第8話 汗と涙にまみれて
夏になると、僕の木にはミンミンゼミが多く集まってくる。
耳をつんざくような強烈な鳴き声で、僕は鼓膜がやぶれそうになる。
彼らの一生は1週間そこらだし、短い生涯、思いっきり鳴かせてあげようか、と思っていても、やはり煩い鳴き声は耐え難い。
そうそう、耐え難いものといえば、もうひとつ。
近所に住む隆也は、所属する剣道部の夏の大会に向けて、朝と晩に僕を相手に面打ちの練習を続けている。
一時期はレギュラーになれず、ひねくれて剣道から遠ざかったものの、そこから気を取り直して練習に励み、3年生になった今年、やっと試合に出してもらえるようになったようである。
隆也は夏の大会に勝つべく、部活動の朝練や放課後の練習だけでなく、朝晩も僕を相手に練習をしている。
振り下ろされる竹刀が僕の体に炸裂するたびに、体中に衝撃が走ったが、僕の体は昔のように軟じゃない。幹も大分太くなり、多少の衝撃程度ではそれほど痛みを感じることもなくなってきた。
それに、もやしのように細くひ弱で、いつもいじめられていた隆也が、剣道の大会に勝つという目標を目指して日々必死に頑張っている姿を見ると、それならばとことんまで付き合ってやるか……!と、思えるようになった。
朝も早くからセミが鳴き続ける夏の日、隆也は早朝には僕の前に姿を現し、ひたすら僕の体を打ちまくった。
額からは滝のような汗が吹き出し、体中から発せられる熱気は僕の体にも伝わってくる位だ。
夜、ひぐらしが鳴く頃になると、練習から帰ってきた隆也は再び僕の前で竹刀を構え、何度も打ちまくった。
そこにいるのは、いつまでも親離れできず自信なさそうな顔をしていた隆也、レギュラーになれず一時は諦めてグレかけた隆也ではなかった。
そして大会当日、隆也は道着を身にまとい、竹刀を持って玄関から出てきた。
君枝が玄関から出てきて、弁当を手渡した。
「大きいおにぎりを入れといたからね。これ食べて、試合では力を出し切ってきなさい。勝つのが一番だけど、負けても、決して落ち込まないで。隆也がここまで頑張ってきたことは、私もお父さんも、ちゃんと認めてるから」
「ありがとう母さん。嬉しいけど、今から負けたことを考えたくはないんだ。やるからには、勝ちたいからさ」
「そうよね……ごめんね。じゃ、いってらっしゃい」
「いってきます!」
隆也は、弁当を片手に公園を通り抜けると、駆け足で中学校の方へ走り去っていった。ここまでの練習の成果が十分に発揮できることを、僕もこの場所から祈るとしよう。
夕方、僕の体にとまったひぐらしが鳴き続ける中、隆也が姿を見せた。
竹刀を担いだまま、無言で自宅の玄関に向かい、中に入っていった。
果たして結果はどうだったのだろう?
ただ、彼の様子を見た限りでは、思うような結果を残せなかったのかな?と感じたが……
夜のとばりが辺りを覆い、コオロギが鳴く声が響く中、隆也が玄関の戸を閉めて、突っ掛けを履いたまま、こちらへと向かってきた。
試合でケガをしたのだろうか?指の付け根の辺りに、包帯が巻かれていた。
彼はしばらく僕の方をじっと凝視していた。
やがて、その表情が次第に崩れ、大粒の涙が流れ出てきた。
「ごめんな。あんなに練習したのに……負けちゃったよ。一生懸命戦ったんだけど、あと一歩、及ばなかったんだ。お前には、痛い思いをいっぱいさせたのに、勝てなくて、本当にごめんな」
そういうと、隆也は僕の体を撫で、やがて両手でしがみつき、声を上げて泣き崩れた。
僕が人間のように手が利けば、この手で隆也を抱きしめ、撫でてあげたかった。
そして、「お疲れ様、ここまで本当によくやったよ。僕のことは気にすんなよ」と声をかけてあげたかった。
けど、僕はケヤキなので、何もしてあげられないし、声をかけてあげることが出来なかった。
隆也は、ひたすら僕の幹の辺りを撫でまわした。
朝と晩、自主練習で何度も何度も竹刀を打ち付けた辺りだ。
僕のことはもういいんだ、叩かれた時はすごく痛かったけど、もういいんだ。
君はこんなに立派になったじゃないか?ひ弱で親に頼ってばかりのいじめられっ子じゃないんだ。君のお母さんも言ってたけれど、ここまで頑張ったことは、僕がちゃんと見届けていたから、自信もって前を向きたまえ!
僕の言葉は彼には届かない。けれど、それでも僕は泣きじゃくる彼の耳元で、そうささやいた。
やがて、隆也は涙を拭くと、僕の前で頭を下げ、ニコッと微笑んだ。
そして、くるりと背を向け、自宅に向かって走り去っていった。
去り際に、一言だけ言い残して。
「さあ、明日から受験勉強、がんばるかな。出遅れちゃったから、急がないとな!」
あれ?僕のささやきが、隆也に届いたのだろうか……?
でも、僕は隆也の言い残した言葉にひと安心した。
今の隆也ならきっと立ち直れる。ここまで何度も挫折し、そのたびに自分で立ち上がり、強くなろうと努力してきた。
剣道の試合には勝てなかったけど、きっと希望する高校には合格できる!そう信じて、ここから再び彼の姿を見守っていくことにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます