第34話 独り立ち

 身体の芯から凍える程に寒い12月の朝。

 分厚い作業用ジャンパーを羽織った髪の長い女性が、僕の目の前に姿を現した。この僕の健康管理をずっと続けてきた、樹木医の先生だった。


「おはよ、ケヤキ君。寒そうだね。葉が全部落ちちゃったもんね」


 先生は片手でゆっくり僕の身体を撫で、目を大きく見開いて僕の身体を俯瞰した。


「うん、見た目では何にも異常はなさそうだね」


 そう言うと、今度は両手で僕の身体を揺すって強度を確かめた。


「ああ、また少しふらついてきたわね。ここまでよく耐えられたわねえ。ケヤキ君、私が考えているよりもずっとタフよね」


 タフかどうかは分からないけど、ここ数日の強風で何度も身体がぐらつき、もぎとられそうな感覚になったので、根っこにグッと力を入れてひたすら耐えてきた。


「でもね、もうすぐ楽になるわよ。あなたがここに居られるのは、今週いっぱいまでだからね」


 え?今、先生…僕がここに居られるのは、今週いっぱいまでって言わなかった?

 確か隆也が僕の撤去に抵抗し、市役所でも『再度検討する』って言っていたはずでは?


「こないだね、ここであなたの撤去に抵抗していた隆也って男の人が市役所に来たのよ。もうこれ以上抵抗はしないって。あなたの撤去についても、同意してくれたのよ。おかげで私達の計画は無事に進みそうだわ」


 隆也が?あれほどこの僕を絶対に守るって豪語し、必死の抵抗を続けていた隆也が?僕は自分の耳を疑った。


「あなたとのお別れ、本当に寂しいわ。かれこれ、20年以上あなたを診続けてきたから」


 先生は、僕の真下にしゃがみ込むと、幹をそっと真下から真上にかけてゆっくりと撫でた。


「私もね、今年限りで公園の樹木管理の仕事を引き受けるの、やめようって考えてるのよ。私、もういい歳になったからさ。こういう仕事は元気な若い子達に任せて、私は独り立ちして、研究とかの仕事をしようかなって。もっと私好みのイケメン君な樹木を育てて、市場に供給したいって思うから」


 そういうと、先生は僕の方に顔をそっと近づけ、僕の幹の樹皮に唇を押し付けた。

 先生の突然の口づけに、僕は不意を突かれ、どうしたらよいか分からなかった。

 ただ、唇の柔らかい感触、口紅の甘い香りは、これまで味わったことのない優しさと、幹を優しく撫でられた時以上の愛情を感じた。


「フフフ、ケヤキ君、照れてるわよ。なんだかすごく嬉しそう」


 先生は唇を離し、立ち上がると、今度は僕の幹をゆっくりと両手で撫でてくれた。


「あ、そうそう。私からケヤキ君に、お別れのプレゼントがあるの。どんな中身かは、お・た・の・し・み・に!」


 先生は人差し指を横に振りながら意味深な言葉を投げかけると、笑顔で両手を振って、僕の次に診察を行うルークの方へと足早に去っていった。


 僕が撤去される具体的な日付が、ついに明確に示された。

 しかし、あれほど抵抗していた隆也が、なぜ自ら僕の撤去に同意したのか?その経緯が知りたかった。


 □□□□


 時は足早に過ぎ、僕が撤去される日が、いよいよ翌日に迫ってきた。

 しばらく天気の悪い日が続いていたが、今夜は雲一つなく、満天の星空が広がっていた。

 僕がこの場所に植えられた当時に比べ、周囲の景色は大きく変わったものの、沢山の星が瞬く夜空は、ここに来た当時と全く変わっていなかった。


『おじさん、いよいよ明日だね。ここからおじさんがいなくなるなんて、全く実感がわかないよ。ずっとこの僕のそばにいるものだと思ってたから』


 僕の耳に、ルークのささやく声が聞こえてきた。


『そうだよな。ごめんな、僕も本当はずっとここに居て、ルークとこうして話をしていたかったよ』


『何とかしておじさんを救ってあげたかったけど…何も出来なくて、ごめんよ』


『良いんだよ。その気持ちだけでも嬉しいよ。僕の身体は、これ以上ここで立ち続けるには無理があるっていうのは僕自身が良く分かってたから。遅かれ早かれ、この日が来るだろうと覚悟してたよ』


『ねぇおじさん……僕1人だけで、この公園で立っていけるかな?』


『大丈夫だよ。もうルークは十分に大人のケヤキになったよ。最初の頃は鼻もちならない子どもだと思ったけど、今は違う。ケヤキとして色々な試練も経験したし、もう僕がここにいなくても、悩むことなく十分立っていけると思うよ。今度、僕の代わりにここにやってくる木と、仲良くしてあげておくれ』


