第108話 ここから、もう一度
五月になり、僕たちの上半身を覆い尽くした若葉が時折吹く風に乗ってさらさらと音を立てていた。
最近は苗木達も沢山の葉を付けるようになり、徐々にケヤキらしい体つきになってきていた。身体が小さく折れてしまいそうだったキングも、身体がしっかり根を張り、他の苗木達ほどではないものの、沢山の葉を付けていた。少し前だったら、キングがこんなに立派になるなんて想像すらつかなかった。
こんな気持ちの良い天気なのに、今日は朝から、髪の長い、得体のしれない風貌の男が、大きなリュックサックと黒く細長いケースを背負いながらうろついていた。顔中は髭で覆われ、浮浪者のようなみすぼらしさと不潔さが漂っていた。
『ねえルークさん、誰なんだろ、あの人?怖いから、追い払ってくれる?』
『バカ言うなよ。僕たちはここで見守ることしかできないよ』
『でも、何だか見た目が怖いし、襲い掛かってきそうなヤバい雰囲気があるし、何とかならないのかなあ?』
僕たちは、何もできないまま浮浪者風の男の様子を遠目に見守っていた。
やがて男はケビンの真下に来ると、ベンチに腰を下ろし、リュックを地面に置くと、水筒を取りだし、ゴクゴクと激しい音を立てて飲み干していた。
飲み終えた後、男は強烈な音を立ててげっぷをして、真上にそびえるケビンに目を向けた。
「お前、大きくなったなあ。あそこに立ってる木も、まだ元気みたいだし。仲間も増えたようで、楽しそうじゃないか」
男はそう言うと、大きなあくびをし、腕を組んだままの姿勢で、居眠りを始めた。
心地よく吹く風、ささやくような音を立てて揺れる木の葉、男性の眠り顔はとても心地よさそうに感じた。
『ケビンさん、そのまま後ろから突き落としてやれよ。今がチャンスだよ。ここにいたら何されるか分からないって思って、どこかに行っちゃうだろうから』
苗木達が男の様子を見ながら、笑いながらケビンをけしかけた。
『ダメだろ、そんなことしちゃ。折角気持ち良く寝てるんだからさ』
ケビンはいきり立った様子で苗木達を怒鳴りちらした。その声に気づいたのか、男は目を覚まし、辺りを見回した。
『ケビン、起こしちゃだめだろ?そんな声出したらびっくりするよ』
僕は男がケビンの声で起こされたと思い、ケビンを諫めた。
『で、でも僕たちの声が人間に届くわけないだろ?』
男は僕たちの声をよそに、その場で立ち上がると、黒いケースから一本の金色に光る細長い物体を取り出した。男は金色の物体に、口を当てて何度も息を吹き付けた。すると、金色の物体からは公園中に響き渡るほどの力強い音が飛び出した。謎めいた物体の正体は、楽器だったようだ。
『あれ?僕、この音、遠い昔に聞いたことがあるな……』
僕は、大分前にこの場所でこの音色を聞いた記憶があった。いつだったろうか?まだ隆也がこの世に居た頃のことだと思うが。
その時、怜奈が孫娘の樹里を連れて、公園の中にやってきた。
母親の芽衣が最近仕事を再開したようで、樹里は祖母の怜奈と一緒にここに来ることが多くなった。
「樹里ちゃん、今日は何して遊ぼうか?」
「鬼ごっこ!バアが鬼だよ」
「ええ?ちゃんとじゃんけんして、どっちが鬼か決めなくちゃだめでしょ?」
「じゃあ、行くよ、じゃーんけん」
「ぽんっ」
「勝った!バアが鬼だよ」
「ええ?ちょっと樹里ちゃん、出すのが早いわよ」
怜奈はじゃんけんの結果に不満そうな顔を見せながらも、すでに遠い所へ逃げている樹里を必死に追いかけた。
樹里は父親のシュウに似て、運動神経は抜群である。芽衣が一緒に鬼ごっこした時も、樹里をなかなか捕獲できないでいた。
「バア、ここだよ!」
「ちょっと、もう少し……抑えて走ってくれる?バアはもう歳なんだからっ」
「だーめ。くやしかったら、樹里をつかまえてみてよ。ベロベロバア~!」
「んも~!樹里ったら!」
樹里は笑いながら、どんどん速度を上げて公園の端の方まで走り去っていった。
やっとの思いで樹里を見つけた怜奈は、「つかまえたぞ!」と嬉しそうに叫びながら樹里の肩を掴んだが、樹里は逃げようともあがこうともせず、全く体が動かなかった。
「あれ?どうしたの?樹里ちゃん。樹里ちゃーん!」
怜奈は樹里の耳元で叫ぶと、樹里はやっと我に返り、怜奈の顔を見ると、全身をこわばらせて怜奈の胸元に飛び込んでいった。
「どうしたの?何かあったの?」
「あのおじちゃん、怖い……」
樹里が指さした先には、ケビンの下のベンチで金色の楽器を拭いている男の姿があった。
「誰なの?あの人……」
怜奈は不審がって、遠目から男の背中を見つめていた。長い髪をかき分けると、あごを覆い尽くした髭が姿を見せ、それを見た樹里は恐怖のあまり泣き出してしまった。
「こわいよお、バア、はやくかえろうよぉ」
怜奈は樹里の顔をハンカチで拭うと、
「ここで待っててくれる?あの人は誰なのか、バアが確かめてくるからね」
「そ、そんなことしたら、バアは殺されちゃうよ。そんなの、やだよ!」
「大丈夫。樹里はここから動かずに待ってて」
そう言うと、怜奈は樹里の瞳を凝視しながら、笑顔を見せた。
樹里は少しだけ気分が落ち着いたのか、うなずくとその場に一人で立ち続けていた。
