第31話 談判の結果
暑かった夏が遠ざかり、朝晩はすっかり冷えるようになった。
今年は幸いにして台風が少なく、去年のように危うくもぎ取られてしまうような嵐が吹き荒れることも無かった。
しかし、時折強風が吹きつけると、以前よりも体がふらつきを感じ、生きた心地がしないことも確かであった。
ある朝、隆也が珍しく立派なスーツを着込み、大きなスーツケースを片手に僕の方へ近づいてきた。
僕の真下にあるベンチにケースを置くと、ケースから分厚いファイルを取り出し、まるで僕の目の前に差し出すかのように、ベンチの上に置いた。
「見ろよ、このファイル。全部、お前を守りたいという人達からの署名だぞ」
ファイルには何ページにも渡る署名簿が綴られており、隆也は僕に見せつけるかのように、誇らしげにページをめくっていた。
「一応全部数えたけど、1万人は超えてたぞ。これだけでも、ちっぽけなこの町では十分な数字だよ。これに加えて、地元町内会からの陳情書もあるからな。これから、市役所に行って提出して来るからな。役所の奴らめ、目にモノを言わしてやるぞ!」
そう言うと、隆也は青空に向かって高笑いした。
「じゃあな、お前のことは、俺が絶対に守るから、安心しろ!それに、これだけの人たちが、お前を伐採させないという後押しをしてるんだ。役所も、大多数の市民を敵に回すようなマネはできないだろうからな」
隆也は署名簿をスーツケースに仕舞うと、額に片手を当てて微笑み、靴音を響かせながら公園から歩き去っていった。
隆也は、啓一と万里子とともに毎週末になると、僕の目の前で署名活動を行った。
途中から小学生の燐花、そして近くの高校の合唱部も加わり、賑やかさを増した。
その効果もあって、署名する人の姿は途切れることが無かった。
隆也がこの場所に立ち始めてから1ヶ月、いや2ヶ月位経っただろうか?
万里子が大学に戻らなくてはならず、音楽による支援活動が出来なくなったことをきっかけに、隆也も長く続けてきた署名運動をようやく打ち止めにしたようだ。
最初は立ち寄る人も無く、署名簿に空白が目立っていたものの、最後の1ヶ月は、署名簿がびっしりと埋め尽くされるようになった。
数日後、作業服を纏った4~5人の男性が僕の方へと歩み寄ってきた。
うち一人の眼鏡をかけた男性の顔に、見覚えがあった。
以前、樹木医の先生と共に隆也の話を聞きに来た、井口という市役所職員であった。
おそらく、隆也から署名と陳情書を渡され、僕の状態について再度調査せざるを得なくなったのだろう。
作業服の男性のうち2人は、大きなシャベルを用意していた。
彼らはまず、僕の周り置かれた植木鉢を動かすと、シャベルで根っこの辺りを深く掘り下げた。
根元が露出すると、男性たちはカメラでその様子を撮影したり、根を手に取って状態を確認したり、幹をゆすって強度をたしかめたりしていた。
「
「うーん、まあ、去年の地震で地盤が緩くなったからね。公園の地盤はしっかりさせないと、ちょっとこのままではねえ……」
課長と呼ばれた白髪まじりの中年男性は、しばらく顎に手を当てたまま、熟考している様子だった。
「
課長は、丸っこい眼鏡をかけた、顎のしゃくれたシャープな雰囲気の職員に問いかけた。
「所々地盤が隆起して、根が圧迫されていますね」
眼鏡の男性はしゃがみ込んで、掘り返してできた穴の中をじっと覗き込んでいた。
そして、ポケットからカメラを取り出すと、根っこの先の部分に近づけ、何枚も写真を撮っていた。
「根っこの部分がある程度無事ならば…と思うんですが、まあ、この部分も含めて色々な可能性を検討することが必要でしょうね」
早田という眼鏡の男性は、他の職員よりも土壌や樹木の生育に詳しいようである。
その時僕は、作業服の男性たちが僕の身体を調査している様子を、遠目から見ている人たちがいることに気がついた。
目を凝らして眺めると、隆也の両親である、敬三と君枝であった。
二人は、職員たちが道具を片付けて公園から離れようとしたのを見計らって、君枝は敬三の乗った車椅引きながら、僕の方へと近づいて来た。
「あの…すみません。お聞きしたいことがあるのですが」
君枝は、やっと聞こえる程度のか細い声で男性たちに声をかけた。
「この木は、もう切られてしまうんでしょうか?」
すると、課長の永池が、笑顔を浮かべながら回答した。
「大丈夫です、今日は調査に来ただけですから。最終的にどうするか、年末までには方針を決めたいと思います」
「そうですか……ごめんなさいね。うちの息子が勝手なことばかりして」
