第30話 みんなの想いが繋がる時

 9月最初の日曜日、季節が進んだせいか、あれほど騒がしかったセミ達の声は無くなったが、相変わらず真夏のような強烈な陽光が今日も僕の頭上に降り注いでいた。

 こんな暑い日にも関わらず、隆也は早朝から僕の目の前に現れた。

 そう、いつものように大きな署名簿を首から提げ、ハンドマイクを片手に持ちながら。


「通りすがりの皆さん!このケヤキの木を伐採から守って下さい!皆さん1人1人の力添えが必要なんです!お願いします!お願いします!」


 腹の底から叫ぶような声で、隆也は公園を通り過ぎる人達の顔を見ながら訴え続けていた。

 まだこれから夕暮れまで時間があるのに、今からそんなに大声で叫んだら、倒れてしまうだろうに。

 しかし、隆也はひたすら訴え続けた。

 額を汗で濡らしながら、そして流れ落ちてくる汗をタオルで拭いながら。

 その時、隆也の足元に小さな男の子が歩み寄り、隆也の手の辺りを指差しながら大声で叫んだ。


「パパ!僕にもそれ、かーして!」


 足元に居た男の子は、隆也の息子・シュウであった。

 どうやら、隆也の持っているハンドマイクに興味を示しているようだ。


「シュウはお家に帰りなさい。パパは今、大事なことをしているんだ。ここに立ってる木を守るため、戦わなくちゃいけないんだ。今度、思いっきり遊んであげるから、今日はママの所に行きなさい」


 しかし、シュウは隆也がいくら自宅に帰るように促しても、一向に足元から動く様子は無かった。


「僕も、その木を守りたいの!だから、僕にもしゃべらせてよ!」


 そう言って、隆也の持っているハンドマイクを奪い取ろうとした。


「そうか……じゃあ、ちょっとだけな」


 隆也は、シュウの手にハンドマイクを持たせると、片手でシュウの背中を、そしてもう片手で、重さのあまりずり落ちそうになっているハンドマイクを後ろから支えた。

 すると、シュウは鼻から大きく息を吸い込み、口から何かを吐き出すように一気に叫んだ。


「ぼ、ぼくは、この木がだいすきですっ!いつも、いつも、鳥さんがたくさん集まってきて、楽しそうに遊んでるし、セミも楽しそうに鳴いてます。ぼくも、パパといつもここで虫採りをして、すごくたのしかったです。だから…だから、ぼくは、この木をぜったいに守りたいんですっ!」


 シュウは話し終えると、笑顔でハンドマイクを隆也に返し、背中越しに手を振った。


「はい、パパ、これ返すね。この木のために、またがんばってね」


 あっけにとられた隆也は、ハンドマイクを手にしたまま、生気が奪われたような顔でしばらく立ち尽くしていた。


「さっきのは息子さん?良かったですね。お父さんの気持ちをちゃんと共有できてるじゃないですか」


 隆也が振り返ると、そこには啓一と万里子の姿があった。


「え?あいつが、俺の気持ちを共有…してるの?」

「そうですよ、お父さんの思いを、ちゃんと共有できてると思いますよ」


 二人はにこやかにそう話すと、いつものように背負っていた楽器を地面に降ろすと、組み立て始めた。


「あいつなりに、この木を守りたいと思っていたのかなあ?」

「そうだと思いますよ。あんな小さな子どもにも愛されて、この木は幸せ者ですよね」


 啓一はそう言うと、ギターの弦を何本か鳴らし、万里子は電子ピアノの鍵盤を指で押して、音の具合を確かめた。


「さ、今日も演奏始めましょうか。お父さんは、いつものようにここで署名板を抱えて下さいね。今日も、沢山の人が来ればいいですね」


 そう言うと、啓一と万里子は笑顔でお互いの顔を見合わせ、頷き合い、ゆっくりとしたリズムを刻みながら『大きなケヤキの樹の下で』の演奏を始めた。


 今日もこの公園を行き交う多くの人達が、演奏する二人の周りを取り囲むように集まってきた。

 初秋の心地よい風が吹き抜け、演奏は風に乗り公園の外にも響いているようで、近くの道路を通っていた人達も音を聞きつけ、公園の中に続々と入って来た。


 その時、僕の周りに詰めかけた人垣から離れた所で、一人の少女が、母親らしき女性と一緒に、演奏をじっと見つめていることに気づいた。

 おや?あの少女は…ひょっとしたら、学校の写生会で僕のことを一心不乱に写生していた燐花ではないだろうか?