「あのお、すみません……どちら様ですか?」
怜奈は手入れを続ける男に、後ろからそっと覗き込むような姿で声を掛けた。
男性は目を大きく見開くと、驚いた様子で怜奈を見ていた。
「僕ですか?」
「はい……」
すると男は、手にした楽器を怜奈の目の前に見せた。
「サックスプレーヤーをしている、
「へえ……プロの?」
「はい、一応CDとかも出してます」
「お若いのにすごいわね」
怜奈は瑞樹と言う男を逆上させないためか、おだやかな口調で低姿勢のまま話しかけていた。
「じゃあ、何か演奏してもらえるかしら?私の孫にも聞かせてあげたいし」
「いいですよ。じゃあちょっと待ってください」
瑞樹は両手で楽器を支えると、息を吹きかけながら楽曲を奏で始めた。
ゆるやかな流れるように、そしてどこまでも高く伸びやかな音。優しく包み込むような旋律……。
それらすべてが一体となり、僕たちの心を包み込んでくれているように感じた。
僕は、楽曲を聴くうちに過去の記憶が徐々に蘇ってきていた。
確か、あいなの父親である弁護士が、この公園に遊具を作るために僕たちを伐採する計画を進めており、隆也達が僕たちを守るために署名活動をしていた時のことだ。
音楽家である両親と、その息子である一人の少年が、署名活動の支援のために、たった今瑞樹が演奏している曲を披露した。確かその少年の名前も、瑞樹と言っていた。
演奏を終えると、怜奈は拍手しながら瑞樹に近づいた。
「とても上手ね。そして、すごく優しくていい曲だね。これって誰の曲なの?」
「僕の両親が作ったんですよ」
「両親?」
「僕の父はギタリストの園田啓一で、母はピアニストで声楽家の園田万里子といいます。この曲の名前は、二人で作った『大きなケヤキの樹の下で』というんです」
「え?そ、それって……ここの木のこと?」
怜奈は何かに気づいたようで、曲名を聴いた後、僕の方を振り向いた。
「そうです、ここに立つケヤキの木を題材に作ったんだそうです」
「ええ?じゃあ、ご両親はこの町の人なんだ?」
「はい。両親とも実家はこの近くですよ。二人とも子どもの頃からここに立つケヤキの木を見ながら育ったので、町を離れても忘れることが出来なかった木に想いを込めて作ったんでそうです。そして、二人はこの曲がきっかけでコンビを組んでデビューし、この場所でプロポーズし、結婚したんだそうです」
怜奈は瑞樹の話を聞き、驚きを隠せなかった。
「私、ちょっとだけ覚えてるよ。今は亡くなった旦那と一緒にご両親のコンサートを見た記憶があるわ。あの時は何故この公園でコンサート?と思ったけどね。そうなんだ、あなたはあの二人の息子さんなのね」
「二人のデビュー後の目標は、この場所でのコンサートだったそうです。この曲が生まれたこの場所で演奏したかったと僕に話してくれました」
「素敵なお話ね。そんな両親の影響を受けて、あなたもサックスを?」
「そうです。音楽に取り組む両親の背中を見て、自分も音楽家になりたいって思って。色んな楽器に挑戦しているうちに選んだのがサックスでした。高校生でデビューしたんですけど、全く売れなくって。ある時僕は、今まで両親の力に頼りっぱなしだったと気づいて、心機一転、日本を離れて海外で武者修行してきたんです。向こうでは無我夢中で音楽に取り組んでましたが、そのせいか、色んな事に無頓着になって、気付いたらこんな格好になっちゃったんですけどね、アハハハ」
そう言うと、瑞樹は頭を掻きながら照れ笑いを見せた。
「今日ここに来た理由は、修行を終えて日本に帰国して、プロとして再出発する場所をここにしようと思ったからです。両親にとって原点の場所だし、自分もその時の両親の気持ちになって、もう一度ここから頑張ろうって決意しました」
怜奈は腕組みしながら、じっと瑞樹の話に聞き入っていた。
「わかったよ。じゃ、私たちが観客になるから、早速記念すべき再デビュー最初のコンサートをやろうよ。ねえ樹里もこっちおいで、一緒に聴こうよ。大丈夫、怖くないよ、この人」
樹里はしばらく硬直した様子で瑞樹を見ていたが、笑顔で見つめる瑞樹を見て次第に警戒感が薄れたのか、怜奈の隣に駆け寄ると、隣に立ち、瑞樹をまっすぐ見つめた。
「じゃ、始めますね」
「よろしくね」
瑞樹はサックスを構えると、美しく優しい音色が公園の中に響き渡った。
「『美女と野獣』の主題歌『Awhole new world』かしら?情感があって、すごく上手ね」
さっきまで怖がっていた樹里も、真正面から食い入るように瑞樹の演奏を聴いていた。僕たちケヤキも、観客として瑞樹の演奏をじっと聴いていた。
『いい演奏だね。瑞樹さん、今度はきっと大丈夫だよ』
『そうだよ。それにしても心地いい音色だね。ご両親の演奏を彷彿させるね』
五月の爽やかな風が吹き抜ける中、公園の中では小さな演奏会が続いていた。
この公園で出逢い、曲を作り、結ばれ、生まれた子どもが再びこの公園からプロとしての道を歩み始める……何だか出来すぎた話だけど、この場所で両親の姿も見守ってきた僕としては、演奏を聴きながら過去を思い出し、感慨に浸っていた。
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