第107話 恩師の思い出をたどって
春の日差しが公園の中に降り注ぐ頃、僕たちも強く冷たい北風に耐える季節が終わり、ようやく一息つけるようになった。
暖かくなってきたこともあり、今日はシュウの妻・芽衣と娘の樹里が公園の中に出てきて、一緒に鬼ごっこをしていた。隆也が亡くなった当時生まれたばかりの赤ちゃんだった樹里は、すっかり大きくなり、もうすぐ小学校に入るのだそうだ。
「キャハハハハ、ママ、こっちまでおいで!ベロベロバア~」
「待て~!逃さないわよ、樹里」
樹里は息を弾ませながら、全速力で公園の中を走り回っていた。お父さんのシュウに似て、樹里はなかなか運動神経が良いように見えた。
芽衣の方が、次第に息を切らして時々ふらついているように見えた。
「ちょっと、樹里!もうちょっと手加減してよお。ママ、疲れちゃうじゃん」
「もう、ママのよわむし!もっとはやく走ってよぉ」
樹里はふらつく芽衣の方を見ながら、ひたすら全速力で逃げ回っていた。その時、樹里は突然立ち止まり、そのまま金縛りにあったかのように動かなくなってしまった。
「樹里?どうしたのよ、どうして突然止まっちゃったの?」
樹里は、立ち止まったまま、目の前を通りかかった一人の少女を指さしていた。
背中まで伸びた赤茶色の髪の毛と白い肌、そして大きく青い瞳。どこか遠い所からやってきたのか、荷物が沢山入りそう深紅の大きなケースを片手で引いていた。いつも傍にいる黒い髪に黒い瞳をした家族や友達とは違う人間が目の前を通り過ぎ、その衝撃ゆえに全身が硬直してしまったのだろう。
「ママ、こわい。だれなの?あのこ。かみのけがちゃいろだし、目があおいんだけど……」
芽衣は怖がる樹里を抱きしめ、少し遠くから離れて少女の姿を見届けていた。
少女は何度も首を左右に振って辺りを見渡し、いまいち納得できない様子でそのままケビンの真下にあるベンチに座り込んだ。
ずっと引きずっていた真っ赤なケースから大きなノートを取り出すと、辺りの景色を見渡していた。
橙色のフード付きのコートを羽織り、長く茶色い髪から覗く愛らしい横顔を見せながら、少女はようやく何かに気が付いた様子で立ち上がり、真上に立つケビンを少し離れた所からじっくりと見定めていた。
「C’est ça!(これだわ!これよ!)」
僕は少女の口から出た聞き慣れない言葉を耳にし、驚いた。
彼女は一体何と言っているのだろうか?おそらく今まであった人間達からは聞かされたことのない言葉であった。
少女はケビンを真正面に据えると、大きなノートに鉛筆で何やら走り書きを始めた。コンクリートの地面に腰を下ろし、長い髪が額にかかるのもお構いなしに、一心不乱に鉛筆を動かす様を、芽衣と樹里が遠くからおそるおそる覗き込んでいた。
「樹里、あの子はきっと外国から来たのよ。髪と目の色が違うでしょ?」
「ガイコク?」
「そうよ、この世界には日本以外にもたくさんの国があるし、言葉も違うのよ」
芽衣はそう言いかけた時、両手で口を押えて慌てふためき始めた。
「ヤバい、私英語全然ダメだから、あの子に話しかけられたら何て答えたらいいか分からないわ……そうだ!お義母さんを呼んでこよう。お義母さん、大学の英文学科出身だもんね」
芽衣は樹里の手を引くと、自宅の方向へとそそくさと走り去っていった。
樹里は少女の様子が気になるらしく、後ろ向きに芽衣の様子を伺っていた。
芽衣たちが居なくなってからも、少女は気に掛けることもなく、ひたすら鉛筆を動かしていた。やがて少女は鉛筆を地面に置くと、立ち上がってケビンの真下に置かれた赤いケースの所へと近づき、次々と道具を取り出し、さっき座っていた場所へと戻っていった。
『ねえ、あの子、ケビンさんと俺たちのことを描いてるよ』
『あ、本当だ!ケビンさんが真ん中に居て、その周りに私たちの姿が描いてあるね』
どうやら少女は、鉛筆でケビンのことを描いていたようだ。その周りに立っている苗木達も、しっかり絵の中に収まっているようである。ということは、僕の姿はどこにも入っていないのだろうか?
