第29話 願いよ、届け!

 夏の週末、朝からミンミンゼミがけたたましい声で僕の幹の上で鳴き始めた。

 残り少ない自分の命の終わりを知っているからか、それとも僕との別れが名残惜しいのか、いつも以上にその声は鋭く、激しかった。

 そして、僕の目の前には、今日も隆也の姿があった。

 小さな拡声器を手に、セミ達に負けずとも劣らぬ声で公園を行き交う人達に署名を呼び掛けていた。


「去年の地震で、このケヤキの木は損傷を受けました。だからと言って、市は私たち地元住民に相談もせず、伐採する方向で計画を進めています。この木に見守られながら僕たちはこの地で育ちました。そして今日のような暑い夏の日も、寒い冬の日も、ケヤキの木はずっとこの公園に立ち続け、僕ら住民に安らぎの場を作ってくれました。だからこそ、この木を伐採するなんて、絶対に許せない!この木を守るために、僕と同じような思いを持つ皆さんの署名が必要なんです。どうか、1人でも多くの皆さんの署名をお願いします!」


 隆也の叫びは、毎度ながら僕の胸を打ち付けた。

 叫ぶ言葉の1つ1つには、僕を想う気持ちがひしひしと伝わってきた。

 しかし、公園を行きかう人達は誰1人とも見向きもしなかった。


『おじさん、あの人がおじさんを想って一生懸命叫んでいるのはわかるけどさ…どう見ても、中年の男の人が朝から1人で必死な形相でがなり立てて、薄気味悪い、近寄りがたい、程度にしか思われていないんじゃないかな?』


 必死に叫ぶ隆也の様子を、ルークは冷静に見ていた。

 確かに、隆也の言葉は長くこの地域に住んでいる人や、昔からこの公園を通っている人ならば、多分、心に響くと思う。

 しかし、それ以外の人達の心にはいまいち響いていないように思えた。

 自分の思いが強すぎて、必死の訴えが一方通行になってしまっているようであった。


「ちくしょう、どうして、誰も俺の言葉を聞いてくれねえんだ…」


 隆也は疲れ果てた表情でしゃがみ込むと、ペットボトルの水を一気に飲み干していた。その後、ぐったりとうなだれたまま、タオルで汗にまみれた顔を拭いていた。


 僕をこんなに想ってくれている隆也。

 僕が声を出せるなら、心から「ありがとう」と言いたい。

 でも、何も言えないし、何もできない。

 いつものことではあるが、こんな時にはケヤキの木である自分を恨みたくなる。


 その時、隆也の手前で、背中に大きな黒いケースを抱えた二人の若い男女が足を止めた。

 二人はしゃがみ込み、ずっとうつむいている隆也の隣に座り、うつろになっている隆也の目を見つめた。


「あの…大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫だよ、ちょっと休憩しているだけさ。またこれから、署名をもらうために訴えるつもりだよ」


 二人の若者は、僕を題材に楽曲を作っていた啓一と万里子だった。

 抱えている大きなケースはおそらく楽器で、今日はおそらくこの場所で楽曲の音合わせをする予定だったのだろう。


「何の署名ですか?」

「ああ。この木を守るために、1人でも多くの署名が必要なんだ」

「署名簿…見せていただけますか?」


 隆也は、傍らに置いていた署名簿を二人に手渡した。

 啓一は目を凝らして名簿に目を通すと、怪訝そうな表情で首を傾げた。


「あれ?まだ、たったの5人ですか?」

「そうだよ。それも、近所の顔見知りの爺さん婆さんだけだよ。あとは俺が必死に訴えても、誰も見向きすらしてくれなくて」

「じゃあ、僕たち、署名しますよ」

「え?あんた達が?」

「そうです。僕たちもこの近くで生まれ育ったんです。僕はギタリスト、彼女は声楽家をめざしてるんです。僕らもこの木を見て育ったので、この木にはすごく思い入れがあるんですよ」

