第8部『夏季休暇と智叡の女神の嬰児』プロローグ

第587話 エーゲ海、悲哀の曉

 十六年前、七月二十八日、午前五時。英雄たちの神話が息づく、美しきエーゲ海に光が浮かび上がっていく。暁の女神エオスを導き手に、太陽神ヘリオスが四頭立ての馬車を駆って天空へと繰り出していく。


 神々の聖なる加護を受ける海上を一隻の豪華客船が穏やかな水面を割って港へと向かって行く。広大な甲板の上では、恋人たちが瞳を愛に輝かせ、少し冷たい海風に負けぬほどの熱を放つ。朝を告げる喇叭の前の甘美な一時。風に乗って艶やかなヴァイオリンの音が流れてくる。新しき希望に満ちた一日のはじまりを、皆が晴れやかな気持ちで迎えている。


 そんな中、船尾で一人、太陽に背を向けて、海風に身体を晒す青年の姿があった。欄干に身体を預けるその表情は暗い。まるで、夜の女神ニュクスに呪いを受けてしまったかのように、絶望を戸惑い割ったような哀愁を滲ませている。年の頃は二十と少しであろうか。あどけなさの残るふくよかな顔は白く、夜通し泣いていたのだろうか、目は赤く腫れ、目元は隈で青紫色に染まっている。頭の後ろで束ねられたグレージュの髪が風に吹かれて背中を叩く。自分を責めたてるかのように。聞こえてくる他の乗客の楽し気な声は、彼にとって拷問に等しいものだった。


 「…………アッシュ……グレイス……どうして僕だけを残して……」


 強く吹く風に青年の悲嘆は攫われる。聡明で慈悲深き海神ネレウスは、彼の問い掛けに応えることはなかった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 「ん!確かに美味いな……これは!」

 「でしょー!双魔にも食べさせたかったんだ!」


 夏季休暇も近づいた、とある日の午後、双魔とアッシュは授業後にランチを楽しんでいた。珍しく双魔もアッシュも午後の予定が空いていたので、久々にいい機会が訪れたとばかりに、前々からアッシュに勧められていたジビエ料理の店に連れてきてもらっていた。


 双魔の感嘆は、メインディッシュかつこの店の名物であるピジョンラミエ(山鳩)のローストを食べた感想だった。薪火でじっくりと焼かれたもも肉は、肉の濃密な旨味とレバーのようなコクで食欲にガツンとくる味わいだ。そして、臭み消しを兼ねたベリーとバルサミコにスパイスを加えたソースがマッチして、たまらないハーモニーを作り出している。


 「坊ちゃんのご友人にも喜んでいただけて、狩ってきた甲斐と料理した甲斐があったというものですなぁ~、お嬢さん、フレンチフライが出来上がりましたよ」

 「おお!いただきます!だ!」


 店主の老人が朗らかな様子でティルフィングの前に山盛りのフライドポテトにアリオリソースのかかったものを持ってきた。ティルフィングは揚げたてのフライドポテトを早速口に運んで頬を緩ませている。


 「いや、本当に素材も味付けもよくて……期待していた以上です」

 「ご友人、年寄りも褒め過ぎると図に乗りますからな、お気をつけなされ。お褒めはありがたく頂戴いたしますがな!」

 「僕も久々だったから、腕が落ちてないみたいで安心したよ!」

 「いやいや、狩りは年の波が寄ってきまして……代わりに料理の腕は上がりましたがな!」


 アッシュと店主が、親し気に話すのは、店主が元々アッシュの実家で料理長を勤めていたからだ。食材はまだ卸しているようだが、会う機会は少なくなったと、ここまでの道すがら聞いていた。


 「注文いいですかー!?」

 「おっと!出番のようですな。それでは、坊ちゃんにご友人方、料理を最後まで楽しんでいってください」


 他の客に呼ばれて、店主は前掛けのポケットから伝票を取り出し、耳にかけていたペンを手に取って足早に去っていった。


 「ハフッ!ハフッ!もぐもぐもぐ……ごくん!うむ!美味だ!アイギスも来ればよかったのにな?」


 モッシャッモッシャとフライドポテトを頬張りながら、ティルフィングが首を傾げた。


 「そうだねー。けど、アイはティルフィングさんより目立つし、ジロジロ見られるのは好きじゃないから……今日は家にいるから、もしよかったら、双魔もティルフィングさんもこの後、僕の家でお茶でもどうかな?」

 「む?アッシュの家?我は行ったことがないぞ……」

 「そう言えばそうだな?いや、俺も最近行ってないが……」

 「フフッ!じゃあ、この後の予定は決まりだね!」

 「アッシュ!待つのだ!」

 「ティルフィングさん?どうしたの?」

 「まだデザートを食べていないぞ!」

 「……フフフフッ!そうだね!まずは、料理を最後まで楽しもうか!」


 ティルフィングの一言に、双魔もアッシュも思わず笑顔が零れる。双魔はナイフで肉を切り、ソースをつけて再び口に運んだ。


 「ん、やっぱり美味いな」

 「んー!やっぱり、こうやって食べちゃおうかな!あむっ!」

 「おおー!我もそれがいいな!あむっ!」


 骨に残った肉がナイフで切り取りにくくなったタイミングで、アッシュはこれがしたかったとばかりに、両手で骨付きの肉を持って齧り付いた。ティルフィングはそれを見て目を輝かせると、すぐに真似をする。


 「んじゃ、俺も……あぐっ!むぐむぐむぐ……美味い!」

 「美味しい!」

 「美味だ!」


 こうして、楽しくちょっぴりワイルドなランチタイムは緩やかに過ぎていくのだった。


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