっと付き合うのか?」

「はい、一応その……結婚も考えてまして」

「結婚!?」

「はい。だから就職も道内の会社に決めましたし、ちゃんと稼げるようになったら、籍をいれようかな、と」


 剛介の言葉を聞くうちに、シュウは表情が一変した。

 その表情は怒りにも満ちており、見ている僕たちも凝視出来ない位鬼気迫るものがあった。


「これから久々に、俺とここで一戦交えてみるか?」

「え?今からですか?」

「そうだ。ちょっと待ってろ」


 シュウはそう言うと、駆け足で自宅へと戻っていった。


「何するつもりなんだ?シュウさん……」


 剛介はいぶかし気に公園の向こう側を見つめていたが、それほど時間もかからないうちにシュウが公園に戻り、剛介に剣道用の面を一つ手渡した。

 そしてシュウ自身も面をかぶり、首の後ろに手を回して紐を結び始めた。


「打ち合いだ。面だけを狙え。小手と胴はダメだ」

「シュウさん……僕、しばらく実戦はやってないんで、ちょっと自信が……」

「俺だってそうだよ。ほら、ボケっとしてんじゃねえよ。行くぞ!」


 シュウと剛介は僕の目の前でしゃがみ込み、竹刀を前方へ向けた。

 まずはシュウが大声で竹刀を振り上げながら、剛介に突進してきた。剛介は必死にそれを交わしたが、シュウは執拗に剛介の面を狙い、竹刀を振り下ろした。


『ヤバい!剛介、負けちゃう!』


『おい、剛介。負けるなよ!おい、キング。お前も応援しろよ。お前と剛介は、昔から兄弟みたいに仲いいんだろ?』


 しかしキングは、相変わらず口をつぐんだまま、じっと二人の様子を遠い目で見つめていた。やがて二人は竹刀をぶつけ合い、そのまま動かなくなった。


「相変わらず詰めが甘いな。そんな甘い奴が、野々花を幸せに出来るのかよ?甘ったるい考えで、二人の女を不幸にするんじゃねえぞ!」

「二人?」

「この前もお前に言ったよな?お前のことを本当に思ってくれてる人は誰なのかって」

「え?」


 シュウは剛介の竹刀を振り払うと、そのまま真上に竹刀を振り上げ、快音を上げて剛介の面に一撃を食らわせた。


「ち、ちくしょう……!」


 シュウは頭を抱えた剛介の喉元に、真正面から竹刀を突きつけた。


「これから野々花と一緒に生きていくつもりならば、何があっても野々花を愛し、守り抜く覚悟を持て!以前もおまえに言ったと思うが、お前をずっと慕っているあいなさんは、いつかお前と一緒になる夢を抱いて、今も一途にがんばってるんだ。お前はその気持ちを踏みにじって、野々花と一緒になるんだぞ。お前が下した決断は、そのくらい重いことなんだ。そのことは、何があっても絶対に忘れるな!わかったか!?」


 そう言うと、シュウは竹刀を地面に置き、面をしばっていた紐をほどいて額の汗を拭った。剛介も自分の面の紐をほどいたが、顔をしかめて何かを噛みしめているかのような表情が僕の目に入った。

 剛介はシュウに面を渡すと、小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


 剛介は背中を丸めながら、ゆっくりとした足取りでマンションへ向かって歩き出した。しかし、少し歩いた所で突然足を止め、ポケットから携帯電話を取り出し、耳に当てて話し出した。


「あ、野々花かい?今は実家にいるんだ。明日には帰るからさ。え?寂しい?大丈夫、一晩だけ我慢してよ。うん、愛してるよ。じゃ、おやすみ」


 剛介の会話を聞いていたシュウは、両手を天にかざして呆れた顔を見せていた。

 僕たちも、シュウと同じ気持ちだった。

 あいなの一途な気持ちは、このまま剛介に通じず、独りよがりのまま終わってしまうのだろうか?僕は剛介が自分で考えて下した決断を尊重したいが、やっぱりどうも腑に落ちないものを感じていた。

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