「息子…さん?」
「そうです。隆也のことです。皆さんの所に署名を持っていったでしょ?」
「ああ!先日署名簿を持っていらした男性の、ご両親でしたか~…」
「本当に、ごめんなさいね。皆さんだって、この木を切りたくて切りたいわけじゃないんでしょうけど、いつまでもこのままにしておけないものね。その気持ち、私たちも良く分かってますよ、ね、お父さん?」
すると、敬三は皺だらけの笑顔で、ゆっくりと頷いた。
「でも、地元から陳情書も出ていますよ?皆さんもこの木を保護することに賛同してるんでしょ?」
「いや、あれも、隆也が区長さんに掛け合って半分強引に進めていたんですよ。確かに、町内でもこの木を切ることに反対する人は多いけど、このままにしておくと危ないという意見も少なからずあったんですよ」
「え?そ、そうなんですか?」
「うちの息子の気持ちは、よーくわかってますよ。小さい頃から、この木を見て育ってきたんだもの。きっと、この木との思い出がたくさん残っているに違いないわ。私たちもね、この木の下でデートして、お父さんに告白されたのもこの木の下でした。本当に色んな思い出が詰まっています。だからね、本心では、もしこの木が守られるのであれば、守ってほしい、と思っています。けど…仮にもしこの木が切られたとしても、この木との思い出を私たちの記憶の中でずっと忘れず、大事にしていけばそれでいい、と思ってるんですよ」
そういうと、敬三は、口を開いて、何やらもごもごと話し始めた。
「俺は…この木とともにここまでこの場所で生きて来れて…ほんとに、十分に、しあわせだったよ…だからさ、いつ別れてももう悔いは…ないんだ」
君枝は、ハンカチで目頭を押さえながら、うんうんと頷いた。
「ごめんなさいね。お仕事中、足を止めてしまって。隆也の勝手な行動で、余計な仕事を増やして、親として謝らなくちゃいけないと思っていたから」
「いや、いいんですよ。この木を何とかして守れないか、というのは私どもも以前から思っていたので。だから今、色々と方法を模索してた所だったんです。今日は、皆さんの率直なご意見を伺えて、嬉しかったです」
そう言うと、職員たちは頭を下げ、公園から足早に去っていった。
彼らの背中を見ながら、君枝は深々と頭を下げていた。
『あの夫婦、さっきから何言ってるんだ?おじさんの命が奪われるのをただ黙って見過ごせと言うのか?余計なことを役所にしゃべらないで欲しいよな』
ルークは、憮然とした様子でまくし立てていた。
僕は、ルークが怒る気持ちは十分に分かる。
隆也達がやってきた署名運動を通して、沢山の人達が僕に想いを寄せ、僕の事を守ろうと必死に訴えてくれた。
ルークは、言葉を発することも行動することもできないけど、彼の気持ちはここで僕を応援してくれた人達と同じだった。
皆が僕を守ろうと一生懸命頑張ってくれて、僕はこの場所に立ち続けて本当に幸せだと思った。
□□□□
12月に入り、肌寒い北風が、朝早くから僕の身体に突進するかのように吹き付けていた。
僕の枝からは葉が全て落ちてしまい、上半身はすっかり寂しい姿に変わっていた。
こんな寒い日にも関わらず、先日僕の身体を点検に来た市職員の永池課長、早田、井口の三人、そして僕をいつも診続けてくれている樹木医の先生も一緒にやってきた。
しばらくすると、仕事用の作業衣の上にダウンジャケットを着込んだ隆也が現れた。
「今日は忙しい所…呼び出してしまってすみません」
「いや、気にしなくていいよ。ようやく署名に対する役所側の結論が出ると言うからさ、仕事休んで待ってたよ。で、どうなったんだい?結論を聴かせてもらおうか」
「わかりました。それでは我々の結論を申し上げます」
「おう、どうぞ発表してくださいよ。とりあえず、伐採は保留だろうな?どう考えても、保留以外の選択肢は無いはずだよ」
永池課長は手帳をめくり、淡々とした口調で2か月間検討してきた結論を述べ始めた。
「検討を重ねた結果、この木は、今月いっぱいでこの公園から撤去することになりました」
「な、なんだって!?」
その瞬間、隆也の顔は青ざめ、まるで全身の力を奪われたかのように、ふらついてその場に座り込んでしまった。
僕の対面に聳えるルークは、ショックのあまり、僕にしか聞こえない悲鳴を上げた。
そして僕は、自分の命の終わる時期を告げられ、いよいよ覚悟を決める時が来たと悟った。
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