『ねえ、ケビンは描いてあるのに、僕のことは描いてないの?』
『そうみたい……だね』
僕は仲間外れにされているようである。僕には興味がないのだろうか?それとも僕では見映えしないと思われたのだろうか?ルックスに関してはこの公園で一番だと自負していただけに、僕は肩を落とした。
少女はが道具箱を開けると、色とりどりの絵の具が登場した。この公園に写生に来る小学生の使っている絵の具よりも色の種類が多く、筆の数も一本ではなく何本もあり、本格的に絵を習っているように見受けられた。
少女が鉛筆で描いた絵は、色とりどりの絵の具でまるで写真のように鮮やかな光景となって徐々に姿を現してきた。
『綺麗だね……この町の子ども達が写生会で描いてる絵と全然違う。細やかな所まできちんと描いてるし』
徐々に絵が仕上がっていく様子を、僕も苗木達も感嘆しながら見つめていた。
少女が絵をかき続けている最中に、怜奈が芽衣とともに公園の中にやってきた。
「お義母さん、あの子です!ちょっと変わってるでしょ?こんな冷たい地べたに座り込んで、ずーっと絵を描いてるの」
怜奈は少女の様子を遠巻きに見続けると、やがてゆっくりと近づいた。
「Hey,What are you doing? Drowing these trees?(ねえ、何してるの?この木たちを描いてるの?)」
怜奈は流暢な英語で語り掛けると、少女は顔を上げ、満面の笑顔で「Yes」とだけ答えた。
そして、大きなノートを怜奈の前に差し出すと、怜奈は口に手を当てて驚いた表情を見せていた。
「どうですか?きれいでしょ?」
少女は、片言ながら日本語を話していた。
「え?日本語、話せるの?」
芽衣は少女がたどたどしいながらも日本語を話していたことに驚いた。
「そうです。私の先生が日本人だから、絵だけでなく、日本語も教えてくれるんですよ」
「先生?」
「そうです、この町で生まれたんですよ。小さい頃、この公園で絵を描いていたって言ってました」
少女はコートのポケットから名刺を取り出すと、二人に手渡した。
「イネス・クロード……住所を見ると、フランスのパリってなってるけど?」
怜奈は名刺を見た後、少女に問いかけた。
「そうです。イネスです。パリで美術学校に通ってます。」
そう言うと、イネスという少女はだらりと垂らした長い髪の隙間から笑顔を見せた。
「先生はあそこに立ってる木を描いてたって言ってましたよ。先生の絵、見せましょうか?」
イネスはケースから一枚の絵を取り出し、芽衣と怜奈の目の前にかざした。
「この絵、先生がわたしにくれたんです。この木を描いた絵だって言ってました」
「え?この絵……かなり昔描いたものだよね?」
怜奈は公園の中をぐるりと見渡し、手にした絵と見比べていた。
「今は公園の横にずらりと木が植わってるけど、この絵には描いてないし、隣にマンションが建っていないし」
「じゃあ、相当前ですよね?私がここに来る前に描かれたのかしら?」
「おそらくそうね。あ、絵の真下にサインが入ってるね」
怜奈は絵の下の方に目を移すと、突然「えっ!?」という声とともに、絵を真下に落としてしまった。
「お、お義母さん、この子がせっかく持ってきた絵を落としちゃだめじゃないですか?」
「だって……RINKAってサインが書いてあるんだもん」
「ええ?あの世界的な芸術家のRINKA?」
慌てふためく二人を見て、イネスは「そのとおり」と声を掛けた。
「私、RINKAに絵を習ってるんですよ。彼女、今はパリに住んで、絵を描きながら私たち学生に絵を教えてるんです」
RINKA……この公園でよく絵を描いていた燐花の名前を、僕は久しぶりに耳にした。今も異国で絵を描き、今は若い人たちの指導も行っているようだ。
「彼女は今、元気なの?」
「はい。イギリス人の陶芸家と結婚して、一緒に展覧会を開いたりしてます。私も先生のおうちに行ったことがありますよ」
「へえ、結婚したんだ!幸せそうね」
イネスは電話機をポケットから取り出すと、指を動かしながら芽衣と怜奈に写真を見せていた。
「相変わらず金髪ね。最後に会ってからもう二十年以上経つし、彼女もいいおばさんのはずだけどね」
「旦那さんも背が高くて渋くてカッコいい!見た目、ジョニー・デップみたい」
僕も今の燐花の姿を見てみたいが、芽衣たちの会話から類推すると、昔この場所に来た時と変わらず、元気に過ごしているようだが。
「ねえ、イネスさん。先生は一緒に連れてこなかったの?先生はこの場所が好きだったし、この木たちに逢いたいんじゃないのかな?」
怜奈が問いかけると、イネスは笑顔が曇り、何か考え込んでいる様子を見せた。
「実は先生、病気なんです。だから、ここに来たくても来れないって言ってました。昔は世界中を旅して展覧会とかしてましたけど、今はずっとパリから出ていません」
「ホント?あのバイタリティ溢れる元気な燐花ちゃんが?」
怜奈は驚いていたが、イネスは小声で「sorry」と呟いて、手に持っていた筆をそっと道具箱の中に置いた。
「だから私、先生の思い出のこの場所に来て、先生のために絵を描いてあげたいって思ったんです」
そう言うと、イネスは大きなノートを広げ、出来上がった絵を見せてくれた。
「すごい!写真を見てるみたい」
芽衣はノートに描かれた絵を見て、衝撃のあまり手の震えが止まらなかった。怜奈は、芽衣から渡されたノートを見て、頷きながらノートの隅々まで目を遣っていた。
「そう言えば、燐花ちゃんも写真みたいに精緻な絵を描いていたもんね……」
僕は脇からそっと絵を覗き込んだが、確かにあの燐花を彷彿とさせる絵だった。彼女の絵心は、国を越えて、時代を越えて伝わっているのかと思うと、感慨深いものがあった。燐花の容体が気になるが、僕は燐花の今の状況を知ることができて、それだけで満足だった。
怜奈はイネスに絵を返すと、イネスは大事そうにケースの中に仕舞い込んだ。
「イネスさん、この絵はどうするの?」
「パリに持ち帰ります。先生に見せたいから。きっと先生、喜ぶと思うから……」
イネスの絵を通して、燐花はこの町で暮らした子どもの頃のことを、そして僕たちケヤキのことを少しは思い出してくれるかな?
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