第9話 不安に苛まされた夜

 冬本番を迎え、強烈な北風が吹く中、隆也が僕の傍を通り、自宅へと向かっていた。

 最近は夜遅くまで塾に通い、家に戻る時はすっかり辺りが闇に包まれていた。


 最近は、僕を相手に竹刀を振るうことはめっきり少なくなった。

 もちろん、叩かれて痛い思いをすることも減って僕自身は一安心だが、こうも無視され続けると、却って寂しい気分になる。

 隆也は剣道の大会が終わってから、ようやく受験勉強の本腰を上げたが、どの程度進んでいるんだろうか?彼は意思が弱いので、些細なことで挫折感を味わい、諦めてしまう傾向があるので、そこが心配である。


 本当は、彼の家に行って、気合入れてあげたり、付き添って勉強を教えてあげたい気分であるが、案の定僕はケヤキの木であり、ここから動くことが出来ないし、それに、勉強を教えたくても、勉強そのものをやったことがない。

 だから、今の僕が出来ることといえば、彼が僕の傍をすれ違う時、彼の背中に向かって『がんばれよ!』とささやくことくらいだろうか?その言葉も、彼の耳にちゃんと届いているかは分からないけれど。


 ある日、隆也は塾の帰り道、夜中の公園をいつものようにとぼとぼと歩いていた。

 通常であれば、僕の傍を通り過ぎて自宅に戻り、食事して再び受験勉強に取り掛かるのであるが、彼はふと、僕の前で歩みを止め、後ろを振り返って僕の方を見つめた。


「俺、無事に合格できるのかな?来週、いよいよ試験だけど……不安で仕方なくてさ。必ず受かると思って勉強しているけど、時々、本当に受かるのかな?って思うこともあるんだ」


 隆也は、ちょっと物憂げな表情で、僕の方に語り掛けてきた。


「剣道の試合では、お前を相手に一生懸命練習したから、お前が一緒に戦ってくれてると思うと、不安を感じなかった。けどさ、受験勉強は俺一人じゃん?一人で戦うのって、寂しいし、不安なんだよね」


 隆也の言葉からは、とてつもない不安な気持ちが伝わってきた。

 ここまで、ひとりでずっと受験勉強を黙々とこなしていた隆也であったが、試験本番を前に不安な気持ちになり、誰にも話せず抱え込んでいたのだろう。


 思い返すと、僕が初めてこの公園に来た時、仲間と別れ、ひとりぼっちになった。

 あの時も、僕一人でここで生きて行けるか、不安な気持ちに苛まされる毎日だった。けど、何とかなるさと思えるようになってから、いつのまにか不安な気持ちが無くなり、結果的に僕はここまで生きてくることが出来た。

 だから、隆也も心配するな。不安な気持ちはわかるけど、結果オーライ、何とかなるからさ。今は目の前の試験をがんばれよ!

 自分のケヤキとしての経験をもとに、彼に言葉をかけてあげた。

 もちろん、ケヤキである僕の言葉が、彼の耳に届かないだろうけど……彼の不安な気持ちを、少しでも取り除いてあげたかった。


 すると、隆也は両手を上に伸ばして、僕に背を向けた。


「ああ、自分は何悩んでるんだろ?さ、あともう少しだ!今日も遅くまでがんばるかな」


 そう言うと、息を弾ませながらそそくさと自宅へと走り去っていった。

 あれ?僕の言葉、隆也に届いたのかな?それとも、独り言?

 とにかく、彼の不安が少しでも解消したのであれば、僕も嬉しいけど。


 長く寒い冬がようやく終わり、僕の足元にはたんぽぽの黄色い花が顔を出した。

 公園を行き交う人達は、マスクを付けて時折くしゃみをしながら鼻をすすっていた。最近、大量のスギの花粉が山々から風に乗って舞い降りてきて、その刺激から風邪のような症状になる人が続出しているようである。


 そんなある日、隆也が憂鬱そうな顔で僕の傍を通り過ぎていった。

 彼も花粉症なのだろうか?いや、その割にはマスクもしていないし、くしゃみも鼻水も出ていない様子である。

 同じ頃、制服を着た少年が、友達と嬉しそうな顔で談笑しながら通り過ぎていったかと思えば、目頭を押さえ、母親になだめられながら通り過ぎていく少女の姿があった。

 どうやら、今日は高校の合格発表が行われているようである。

 思い起こすと、去年の今頃も、同じような悲喜こもごもの光景があった。

 ということは、おそらく隆也は、合格発表を確認に向かったのだろうか?

 無事合格できていると良いが、万一、不合格の時には、一緒に泣こうかな?いや、何か慰めの言葉でもかけてあげようかな?と、色々思いを巡らせた。


 しばらくすると、隆也が僕の傍を猛ダッシュで通り過ぎて行った。

 彼はそのまま自宅に戻り、勢いよく玄関の扉を開くと、そのまま家の中に入っていった。

 その時、おそらく君枝と思われる声が、僕の方にも聞こえてきた。

 その声は、思い違いでなければ、歓喜の声であった。


 夕暮れ時、隆也はズボンのポケットに手を突っ込んだまま、僕の近くまで歩み寄ってきた。

 その顔は、朝方の不安に満ちた顔ではなかった。

 満面の笑みを浮かべながら、ゆっくりと足を進めていた。


「ありがとな。おかげさまで、志望校に合格したよ」


 おお、おめでとう!隆也。君だったら絶対受かると思っていたよ。

 部活動で十分に時間を取れなかったけど、無事間に合ってよかったね。

 高校でも、また剣道と勉強、がんばるんだぞ。


 すると、隆也は照れ笑いしながらも、背中を向けて自宅へ戻っていった。


「今日はこれから家族がお祝いしてくれるんだってさ、腹いっぱい食うぞ~!」


 そう言うと、隆也はちょっと早歩きで公園の中を歩き去っていった。

 その時、突然「クシュン!」と大きなくしゃみの音が聞こえた。


「やべえ、マスクするの忘れちゃった。クシュン!グスッ!」


 どうやら隆也も、花粉症に悩まされていたようである。

 でも、良かったじゃないか?同じ不安でも、花粉症ならあと数週間の辛抱である。

 しかし、母親に背負われた赤ちゃんだった隆也が高校生になるなんて、時が経つのは本当に速いものである。

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