第33話 遺言
すっかり日が暮れ、夕焼けが西の空を焦がす頃、隆也が公園に帰ってきた。
片手にメガホンを持ち、もう片方の手をポケットに突っ込み、上機嫌な様子だった。そして、僕の目の前で歩みを止めると、真下から僕の方を向いて、笑いながら白い歯を見せせた。
「ハハハ、市役所の連中、慌てふためいていたぞ。こないだここで『撤去』とかぬかした課長も、『もう一度検討します』と言って持ち帰ってくれることになったし、あともう一押しだな。お前を絶対に守るからな!もう少し辛抱しろよ」
隆也の声はすっかりしわがれ、枯れる一歩手前という感じだった。
市役所まで、ここに集まった人達と一緒にずっと僕の撤去を反対する声を上げていただろうか。
その時、隆也の妻である怜奈が息子のシュウとともに、僕と隆也の方へと近づいてきた。
「おう、遅くなって悪かったな。お前たちに寂しい思いをさせるのも、もう少しの辛抱だからな」
すると、怜奈は曇りがちな表情で隆也を見つめた。
シュウも怜奈に寄りかかり、今にも泣きそうな顔をしていた。
「どうしたんだ?そんな悲しい顔をして。最近、一緒に遊んだり出かけたりしないからか?」
すると、シュウはぼそっと、消え入りそうな声で隆也に話しかけた。
「おじいちゃんが…死んじゃったって」
「え?お、親父が!?」
「さっき、おばあちゃんが病院から電話してきたよ…」
隆也は、シュウの言葉に衝撃を受けていた。
敬三は先日、隆也が市役所の永池課長に殴り掛かった時、車いすごと体当たりし、その衝撃で突然意識を失い、救急搬送されていた。
その後入院していたが、病院からは軽度の意識障害だと聞いていたので、容体が急変するなど全く想像できなかった。
「ねえ隆也、私から隆也の携帯に着信記録が入ってない?」
怜奈が、訝しげに問いかけた。
すると、隆也はポケットに手を入れ、携帯を探し出そうと何度もまさぐった。
やっとの思いで携帯を取り出すと、青ざめた表情に変わった。
「ああ…もう、5度、いや、6度は着信が入ってる」
「どうして出なかったの?お義母さん、お父さんの危篤の連絡が入って、急いで隆也を連れて行かなくちゃって、必死で探してたのよ。お義母さん携帯持ってないから、私から隆也に電話したけど、全く応じないし。一体どこに行って、何してたのよ?」
「市役所に行ってたんだよ。俺の呼びかけに応じてくれた人達と一緒に、この木を守るよう計画の変更を談判してきたんだ。みんなで大声を張り上げていたし、談判に熱中していたから、着信音に気づかなかったのかもな…」
すると、怜奈はがっくりと肩を落とし、大きなため息をついた後、一言だけ話した。
「牧野総合病院に、お義父さんの遺体が安置されているって。早く会いに行ってあげて」
「ああ、分かった…」
隆也は、憔悴しきった表情で、怜奈とシュウと一緒に公園を後にした。
ああ、何という事だ。この場所に来て間もない頃に出会った敬三が、僕よりも早くこの世を去るなんて。
今の僕の胸の中には、とめどない位の空虚感が溢れていた。
冬の夜、黒い帳が辺りを包み込み、冷たい北風がひっきりなしに吹きすさんでいた。
今夜は大きな満月が東の空に上がり、この公園にもまばゆい位の月明かりが差しこんでいた。
そんな中、黒いダウンジャケットを着込んだ隆也が、月に照らされながら公園の中に現れた。
北風に吹かれてくしゃくしゃになった髪型を気にもせず、ポケットに手を入れたまま、背中を丸めて僕の方へやってきた。
そして、僕の前にあるベンチに腰をかけると、しばらくは無言のままうつむいていた。
僕の方には顔を向けず、背中を丸めて、寝ているのかと思うほど沈黙を続けていた。
僕は、自分の声が隆也に届くかどうかわからないけど、ありったけの声で隆也に話しかけてみた。
『隆也、大丈夫か?お父さんのことは、残念だったね』
「俺は大丈夫だよ。でも、未だに信じられないんだ。親父が、この世を去ったなんて。まだ生きてるんじゃないかって」
え?隆也に僕の声が、届いた?
