第116話 夢の原点

 夏、耳をつんざくような蝉の声が響き渡る中、僕たちは暑さに耐えながら公園の中を行き来する人達を眺めていた。いつもの年と変わらない夏の風景であるが、僕たちの頭の中は不安が渦巻いていた。

 春に市の職員たちが言っていた「移植」という言葉が、いつ実行されるのか?そして僕たちの中の誰がこの公園を去ることになるのか?

 あれから、市の職員たちは時々公園に姿を見せ、図面を片手に色々書き込んでいた。僕たちの知らない所で、計画は着々と進んでいるのだろう。


 夏休みということもあり、公園には朝から近くのマンションに住む子ども達が姿を見せ、声を上げて賑やかに遊んでいた。今日はかくれんぼを楽しむ四、五人位の小学校高学年くらいの男の子のグループと、七色に輝くシャボン玉を飛ばす小さな女の子の姿があった。

 子ども達の歓声が響き渡る中、キャリアケースを手にした水色のワンピースを着こんだ女性が姿を見せた。


『おや、あいなちゃんだね!久しぶりだなあ』


『ホントだ。一年近く顔を見なかったけど、また大人っぽくなったよな』


 苗木達が騒ぐ中、あいなはケビンの真下に置かれたベンチに腰を下ろした。

 久し振りにこの場所に戻ってこれたことで、その表情には安堵感があるように感じたが、僕はいつもに比べると、あいなの様子がどこか浮かないようにも感じていた。

 あいなは、目の前で太陽に照らされて七色に輝くシャボン玉の行方を目で追い続けた。

 やがてあいなは、細いストローのような筒に必死に息を吹きかけながら、大きな泡を次々と作り出す女の子の姿を見つけると、ベンチから立ち上がって声を掛けた。


「きれいなシャボン玉だね」


 あいながにこやかな表情で語り掛けると、女の子は嬉しそうに大きく頷いた。


「そうだよ。ママに買ってもらったんだ」

「おねえちゃんの作るシャボン玉、すっごくきれいだよ」

「でしょ?もっと、もーっと作るから、そこで見ててね」


 あいなに褒められた女の子は、得意げな表情で、次々とシャボン玉を作っては真っ蒼な夏空へ舞い上がらせていた。


「ありがとう。今度またシャボン玉、見せてね」


 あいながにこやかな表情で手を振ると、女の子は嬉しそうに手を振り返し、マンションの方向へと走り去っていった。

 女の子の姿が遠ざかると、あいなは突然大きなため息をつき、キャリアケースの上に顔を突っ伏した。


「はあ……上手くいかないよなあ、人生って」


 あいなの口から出た言葉に、僕たちは驚いた。

 剛介との仲が上手くいっていないこと以外、これまで人生を比較的順調に歩んできたはずのあいなに、一体何が起きたのだろうか?


『あいなちゃんらしくないよね。一体何があったのかしら?』


 ミルクは心配そうにあいなの様子を見つめていた。


『やっぱり剛介のことじゃない?剛介、お正月も野々花ちゃんを連れて帰って来たもんね。あいなちゃんもしびれをきらしたんだと思うよ』


 ナナは、まるであいなのことを全て知っているかのように語りだした。


『そうかなあ?剛介のことではないんじゃないかな?確か、彼女には小さい頃から追い続けてる夢があったはずだよ。そのことなんじゃないかな?』


 ケンは、あいなの表情を見つめながら首をかしげていた。


『そうそう!確か、べんとうとかいう仕事をしたいって言ってたよね』


 ヤットは思い当たった言葉を、大声で叫んだ。


『弁当?人間達がお昼に食べてる四角い箱に入ってるやつ?』


『そうそう!それだよ。べんとうだよ!あいなちゃん、べんとうの仕事が見つからなかったんだよ、きっと』


 ヤットは興奮した様子であいなを見つめていた。やがてあいなの近くを、大きな袋に入った弁当を提げた自転車が通り過ぎて行った。


『あ、弁当屋さんじゃないか?あいなちゃん!チャンスだぞ!追いかけて声をかけないと。私は弁当屋で働きたいんですって』


 ヤットが捲し立てると、その言葉が耳に入ったのか、あいなは突然立ち上がり、弁当を提げた自転車の後を追うように歩き出した。


『よし!あいなちゃん、そのまま追いかけろ!』


 あいなはしばらく自転車の後を追うように歩くと、僕の目の前で突如足を止めた。

 自転車は止まることなく、公園からどんどん遠くへと走り去っていった。


『あれ?弁当屋さんには用がないのかな。どうしてルークさんの下で止まったの?』


『あいなちゃん、どうしたんだよ!弁当屋さんになれるチャンスなのに!?』


 苗木達が騒ぎ立てる中、あいなは僕の真下にキャリアケースを置くと、公園の出入り口辺りにたむろする子ども達の方へと早足で近づいていった。


「かえしてよお」


 その時、僕の耳に女の子の悲痛な叫び声が入ってきた。

 僕は慌てて目を向けると、あいなの目の前でシャボン玉を飛ばしていた女の子が、顔をしわくちゃにしながら誰かを指さして泣き叫んでいた。彼女の指先には、さっきまで僕のすぐ近くでかくれんぼをしていたはずの男の子達が、代わる代わるシャボン玉を吹いて遊ぶ姿があった。