『……』


 ルークはそれ以上、言葉を発しなかった。

 すすり泣きのようなものは聞こえてきたが、僕にかける言葉がなかなか浮かばないのだろうか、ずっと無言のままであった。


 その時、靴音を鳴らしながら、ゆっくりとした足取りで暗闇の中から誰かが僕の方に近づいてきた。


「いよいよ、明日だな…お前とお別れするのは」


 低い声を上げながら、暗闇の中から隆也が姿を現した。

 隆也の片手には剣道の竹刀が、そしてもう片手にはお酒の瓶があった。


「今日は、俺なりに最後のお別れがしたくてね」


 そういうと、僕の前にあるベンチに座り、酒の瓶を僕の目の前に見せつけた。


「さあ、今夜は飲むぞ!お前も付き合えよ!」


 隆也は、酒の瓶を口に付けると、喉の音を鳴らしながら酒を流し込むように飲んでいた。


「はぁ~美味い!まろやかで辛口の大吟醸だ!お前も飲め!」


 隆也は、酒の瓶を逆さにすると、瓶を何度も左右に振りながら、僕の根元に酒を振りかけた。やがて、強烈な酒の匂いが、僕の身体を包み込み始めた。


「ガハハハ!美味いだろ?結構高い酒なんだ。別れの酒だから、奮発したんだぞ!」


 そういうと隆也は大声で笑い、再び瓶を口に付けた。

 やがて、隆也は瓶を地面に叩きつけるように置くと、ベンチに腰掛け、白い息を吐きだしながら、独り言を言うかのように呟き出した。


「俺さ、ついこないだまで、お前のことを何が何でも守ろうと、署名集めたり、デモまで起こして市役所に抵抗してきた。今も、出来るならお前を守りたいという気持ちに変わりはないよ」


 え?僕を守りたい?

 ならば、なぜその本心に背き、抵抗することを止めて僕の撤去に同意したのだろうか。


「こないだ親父が死んだ時、俺が昔親父に取り上げられた煙草を返してもらって、ここで吸っただろ?その時、昔の俺は何でこんな不味いものをいきがって吸っていたんだ?と、不思議に思った。でもさ、その時…今の俺だって、あの頃の俺と何ら変わりはしないんじゃないか?と思ったんだ。自分の思いばかり先走って、行政相手に突っ張って、デモとか署名とかやってさ。親父やおふくろの考えなんて全く聞く耳も持たずにね。本当に、自分のしたことが恥ずかしくて仕方がなかった」


 隆也は苦笑いし、満天の星空を見上げながら話を続けた。


「だから俺、親父の葬儀が終わった後、デモを止めて計画にも同意したんだ。内心はすごく辛かったけどね」


 そういうと、隆也は僕の方を振り返り、思い切り深々と頭を下げた。


「ごめんな!お前のこと、絶対守るからって何度も約束したのにさ。結果的には、俺はお前を殺すことに同意してしまった。本当に、本当に、ごめんなさい!」


『もういいよ!隆也の気持ちは痛い程分かった。それよりも、ここまでこの僕を守ってくれて、ありがとう。それだけで嬉しかったよ』


 僕は、いつまでも頭を下げたままうなだれている隆也を見て、出来る限り隆也の耳に届けたい一心で声を上げた。

 すると、僕の声が届いたのか、隆也は突然顔を上げた。


「俺、兄弟居なかったからさ。お前が俺にとって兄弟みたいな存在だったよ。親や友達に言えないことも言ってきたし、弱音を吐くこともあった。時には剣道の練習相手にもなってくれた。だから、別れるのは本当に辛いよ。けど、いつまでも甘えてる訳にはいかないよな」


 隆也の言葉を聞いて、僕は再び、隆也の耳に届くように思い切り声を出した。


『大丈夫だ!今の隆也なら1人でやっていけるさ。今までずっと見てきたから、自信を持って大丈夫だって言えるよ!』


 すると、再び僕の言葉が届いたのか、隆也は大きく二度頷いた。


「これからは、俺一人でここで頑張っていく。お前も、遠い所から俺の事を見ていてくれよ」


 そういうと、隆也は地面に置いた竹刀を持ち出した。


「最後にお願いがあるんだ。もう一度だけ、俺の剣道の練習相手になってほしい」


 隆也は竹刀を持ち、酒に酔っているとは思えないほど真剣な眼差しで僕を見つめると、竹刀を真上から振り下ろした。

 バシッ!

 バスッ!

 鋭い音を立てながら、隆也は僕の幹に竹刀を何度も打ち付けた。

 強烈な痛みが僕の全身を駆け巡った。


「最後だ!面ッ!」


 豪快な面打ちが、僕の幹に炸裂した。

 あまりの痛さに、僕は飛び上がりそうになった。

 すると隆也は、竹刀を地面に投げ捨て、僕の身体を両手で抱きしめた。


「じゃあな。元気でな!俺はお前のこと、ずっと、ずっと忘れないからな」


 その言葉を聞いた瞬間、僕の身体からは自然と樹液が流れ出した。今までずっと、辛抱強くこらえていたのに。


「うわ!なんだこれ?俺のジャンパー、ベトベトじゃん!しかも簡単に落ちないし!このままじゃ、カミさんに怒られちまう!」


 僕に抱きつくうちに、隆也の衣服に僕の樹液が付着してしまったようであった。

 隆也はすっかり酔いが覚めた様子で、酒瓶と竹刀を拾うと、汚れたジャンパーを押さえながら、駆け足で自宅へと戻っていった。

 ごめんよ、隆也。つい感極まって、こらえていた樹液が止まらなくなってしまったんだ……。


 いつの間にか夜が過ぎ、東の空が少しずつうっすら明るくなり始めていた。

 いよいよ、「運命の日」がやってきた。

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