しばらくすると、燐花は母親の傍を離れ、人垣の隙間から、覗き込むように啓一と万里子の演奏を一心不乱に見つめていた。

演奏が終わると、何かに取りつかれたかのように強張った表情で、母親の元へと再び駆け足で戻ってきた。


「お母さん、わたし、家に戻るね」

「え?どうしたのよ燐花、そんな切羽詰まったような顔して」

「お母さん、こないだここで私が描いた絵を持ってきたいの。この木の下に飾りたいの。家に戻っていいかな?」

「はあ?何言ってんのよ?あんたの絵を置いて、一体どうするつもりなのよ?」

「わたしの描いた絵を見て、この木を守ろうとする人が増えればいいなって思って」

「たかだか小学生のあんたの描いた絵に、そんな力があるわけないでしょ?」

「とにかく、家に戻るから!じゃあね!」

「り、燐花、待ちなさい!」


 燐花は、母親の心配をよそに、公園の外へと駆け出していった。


 燐花に気を取られているうちに、伐採反対の署名を待つ行列は、僕よりはるか彼方の、ルークが聳え立つ辺りまで伸びていた。

 しかし、行列は思ったよりも長くは続かなかった。

 やがて行列は途切れ、その後署名する人の姿は、まばらに現れる程度になった。


「あれ?こないだは夕方近くまでずっと列が続いていたのに…」


 隆也は署名板を持ったまま、首を傾げた。


「もう一度、演奏しましょうか?」


 啓一と万里子は、もう一度通りすがりの人達を振り向かせようと、再度、『大きなケヤキの樹の下で』を演奏し始めた。

 演奏中、何人かの通行人が足を止めて聴いてくれたが、楽曲の演奏が終わる前に署名せずに帰ってしまった。


「どうして?さっきは皆、沢山の人が居たのに」

「みんなもう何度もこの曲を聴いたから、以前よりも心に響かなくなったかもしれないね」


 皆で落胆していたその時、スケッチブックを片手に持った燐花が駆け足でやってきて、隆也の前でぴたりと足を止めた。


「すみません!わたし…この絵を持って、ここにいていいですか?」

「ああ、いいけど…どうして?」


隆也は、突如として現れた燐花に驚き、君は一体何をしたいんだ?と言いたげな表情で尋ねた。


「この絵を飾って、応援したいの。わたしも、この木が好きだから、わたしなりのやり方でこの木を守りたいから」


 すると、見ず知らずの1人の老婆が、燐花の元に近づいてきた。

 署名するためにこの場所に来ていたようだが、まだ小学生の燐花の行動に感銘していた様子だった。


「何て健気な子なんだ!今どきの子どもも大したもんだよね。私らもこの木をずっと見てきたから、切り倒されるなんて断固反対だよ!」


 そう言うと、突然背中を向けて、サンダルの音を鳴らしながら公園を飛び出していった。

 そして数分後、老婆は、友達と思しき同じ齢の女性数人を伴って大きな鉢植えをたくさん抱えて戻ってきた。

 沢山のカラフルな花たちが、僕の周囲に次々に置かれていった。


「どうだい、これで少しは見映えがするようになっただろ?みんなでこの木を守らなくっちゃね」


 工事用のロープに囲まれて殺風景だった僕の周りは、いつの間にか沢山の花に囲まれ、僕を描いたスケッチが置かれ、和やかな雰囲気に一変していた。

 その様子を傍で伺っていた、制服をまとった中高生と思しき男女のグループが、演奏している二人の目の前に足を止めた。


「すみません、僕たちも協力したいのですけど、いいですか?」

「君たちは?」

「近くの高校の合唱部です。僕、学校に通うのにこの公園を通っていくんですよ。いつも眺めているこの木が切られてしまうと聞いて、何とか阻止できないかな?と思いまして。自分たちに出来ることは無いかと、部員同士で話し合った所、皆さんの演奏に合わせて合唱するのはどうだろうか?という意見でまとまり、ここにやってきました」

「わあ、すごーい!ありがとう。ぜひ一緒に唄ってほしいな」


 万里子は、口元を押さえながら歓声を上げた。

 啓一は、しばらく照れくさそうな表情を浮かべていたが、ギターを持ちなおすと、


「ありがとう。歌詞カード、あいにく1枚しかないけど、皆で見せ合いながら唄ってよ。僕のギターの音に合わせて声を出してね」


 と言い、前奏部分をゆっくりとつま弾き始めた。


 ピアノとギターの旋律に合わせ、若い男女の見事なハーモニーが公園中にこだました。

 すると、先程まで途絶えていた署名の列は、再び後ろへと伸び始めた。


 美しい旋律、想いに満ちた歌が響き渡り、僕の全身を描いたスケッチを持った燐花が居て、色とりどりの花が並び、一生懸命署名を訴える隆也の姿があり……

 この風景を、二度と忘れたくはない。

 僕は、僕に対して想いを寄せる、ここに集まったすべての人達に向かって、全身全霊を込めて叫んだ。


『みんな、本当にありがとう!僕もみんなのことが大好きだよ!』


 でも、誰も僕のことを振り向かなかった。ケヤキの木である僕の言葉が、彼らに届くことはなかった。

 けど、僕はそれでも良いと思った。

 ここにこうして立ち続けていくことが、彼らの気持ちに応えることだと思っているから。


 しかし、彼らの気持ちに、これからもずっと応えていける自信は無かった。

 予定通り、除去されるのか?このままこの場所に居られるのか?タイムリミットは、刻一刻と迫っていた。

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