 男の子達は女の子の叫び声を聞き入れる様子も無く、ひたすらシャボン玉を飛ばし続けていた。


「わたしのだよ。わたしがママに買ってもらったんだよ。ねえ、かえしてよお!」


 女の子は地面の上にうつぶせの姿勢で倒れながら涙を流し、叫び続けた。


「うるっせーな、ガキは黙ってろ。おい、次は俺だぞ!はやくやらせろよ!」


 男の子の一人が女の子に近づくと、足を振り上げ頭を蹴り飛ばした。

 女の子は咳き込みながら、喉が張り裂けそうな位に声を上げて泣き出した。


「やめなさい!」


 あいなは大声で男の子達を呼び止めると、腰に手を当て、鋭い眼光で睨みつけた。


「それ、あなた達のものじゃないよね?あの女の子のものでしょ?」


 男の子達はあいなの睨みにしばらくたじろいでいたが、やがてそのうちの一人がズボンのポケットに手を突っ込みながら鼻で笑い出した。


「違いますよ。僕たちのものを、この子が自分の物だって言って、盗んだんですよ」


 あまりにもふてぶてしい態度と言葉に、僕は驚いた。


「本当に?さっきあの子は、ママに買ってもらったって言ってたけど?」

「それはウソですよ。これは僕たちが持ってきたんです」

「じゃあ証拠を見せて。証拠が無ければ信じることはできないわよ」


 すると、男の子のグループから眼鏡をかけた賢そうな雰囲気の子が、腕組みしながらあいなの前に立ちはだかった。


「証拠って何ですか?すみませんが、お姉さんは警察?それとも弁護士なの?何でそんなことを僕たちに言えるんですか?」


 するとあいなは、突然金縛りにあったかのように体が動けなくなった。

 さっきまで威勢の良い言葉で男の子達を注意していたのに、一体何があったのだろうか。あいなは目を閉じ、大きく頷くと、重い口を開いた。


「私は今……弁護士を……目指してるの」

「え、目指してる……ということは、弁護士じゃないの?」


 男の子達はあいなの言葉を聞いて目を丸くした。


「今は弁護士じゃないけれど、弁護士になりたくて一生懸命勉強してるのよ!こないだ試験を受けたけど、落ちちゃったの!だから、エラそうに『証拠を出せ』なんて言える立場じゃないわよ。でもね、私はあなた達みたいな人達から弱い人達を助けたくて、弁護士を目指してるの!わかる?」


 あいなは全身を震わせ、鬼気迫る表情で絞り出すかのように声を出すと、男の子達はその迫力に押されたのか、徐々に後ずさりし始めた。


「あの人弁護士でも警察でもじゃないけど、何かちょっと怖いよね」「あまり関わり合いたくないから、とりあえず逃げようぜ」とお互いに顔を合わせながらひそひそと話し合った。やがて男の子達は、手にしていたシャボン玉の容器と筒をあいなの手の上に置くと、そのまま一目散にマンションの方向へと逃げて行った。


「あれ……?どうして逃げちゃったんだろう?」


 あいなは逃げ去った男の子達の背中を見ながら唖然としていたが、やがて自分の手の上にャボン玉の容器が載っていることに気付くと、女の子の元に駆け寄り、その手にそっと容器を握らせた。


「ありがとう、おねえさん」


 女の子は笑顔であいなの前で頭を下げると、手渡されたばかりの容器と細長く小さな筒をあいなの手に返した。


「いいの?あなたのものなのに」

「いいよ。ちょっとだけ貸してあげる」

「ありがとう!シャボン玉なんて久しぶりだなあ。ちょっとだけやらせてね」


 あいなは細い筒に口を付けると、大きく息を吐き出した。

 すると、まばゆい光を浴びた丸いシャボン玉が、次々と真っ青な夏空へ舞い上がっていった。


「わあ、すごくきれい」


 あいなが子どものようにはしゃぐ姿を見て、女の子もまるで自分のことのように喜んでいた。


『ヤット、どこが弁当屋だよ。全然違うじゃないか』


『ごめん、聞き間違えってやつだな、アハハハ』


『でもさ、あいなちゃん、さっきまでどことなく表情が暗かったけど、何だか急に明るくなったね』


 苗木達の言葉を聞いて、僕はあいなの顔を見つめた。

 確かに、さっきまでため息をついて落ち込んでいたのに、今は満面の笑顔で、シャボン玉を飛ばしながら子どものようにはしゃいでいた。


「おねえさん、べんごしになりたいの?」

「そうだよ」

「べんごしになるのって、むずかしいの?」

「そうよ。いーっぱい勉強しないとなれないよ。だからお姉さん、毎日夜遅くまでいーっぱい勉強してきたんだ。それなのに試験に落ちたから、もうあきらめようかと思ってたの」

「ふーん……でも、やっぱりべんごしになりたいの?」

「そうね。さっきあなたが男の子達にいじめられてたのを助けた時、やっと思い出したの。自分はどうして弁護士になりたかったのかって。私のお父さん、弁護士だけど、いつも弱い立場の人の味方になって、一生懸命働いてた。私はそんなお父さんをカッコいいと思ってた。そして自分もそうなりたいと思ってた」


 あいなはシャボン玉を飛ばしながら、僕たちケヤキの方をずっと見つめていた。


「お姉ちゃん、私、がんばるからね。弁護士になって、ここにまた戻ってくるからね。それまではお姉ちゃんも、いじめに負けずにがんばってね」

「うん。がんばるよ。やくそくするよ」


あいなは女の子と肩を並べ、小指を絡め合った。

シャボン玉は真っ赤な夕暮れに照らされ、赤く染まりながら次々と空の彼方へと打舞い上がっていった。

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