「そうなんだ…ありがとな」


 万里子は肩に背負っていたケースを降ろし、中に入っていた電子ピアノを組み立てると、隆也の持つ署名簿に二人分の名前を書いた。


「今日、私たちは久しぶりに一緒に演奏しようと思ってここに来たんです。この木のために、曲を作ったんですよ」

「え?この木の…曲?」

「そうです。『大きなケヤキの樹の下で』という曲です。よろしければ、お聴きいただけますか?」


 隆也は曲名を聞いてちょっと驚いた表情を見せたが、楽曲を聞くことについてはまんざらでもなさそうな様子だった。


「まあ、いいか。じゃあちょっと聞かせてみてよ」

「さあ、お聴きください」


 夏の強烈な日差しの下、万里子の奏でる切ないピアノの旋律と、啓一のつま弾くゆるやかで抒情的なギターの音色が響く中、ハイトーンの女性ボーカルが入り始めた。


『…いつものように 彼はここにりりしく立っている

 何も言わないけれど 何もしないけれど

 ぼくたちを ずっと ずっと 見守ってくれてる』


 万里子が唄い終え、フウと息を吐きだして胸を押さえていた時、隆也は目頭を押さえ、鼻をすすりながら嗚咽していた。


「おい、何でこんな悲しい曲、作ったんだよ…思わず泣いちまったじゃねえかよ!」


 万里子は、楽譜を畳むと、泣きじゃくる隆也に寄り添うかのように優しい声で語りだした。


「そうですよね……気持ちは分かります。私も最初、自分で唄って涙が止まりませんでしたから。この曲には、私たちなりの、この木に対する思い入れがいっぱい詰まってるんです」

「思い入れ?」

「そうです。私たちも、このケヤキの木に見届けられながら成長し、町を出て、再び戻ってきました。でも、変わらずこの木はここに立っていました。木を見て、木に見届けられて…私たちの人生には、いつもこの木が存在していたんです」


 隆也は、万里子の言葉を軽くうなずきながら聞き入っていた。

 しかし、その横顔には、どこか物哀しさを感じた。


「でもさ、俺たちにとって思い出の詰まったこの木は、もうすぐ伐採されるんだってさ」

「知っていますよ。僕らなりに、何とかしたいという思いはあるんですけどね」


 啓一は、隆也の言葉を聞いて、額に手を当て軽くため息をついた。

 その時、啓一は何かを閃いたようで、突然手を叩き、目を見開いて隆也の方を振り向いた。


「そうだ!僕ら、これから今の曲を演奏しますから、あなたはその隣で署名を呼び掛けてくれませんか?署名が集まれば、市役所も少しは考え直してくれるんですよね?」

「まあ…おそらくは、な」

「だったら、僕らも喜んで協力しますよ!」


 そう言うと、二人は再び『大きなケヤキの樹の下で」を演奏し始めた。

 ゆるやかな旋律が流れる中、隆也は署名簿を持ってその隣に立った。


 やがて、公園を散歩していた家族が足を止めた。

 その目はじっと、演奏する二人の方を向いていた。

 さらに、同じく散歩中の老夫婦が足を止め、目を閉じて演奏に聞き入り始めた。

 その後、演奏を見届ける人の数は5人、10人、いや、20人近くになっただろうか?

 後ろの方まで見渡すと、いつの間にか、二重三重の人垣が出来上がっていた。


 演奏が終わり、啓一と万里子が頭を下げると、嵐のような盛大な拍手が沸き起きった。


「ありがとうございます。僕たちの演奏した曲は、後ろに聳えるこの木をモデルにしています。しかし、この木は昨年の地震で被害を受け、もうすぐ切り倒されてしまいます。それを阻止するには、みなさんのお力添えが必要なんです。どうぞ、協力できるという方は署名をお願いします!」


 啓一が隆也の方を振り向きながら言うと、啓一と万里子を取り囲んでいた人垣は、一気に隆也の目の前に押し寄せてきた。


「署名するよ!そう簡単に伐採なんかさせてたまるか!」

「私も微力ですけど、協力します」

「この木、こんなに立派なのに、どうして伐採する必要があるの?俺たちが署名して守るからな。知り合いにも、署名するよう声掛けてくるからな!」


 あまりにも多くの人達が隆也の周りに押し寄せたため、啓一と万里子は慌てて駆け寄り、列を作って並ぶよう呼びかけた。


「押さないで!ここに一列に並んでくださ~い。大丈夫、皆の声はちゃんと市役所に届けますから、慌てないで並んでくださいね」


 行列は、あっという間にルークの立つ公園の端まで繋がっていった。

 列は、しばらくの間途切れることが無かった。


『すごい!おじさんのため、こんなに沢山の人が並んで署名しているなんて』


 ルークは、興奮気味に僕に語り掛けた。


『ああ、僕自身が驚いてるよ。何だか、夢を見てるみたいだよ』


『これ、ひょっとしたら、奇跡が起きるかもしれないね』


『だと、良いけどね…』


 僕は、延々とどこまでも続く行列を、まるで夢でも見ているかのように半信半疑で眺めていた。

 この人達の気持ちは、果たして行政に届くのだろうか?

 これだけの人が応援してるんだから大丈夫だろう、という思いと、自分の「身体」の現状を考えると、現実は受け入れなければいけないのでは?という思いもあった。


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