いや、気のせいだろう。まさか、人間に僕の言葉が届くなんてことは無い。
「死因は、去年の震災で起きた脳梗塞の再発と悪化だったみたいだけどさ、本当に病死なのかなって?俺があの時、市役所の連中に殴りかかるようなことをしなければ、もっともっと生きられたんじゃないかって。あの時、お前のことばかりじゃなく、周りをもっと見ていれば、こんなことは起きなかったんじゃないかってね…今、すごく罪悪感に苛まれているんだよ」
『隆也は悪くない。行き過ぎたとは思うけど、この僕のことを想ってくれたことは、本当に嬉しかったよ』
すると、隆也は、またしても僕の言葉をわかっているかのように、頷きながら口を開いた。
「俺、お前のことを守ろうと必死だったからさ。でも、お前以外にも、守らなくちゃいけないものがあったんだよ。それに気づかなかった俺が悪いんだ」
そういうと、隆也は両腕に顔を突っ込み、嗚咽し始めた。
男であることも気にせずに、中年になった自分の年齢も気にせずに、声を上げて泣いていた。
「俺は、家族という守らなくちゃいけない大事なものに気づかず、それどころか、それを自分の手でつぶしてしまった。それが本当に、本当に悔しくて、情けなくて、やりきれなくて…」
隆也の頬を伝う涙が、月の光に映えて綺麗に光った。
僕は、隆也の眼からとめどなく流れ落ちる涙を、そっと拭ってあげたかった。お前は悪くないんだよって言って、抱きしめてあげたかった。
だけど、ごく普通のケヤキである僕には、ここで隆也が泣き続けるのを見守ってあげることしかできなかった。
しばらくすると、隆也は涙を両手で拭きながら、ベンチから立ち上がり、ポケットから何か袋のようなものを取り出し、僕の目の前に差し出した。
その中には、包装が剥がれくたびれている煙草のケースと、ライターが入っていた。
「昔、俺が中学生の頃、ここで煙草を吸って火事になりかけたの覚えてるか?あの時、親父は俺が吸ってた煙草を取り上げて、『大人になった時に返す』って約束したけど、もう十分大人になったから、返してやるって。もっと早く返してやればよかったのに、忘れていてごめんなって……。親父からの遺言だって、おふくろが言ってたよ」
僕もあの時のことはよく覚えていた。
予想以上に火の燃え広がりが早く、危うく僕の方まで火が燃え移るかと思った。
隆也はケースから煙草を一本取り出すと、ライターで火を付けた。
「うわ、さすがに25年も前の煙草だから、もうフニャフニャだよ。今にも折れそうだ」
隆也は、今にも折れ曲がりそうな煙草を必死の形相で吸い続けた。
「うわ、不味い!ちっくしょう、あの時俺は、何でこんなものを吸ってたんだ?何でこんなのを吸って、突っ張っているつもりだったんだ?全く理解できねえよ」
その時、気のせいか、隆也の顔が突然ハッと我に返ったような表情になったように感じた。
そして、辛うじて折れ曲がる前に全て吸い終わった煙草の吸殻を手にしたまま、隆也は僕の方を振り向き、さっきまでの泣き顔が嘘のような笑顔で、
「親父の通夜と告別式、しっかりやってあげなくちゃな。これが今の俺に出来る、精一杯のことだから」
とだけ言うと、足早に自宅へと戻っていった。
□□□□
数日後、黒い立派な車が隆也の家の前に横付けされた。
黒いスーツを纏った隆也が、数人の男性と一緒に細長く大きな箱を車の中に運んでいた。
背後には、リボンの掛かった敬三の写真を持った君枝の姿があった。
それを取り囲むかのように、真っ黒なスーツや着物姿の人達が整列し、一斉に手を合わせていた。
時折、すすり泣くような声が、風に乗って僕の耳にも入って来た。
やがて車は、ゆっくりと前進し、はるか遠くへと過ぎ去っていった。
『おじさん、あの箱の中に敬三さんが入ってるんでしょ?これでもう会えなくなるんだよね?』
ルークは、遠い目で敬三の乗った黒い車を見送りながら、寂しそうにつぶやいた。
『だろうな。もう、ここに戻ってくることは無いよ』
『敬三さん、朝方に車椅子に乗って公園を散歩するのが日課だったからね。それがもう見れなくなるなんて、何だか信じられないよ』
『まあね。僕は敬三さんが若かった頃からずっと見てきたから、猶更信じられないよ』
ルークの言葉を聞いた時、僕にも、その時が迫っていることに気づいた。
僕がここにいなくなった時、この町の人達はどう思うのだろう?
喪失感に苛まされるのか、それとも、全く気にしないのか。
先程の敬三の葬儀のように、多くの人達が、僕がいなくなったことへの喪失感から悲しみにくれていく姿を想像すると、何とも心苦しい気持ちになった。
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